阿麻美許曾神社(大阪市東住吉区) ・300年前の大工事で引き離された氏神

阿麻美許曾神社

2018年8月訪問
阿麻美許曾神社(あまみこそじんじゃ)は大阪市東住吉区矢田にある神社で、平安時代の書物である「延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)」に河内国丹比郡11座のうちの一つとして記載されている、いわゆる式内社と呼ばれる由緒ある神社です。

阿麻美許曾神社(大阪市東住吉区)
阿麻美許曾神社(大阪市東住吉区)

大和川南岸の松原市天美地区に食い込むように伸びる大阪市東住吉区の領域に鎮座することでも有名で、鳥居に至る参道も含めて見どころの多い神社といえます。





歴史と概要

阿麻美許曾神社の正確な創建年は不祥ですが、社伝によれば、平安時代の初期にあたる大同年間(806年~810年)の創建とされています。しかし、実際にはそれよりも古くからあったとの説も有力なようです。

現在の御祭神は素盞鳴尊、天児屋根命、事代主命の三柱ですが、もともとは別の神が祀られていた説もあります。かつては「阿麻岐志(あまぎし)の宮」や「七郷の宮」、また江戸時代には神仏習合により御祭神の素盞鳴尊(牛頭天王)から「天王」とも呼ばれていました。ちなみに、2kmほど南南東にある布忍神社の御祭神はこちらから迎えられたとも。

阿麻美許曾神社(大阪市東住吉区)
下高野街道から見た神社

7~8世紀頃、河内国丹比郡依羅(よさみ)郷と呼ばれたこの付近は依羅氏という古代氏族の居住地であったと考えられており、この依羅氏が当社を創建したともいわれています。

依羅という地名はこの松原市天美地区周辺の他、隣接する摂津国住吉郡大羅郷(おおよさみごう。現在の大阪市住吉区我孫子・庭井周辺)にもみられ、現在も住吉区庭井には大依羅神社が鎮座している他、松原市田井城の田坐神社も依羅氏に関係しているともいわれています。

依羅氏に関しては、古事記では第9代開化天皇皇子の建豊波豆羅和気王(たけとよはずらわけのきみ)を「依網(依羅)之阿毘古(あびこ)」の祖と記しています。一方、新撰姓氏録では開化天皇皇子の彦坐命を「依羅宿禰(すくね)」の祖とし、日下部宿禰と同族としている他、饒速日命を氏祖とする神別の依羅連・物部依羅連や、朝鮮半島南西部にあった百済の国人素禰志夜麻美乃君を氏祖とする諸蕃の依羅連らの記載もあるなど様々な系統があったようです。

後に、この地域が中臣氏の支配地域となったことから、中臣の祖、大小橋命の子である阿摩比古命(あまのひこのみこと)が主祭神だったとする考えもあります。

一方、先代旧事本紀に物部氏の彦己蘓根命(ひこみそねのみこと)が河内の国造に任じられ「丹比の天見丘に葬る」と記述されていることから、元の祭神は彦己蘓根命が祭神であったものを、物部氏が滅んだ後にこの地を支配した中臣氏が祭神を入れ替えた可能性がある、という説もあります。

以上のように、大阪市東住吉区や松原市の関連サイトも含め様々な説が紹介されていますがいずれも確証はなく、創建年、創建者、御祭神など謎の多い神社ともいえます。しかし、阿麻美許曾神社という社名が松原市の天美地区の地名の由来となったのは確かなようです。

阿麻美許曾神社(大阪市東住吉区)
南側鳥居の側にある説明板

平安時代後期の大治2年(1127年)2月15日に、大和国春日大社から春日神(天児屋根命)を勧請したとも伝わっています。

境内には明治の初めまで「天見山」の山号を持つ神宮寺がありましたが、廃仏毀釈により廃寺となりました。しかし、現在も神社の南と東には同寺の山門が残っており神仏習合の歴史を見ることが出来ます。また、拝殿前の一対の狛犬の台座には「天見山」「阿闍梨快道之代」「文化四年九月」の銘がありることから、社僧が文化4年(1807年)に建立したことがわかります。

明治5年(1872年)に旧社格で郷社に列格し、明治40年(1907年)に神饌幣帛料供進神社に指定されています。


松原市に囲まれた大阪市

前述のように、阿麻美許曾神社は大和川左岸(南岸)の松原市の天美地区に囲まれた場所に鎮座していますが、住所は大阪市東住吉区矢田7丁目となっています。当社は江戸時代までは河内国丹北郡枯木村(後の中河内郡矢田村)に属する神社で、氏子地域は今の矢田地区(枯木村・矢田部村・富田村)、天美地区(城蓮寺村・池内村・芝村・油上(ゆかみ)村)まで広がっていたことから「七郷の宮」とも呼ばれていたそうです。

ところが、宝永元年(1704年)に大和川の川違え(付け替え)工事が行われ、村の中を新たな大和川が流れることになり、氏子地域は南北に分断されてしまいました。この結果、南岸に残された形となった氏子地域の大半は後の松原市となる側に編入されることになりましたが、当神社は矢田村(旧枯木村)の氏神であった為に、矢田村に残留しました。

矢田村の略歴としては、明治22年(1889年)に丹北郡住道村、矢田部村、枯木村、富田新田が合併して矢田村が発足しますが、明治29年(1896年)に所属郡が中河内郡となります。この頃の当社鎮座地は矢田村大字枯木字福井の天美丘となっています。その後は、昭和30年(1955年)に大阪市に編入され東住吉区の一部となったことから、同日中河内郡矢田村は廃止となりました。

一方、現在の松原市側にあたる氏子地域の略歴は、明治22年に丹北郡池内村、城連寺村、油上村、芝村、そして氏子地域外の我堂村、堀村の区域をもって天美村が発足。こちらも明治29年に中河内郡所属となります。その後、昭和22年(1947年)に天美村が町制施行して天美町となり、昭和30年に松原町、布忍村、恵我村、三宅村と合併して松原市が発足しました。


以下に、現在の東住吉区矢田7丁目の地図を貼っておきます。



このような経緯から、阿麻美許曾神社は現在も大阪市東住吉区矢田7丁目に属していますが、地図を見ると、神社からさらに南に細長く大阪市の市域が続いています。これは当社南側の鳥居から一直線に伸びている参道に相当する部分で、下高野街道と重なって南に630mほど細長く松原市に食い込んだ大阪市市域となっています。

日本経済新聞の平成29年(2017年)5月17日の記事によると、ここは大和川の付け替え工事以前の西除川の堤防でもあった部分で、その上を通る街道(参道)を旧矢田村が管理していたことから道も大阪市に残ったようです。戦前、この道の南端には鳥居が立っていたそうですが、今回は痕跡を見つけられませんでした。

同様に、大和川南岸の大阪市市域として、松原市の大堀八幡神社の西隣に大阪府立平野高校がある平野区長吉川辺4丁目の例もあります。また、藤井寺市の黒田神社も大和川の付け替えで氏子地域が分断されています。

ちなみに、福島県喜多方市の飯豊山神社(いいでさんじんじゃ)の参道は、新潟県と山形県の県境を縫うように約7.5kmもあるそうです。

なお、松原市天美地区の旧丹北郡城連寺村・池内村・油上村・芝村の氏神は現在も阿麻美許曾神社となっています。

●阿麻美許曾神社の旧参道について詳しくは →【南河内探訪】阿麻美許曾神社の参道(松原市・大阪市東住吉区) ・松原市に囲まれた細長い大阪市?

祭礼など

正月8日の八日戎は壮麗で、7月16、17日の夏祭、10月16、17日の秋祭では氏子は勿論、遠くからの参詣者も多く終日賑わうそうです。

阿麻美許曾神社(大阪市東住吉区)
複数ある見事なクスノキの一本

また、近年では「開運松原六社参り」といって、元旦から15日までに松原市内の五社と近隣の一社(阿保神社・阿麻美許曾神社・我堂八幡宮柴籬神社布忍神社屯倉神社)を参詣し開運を願う行事が注目されていますが、この時に巡る六社の一つに松原市以外の神社として唯一数えられるなど、初詣にも人気の神社となっています。

境内

現在は「大和川にかかる下高野橋の南詰に鎮座」という表現になりますが、大和川の付け替え前から鎮座地は「天美丘」と呼ばれていたようです。

阿麻美許曾神社(大阪市東住吉区)
南側の鳥居

本殿、拝殿、鳥居、参道などは、ほぼ南(やや南南東)に向いており、前述のように参道は南の山門前鳥居から600mほど一直線に続いています。

阿麻美許曾神社(大阪市東住吉区)
南側の社号標

南側鳥居の左手に「郷社 阿麻美許曽神社」の社号標が建っています。フェンスの向こうなので、神社西隣りの駐車場の敷地内にあるようですが、昭和の頃の航空写真を見ると、この駐車場も、北東の特別養護老人ホームの敷地も当社の境内だったようです。

阿麻美許曾神社(大阪市東住吉区)
南側山門

南側鳥居をくぐるとかつての神宮寺の山門があります。

阿麻美許曾神社(大阪市東住吉区)
巨大な御神木が並ぶ境内

南側山門を抜けて境内に入ると正面に拝殿が見えますが、まず多くの木々に目を奪われます。手前の特に大きな数本の木は、樹齢500年ともいわれる楠で、大阪市条例により保存樹林に指定されています。

阿麻美許曾神社(大阪市東住吉区)
手水舎

境内を中ほどまで進むと、右手に手水舎があります。

阿麻美許曾神社(大阪市東住吉区)
鳥除けの付いた水盤

こちらの水盤の周りは金網などで囲われており、「烏や鳩などが水浴びをして手水を汚します。ご使用のあとは扉を閉め安全のため必ずカンヌキをして下さい」との注意書きが。

阿麻美許曾神社(大阪市東住吉区)
拝殿手前左手に社務所

さらに拝殿に進むと、左手に社務所、そして正面の拝殿手前に注連縄石(注連柱)が建っています。これは、日露戦争終結2年後の明治40年(1907年)に、若宮春隆宮司が現大阪市東住吉区矢田地区や松原市天美地区より出征した氏子の人々の名を刻み日露戦役従軍を顕彰したものです。

阿麻美許曾神社(大阪市東住吉区)
拝殿

神宮寺の山号である「天美山」と彫られた台座からこちらを見ている狛犬の置くに拝殿があります。拝殿は江戸時代末期の文久3年(1863年)に建てられたものです。

阿麻美許曾神社(大阪市東住吉区)
御祭神を記した額

拝殿の額には、中央に「素盞嗚尊」と大きく書かれ、右に小さく「天児屋根命」、左に「事代主命」と書かれています。

阿麻美許曾神社(大阪市東住吉区)
拝殿内部

賽銭箱の並ぶ拝殿の奥には幣殿があり、その向こうに本殿が僅かに見えます。

阿麻美許曾神社(大阪市東住吉区)
奥に見えるのが阿麻美造の本殿

拝殿に向かって右手から本殿の上部を見ることが出来ます。阿麻美許曾神社の本殿は独特の阿麻美造と呼ばれるもので、昭和35年(1960年)に再建されました。

阿麻美許曾神社(大阪市東住吉区)
素釜三寶荒神社とクスノキ

境内にはいくつかの境内社がありますが、全て参道の右手(東側)にあります。そして、南の鳥居、山門から入って最初の巨樹の根元にあるのが素釜三寶荒神社です。

阿麻美許曾神社(大阪市東住吉区)
素釜三寶荒神社の鳥居

素釜三寶荒神社には大きめの鳥居もあります。三宝荒神(さんぼうこうじん、さんぽうこうじん)とは、日本の仏教における特有の信仰対象の一つで、仏法僧の三宝を守護し、不浄を厭離(おんり)する佛神だそうです。

阿麻美許曾神社(大阪市東住吉区)
金刀比羅社(左)と納札社(右)

三寶荒神社から拝殿方向へ進み、東門への道、御神木を過ぎると納札社と金刀比羅社があります。

阿麻美許曾神社(大阪市東住吉区)
遥拝所?

その左手には、変わった遥拝所?と彫られた石造りの額を持つ鳥居があり、その奥に磐座?が祀られています。方角的に東北東に向いているようです(皇居?)。

阿麻美許曾神社(大阪市東住吉区)
天照皇大神宮

さらにその左には天照皇大神を祀る境内社が鎮座しています。

阿麻美許曾神社(大阪市東住吉区)
稲荷神社

また、拝殿に向かって右隣りには赤い鳥居が並ぶ稲荷神社があります。

阿麻美許曾神社(大阪市東住吉区)
神馬

稲荷神社からさらに右の方にあるのが神馬です。

阿麻美許曾神社(大阪市東住吉区)
「行基菩薩安住之地」の碑

南の山門から拝殿に向かう参道には途中で右(東)の方に向かう道があり、その向こうには東の山門が見えます。

この地には、奈良時代の高僧で、今の堺出身の行基が居住していたという伝承が江戸時代頃からあったことから、東の山門に向かう途中には「行基菩薩安住之地」の石碑が建っています(行基池もあったとか)。実証されてはいませんが、行基が河内でも多くの活動を行っていた事からこのような伝承が生まれたのかもしれません。現在、当社北西の大和川には「行基大橋」という橋が架かっています。

阿麻美許曾神社(大阪市東住吉区)
境内から見た東側山門

東門は、南門とともに神仏習合の名残です。

阿麻美許曾神社(大阪市東住吉区)
東側の鳥居と山門

東門の外側にも石造りの鳥居があります。こちらの社号標石は昭和10年(1935年)に建立されたもので、春日大社の江見清風宮司の揮毫によるもので、これは、明治時代前半に前出の若宮氏が春日大社禰宜職から出仕したためだそうです。

阿麻美許曾神社(大阪市東住吉区)
「大阪市西成区木田町一の六」の石板

東側山門から続く壁には「大阪市西成区木田町一の六 昭和三十一年五月吉日」の石板がはめ込まれていますが詳細は不明です。

アクセス

近鉄南大阪線「河内天美」駅の西側出入口から線路を右に見ながらに北(阿部野橋・大和川方面)に250mほど歩き、突き当り(次の踏切)で左折。そこから350m進むと信号のある交差点に出るのでそこを右に曲がると旧参道で松原市に囲まれた大阪市東住吉区の道路です。あとはその道を北に600m少々進むと阿麻美許曾神社です。

松原市内公共施設循環バス「ぐるりん号」西ルートの「天美西3丁目」バス停で下車すると80mほど北に当社の神門があります。

阿麻美許曾神社(大阪市東住吉区)
鳥居右手の駐車場入口

車で行く場合は、府道26号の「三宅北ランプ」と「天美西三」の間にある「天美北七」交差点を北に入って200mほど進み、左前方に「阿麻美許曾神社」の看板のある交差点を左折します(大和川に架かる下高野橋からも南に200m少々でその交差点なので右折します)。すぐに右側に神社が見えるので、鳥居の手前から境内の参拝者専用駐車場に入れます。

Amamikoso Shrine(Higashisumiyoshi Ward,Osaka City,Osaka Prefecture)


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