2018年12月5日水曜日

千代田神社(河内長野市) ・菅公を祀る天神さんと江戸にちなんだ地名

千代田神社

2018年7月訪問
千代田神社(ちよだじんじゃ)は大阪府河内長野市市町(いちちょう)にある神社です。鎮座地は河内長野市北部、国道170号(旧道)や近鉄長野線の線路から少し西、富田林市との境から南に300mほどの距離で、境内にはたくさんの木々があり、周辺は静かな住宅街となっています。

千代田神社(河内長野市)
千代田神社(河内長野市)

「菅原神社」とも呼ばれるこちらの神社は、その名の示す通り学問の神様「天神さん(=菅原道真)」を祀っており、秋のだんじり祭り以外にも近年は「天神祭(てんじんさい)」というイベントを開催するなど地域の人々と密着した神社ともいえます。

※今回の訪問時は7月の「天神祭」直前の準備中で、普段は無いステージやテントが写っています。また、9月の台風21号では多数の倒木や建物の被害があったそうなので、一日も早い復旧をお祈りいたします。



歴史と概要

千代田神社の正確な創建年は不明です。主祭神は菅原道真公ですが、他に天児屋根命、底筒男命、蛭子命、足仲津彦命(仲哀天皇)、気長足姫命(神功皇后)、稲田姫命も祀られています。また、末社として皇太神社、八幡神社、戎神社があります。

由緒書きやホームページによると、江戸時代の享和元年(1801年)頃の書物「河内名所図絵」に「天神祠 市村に在り 寺を法幢寺といふ 本尊十一面観音は聖徳太子御作也長一尺七寸 神木に膝行松(いざりまつ)といふなり」と記されている他、宝暦13年(1763年)正月の「神主宮勤致数覚」という記録に「天満宮」と記されています。

それ以前の古い記録は現存していないものの、御神体である菅原道真公の座像は桧材で造られた平安末期の作といわれ、この附近に住んでいた人々の祖先の神とされる他の一体の御神体も同時代の作とされています(鎌倉時代の説も?)。これらのことから、創建は平安時代に遡るとも考えられています。

千代田神社(河内長野市)
由緒記

江戸時代に市村(いちむら・現在の市町)の5軒の家が宮座を組織し、毎年交代で祭祀を掌ってきましたが、明治時代に専任の神主が神事を執り行うこととなり今日に至っています。

明治22年(1889年)4月1日に、市村、市村新田(現在の木戸町)、向野村(現在の向野町)の三村が合併して市新野村(いちしのむら)となりましたが、 氏神はそれぞれ市村は菅原神社、市村新田は木戸神社(御祭神は足仲津彦命、気長足姫命、菅原道真公)、向野村は伊予神社(御祭神は稲田姫命)と別れていました。しかし、明治40年(1907年)10月19日に木戸神社 と伊予神社の御祭神をこの菅原神社に合祀、翌41年12月には神饌幣帛料供進神社(しんせんへいはくりょうきょうしんしゃ)となりました。ちなみに、神饌幣帛料供進神社とは、知事から郷社・村社を対象に、祈年祭、新嘗祭、例祭に神饌幣帛料(いわゆる捧げもの等)を供進された神社のことを指します。

2018年11月27日火曜日

薄田隼人正兼相の墓(羽曳野市) ・大坂夏の陣で奮戦した武将最期の地

薄田隼人正兼相の墓

2018年4月訪問
薄田隼人正兼相(すすきだはやとのしょうかねすけ)の墓は大阪府羽曳野市誉田にある戦国時代から江戸時代初期の武将の墓所です。

薄田兼相(すすきだかねすけ)は、豊臣秀吉・秀頼に仕えた豪傑で隼人正(はやとのしょう)は通称です。その前半生はほとんど不明ながら、大坂の陣での活躍などで知っている方も多いと思われます。

薄田隼人正兼相の墓(羽曳野市)
薄田隼人正兼相の墓への入口(羽曳野市)

大坂の陣での兼相

【冬の陣 博労淵の戦い】兼相は豊臣氏に仕官し秀吉の馬廻り衆となりますが、その死後は秀頼に仕え慶長19年(1614年)の大坂冬の陣を迎えます。冬の陣では浪人(牢人)衆を率いて博労ヶ淵(現在の大阪市西区立売堀付近、西長堀駅の北側)に築いた砦の守備を任されますが、11月29日未明に徳川幕府軍の蜂須賀勢が砦を責めた時は遊郭に出かけ不在でした。このため、指揮官不在の博労ヶ淵砦は統制も取れずあっさりと奪われ、兼相は同日に野田・福島の戦いで大敗した大野治胤と並び味方から「橙武者(だいだいむしゃ)」と呼ばれることになります。これは、橙は大きい割には中身は酸味が強過ぎ正月飾りにしか使えないことから、「見かけ倒し」を意味するとされます。

薄田隼人正兼相の墓(羽曳野市)
当史跡の説明板

【夏の陣 道明寺・誉田の戦い】翌慶長20年(1615年)に発生した大坂夏の陣に、兼相は汚名返上を期して臨みます。5月1日、大和路から大坂城を目指す幕府軍を阻止するため、後藤基次(又兵衛)、毛利勝永、真田信繁(幸村)らとともに兼相も出陣。河内国平野で宿営した豊臣軍は5月5日未明、迎撃に有利な国分村(現在の柏原市の一部)に向け進発しますが、他の諸将が濃霧で遅れる中、後藤基次の部隊のみ夜明け前に道明寺に到着。基次は石川を渡り小松山(現在の玉手山公園周辺)に布陣し幕府軍を攻撃。約8時間にわたり奮戦しますが正午頃に基次は戦死します。

その頃、基次と同じ前隊の兼相をはじめ、明石全登、山川賢信らが道明寺に到着し幕府軍を迎え撃ちます。兼相は、誉田八幡宮付近の誉田林に陣を構え、幕府軍の水野勝成、伊達政宗、本多忠政といった名だたる大名の大軍を相手に、自ら太刀を振るい乱戦の中で自ら何人もの敵兵を倒しましたが、ついに力尽きて戦死しました。討ち取ったのは水野勝成の家臣である河村重長や、本多忠政勢、伊達政宗家臣の片倉重長勢など諸説ありはっきりとはわかりません。



墓所の概要

羽曳野にある薄田隼人正兼相の墓は、道明寺と誉田八幡宮との中間、旧東高野街道と国道170号(旧道)の交わる地点の東、西名阪自動車道の少し西にあります。

薄田隼人正兼相の墓(羽曳野市)
国道から駐車場を抜けるとあと100mほど

国道沿いに設置してある看板を頼りに、駐車場の間を通り細い道を抜けると民家と畑に囲まれた場所に整備された誉田史跡公園が見えてきます。

薄田隼人正兼相の墓(羽曳野市)
誉田史跡公園

誉田史跡公園は、薄田隼人正兼相の墓と供養塔を中心に整備されたもので、他に複数の灯籠や石碑などがあります。

薄田隼人正兼相の墓(羽曳野市)
薄田隼人正兼相の墓

石碑によると、この墓地は明治18年(1885年)に子孫にあたる広島藩主浅野家の一族によって建立され、平成8年(1997年)に羽曳野市に寄贈されました。現在は羽曳野市の「有形文化財」として保存されています。
この他に、兼相の墓は大阪市天王寺区の増福寺にもあります。

薄田隼人正兼相の墓(羽曳野市)
大坂夏陣奮戦跡の石碑

薄田隼人正兼相という人物は、「橙武者」という不名誉な渾名がある一方で、兼相流柔術や無手流剣術においては流祖とされるほどの剛勇の武将として知られています。また、天橋立で父の仇を討ち果たした逸話や狒々(ひひ)退治の伝説で知られる武芸者・岩見重太郎(いわみじゅうたろう)と同一視する説も有名です。

薄田隼人正兼相の墓(羽曳野市)
公園入口の石碑

近年では、平成28年(2016年)放送のNHK大河ドラマ「真田丸」にて誉田・道明寺の戦いが描かれ、羽曳野市も六文銭の幟などを縁の地に掲げましたが、ドラマに兼相は登場しませんでした。

アクセス

最寄駅は近鉄南大阪線「道明寺」駅ですが、「古市」駅からでも徒歩の距離はどちらも11.4kmほどで変わりません。いずれも一旦国道170号(旧道)に出たほうが迷いにくいです。
道明寺方面からは国道を南下し、西名阪自動車道の高架をくぐり、ケーエム工業株式会社のビルを過ぎると左手に「薄田隼人正兼相の墓」への看板があります。古市方面からは国道を北上し、スーパーサンプラザ誉田店、ミツワ電気工業株式会社の第二工場、本社を過ぎると右手に「薄田隼人正兼相の墓」への看板が見えます。

薄田隼人正兼相の墓(羽曳野市)
墓所から200m少々西にある東高野街道の石碑

公園に専用駐車場がないので、駅周辺でコインパーキングなどを利用するのが良いかと思われます。
また、近くの東高野街道を歩くと道明寺や道明寺天満宮、応神天皇陵、誉田八幡宮などを訪ねるのにも便利です。

The grave of Susukida hayatonosyou Kanesuke(Habikino City,Osaka Prefecture)

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2018年11月12日月曜日

壹須何神社(南河内郡河南町) ・蘇我氏・石川氏ゆかりの式内社

壹須何神社

壹須何神社(いちすかじんじゃ)は大阪府南河内郡河南町一須賀にある神社で、壱須何神社、一須賀神社とも表記されます(以後基本的に一須賀表記)。平安時代の書物である延喜式神名帳に記載されている式内社で河内国石川郡9座の内の一つです。

壹須何神社(南河内郡河南町)
壹須何神社(南河内郡河南町)

一須賀神社は、有名な富田林市の寺内町から東に約2km離れた河南町の高台の上にある寺内町「大ヶ塚(だいがづか)」の西端に鎮座しており、寺内町ということで周囲は独特の雰囲気のある静かな住宅地となっています。



歴史と概要

一須賀神社の創建年や由緒は不詳ですが、かつて石川にほど近いこの一帯が蘇我氏の末裔である石川朝臣の本拠地であったことから、宗祖である蘇我石川宿禰を祀るなど高い関連性があったと考えられています。蘇我氏と石川といえば、大化の改新で有名な蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)の名も連想させます。

かつてこの地は河内国石川郡石川村と呼ばれており、現在でも一須賀、大ヶ塚周辺では公園などに石川の名を見ることができます。

鎮座地は河南町の一須賀、東山から太子町の葉室にかけての丘陵上にある「一須賀古墳群」の一角であることから、元は古墳の上にあったとの説もあります。また、一須賀古墳群北側の磯長谷地域には蘇我氏との関わりの深い敏達天皇、用明天皇、推古天皇、聖徳太子の陵墓伝承地もあることから蘇我氏とこの一帯が深く結びついていたことを窺わせます。

壹須何神社(南河内郡河南町)
東側鳥居側の由緒書きなど

現在は大己貴命(おおなむちのみこと=大国主)・天照大神・天児屋根命・品陀和気命を主祭神としていますが、これらは江戸時代初期から前期にかけて祀られるようになったと考えられています。
さらに、石川村大字東山(現河南町)の菅原神社から天滿大自在天神を、大伴村大字南大伴(現富田林市)の降旗神社から天之忍日命(あめのおしひのみこと)・日子番能邇邇芸命(ひこほのににぎのみこと)・日子穂穂手見命(ひこほほでみのみこと)・彦波瀲武鵜鵜草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)・神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと=神武天皇)を合祀しています。

壹須何神社(南河内郡河南町)
由緒書きの表記は「壱須何神社」

蘇我氏系の石川氏が平安時代の初期に衰退した後、一須賀神社より2kmほど北の通法寺・壷井付近を本拠とする河内源氏が栄えます。

その末裔である石川源氏はこの辺りを治めますが、治承4年(1180年)に平清盛は源義家以来の河内の石川源氏に止めを刺すべく、源大夫判官季貞(飯富季貞)、摂津判官盛澄(平盛澄)らを派遣してこの地にあったとされる石川城を攻撃します。これは石川城合戦とも呼ばれ、河内石川源氏棟梁の源義基の長男義兼(石川義兼)は河内石川源氏の棟梁として、叔父の紺戸義広や二条義資らを率いて決死の防戦に努め、平家方に対し善戦しますがやがて力尽きて落城。

2018年10月27日土曜日

美具久留御魂神社(富田林市) ・大国主命を祀り水を護る神社

美具久留御魂神社

2018年8月訪問
美具久留御魂神社(みぐくるみたまじんじゃ)は大阪府富田林市宮町にある神社です。富田林市外の人にはあまり聞きなれない社名かも知れませんが、南河内随一の神域の広さを誇る当社は「延喜式神名帳」という平安時代の書物に河内国石川郡9座のうちの一つとして名前のある式内社でもあります。

美具久留御魂神社(富田林市)
美具久留御魂神社(富田林市)

鎮座地は富田林市の北部、石川左岸の丘陵の麓であり、少し東には狭山池同様に古くから地域の農業を扶けてきた人口のため池「粟ヶ池(あわがいけ)」があります。この粟ヶ池は紀記に記載がある仁徳期の丸邇(わに)池(古事記)、和珥(わに)池(日本書紀)であるともいわれ、古代からこの周辺が重要な地域であったと考えられます。



歴史と概要

社伝によれば、美具久留御魂神社が創建されたのは第10代崇神(すじん)天皇の10年(紀元前88年)だったとされています。これには、この地にしばしば大蛇が出没し民を悩ませたので、崇神天皇自ら視察して「これは大國主命の荒御魂の荒振るなり宜しく祀るべし」として大国主命を祀らせたことに始まるというエピソードもあります。

その後、崇神天皇60年(紀元前38年)丹波国氷上郡の氷香戸辺(ひかとべ・女性)の小児が神懸かりして「玉萎鎮石(たまものしずいし) 出雲人祭(いずもひとのまつる) 真種之甘美鏡(またねのうましかがみ) 押羽振甘美御神(おしはふるうましみかみ) 底宝御宝主(そこたからみたからぬし) 山河之水泳御魂(やまかわのみくくるみたま) 静挂甘美御神(しずかかるうましみかみ) 底宝御宝主也(そこたからみたからぬしなり)」という神託がありました。天皇は直ちに皇太子の活目入彦命(いくめいりひこのみこと=後の垂仁天皇)を河内国支子(きし)に遣わして祀り、「美具久留御魂(みくくるみたま)」の名を贈り相殿に四神を配祀したということです。

本殿の裏には真名井ヶ原と呼ばれる丘陵があり、その頂上付近には4基からなる古墳群もあります。この丘陵は神体山(神奈備山)とも呼ばれ山そのものが御神体となっています。これは有名な奈良の大神神社と三輪山のような関係で、共通点も多い神社といえます。また、摂社末社も多数あります(後述)。

美具久留御魂神社(富田林市)
美具久留御魂神社略記

美具久留御魂神社の主祭神は美具久留御魂大神(大国主命)で、左殿に天水分神(あめのみくまりのかみ)、弥都波迺売命(みずはのめのみこと)、右殿に国水分神(くにのみくまりのかみ)、須勢理比売命(すせりひめのみこと)を配祀しています。

千早赤阪村に鎮座し、同様の神を祀る建水分神社を上水分社と呼ぶのに対し、当社は下水分社(しものすいぶんのやしろ)とも呼ばれました。また、八尾市の恩智神社を下水分とする場合は当社を中水分と呼んだそうです。

このように「美具久留御魂」という名は「水泳御魂(みくくるみたま)」であり、建水分神社同様に水を司り、水を土地に配分する神を祀るということに由来すると考えられています。

また、江戸時代の「五畿内志」の一つ「河内志」とそれを引いた「河内名所図絵」では「和爾(わに)池」が喜志村にあるとし、美具久留御魂神社について、「喜志村和爾ノ池の西にあり、一名、和爾神社」としています。

美具久留御魂神社(富田林市)
美具久留御魂神社説明板

当社は歴代天皇からの崇敬が厚く、文徳天皇の嘉祥3年(850年)には神階を従五位上に進められ、光孝天皇は河内大社の勅額を奉納されたそうです。延喜式には官幣社に列せられ「河内国二の宮」「石川郡の総社」とも称せられました。また、平安時代末期にはすでに神域に幾つかの神宮寺がありました。

鎌倉時代末期、鎌倉方が赤坂城を攻めた時、喜志にあった西条城と共に焼き払われましたが、間もなく再建され、南北朝時代には南朝歴代の信仰も厚く戦乱の間にも朝廷はしばしば参拝されたり、社殿を造営するなどして治世の安泰を祈願しました。また楠木氏は、前述の上水分社(建水分神社)と共に、下水分社である当社を氏神として寄進するなどして篤く信仰しました。

室町時代には下之坊をはじめ11坊、天正の頃には17坊を擁する神仏の霊場となっていたようですが、天正13年(1585年)、豊臣秀吉の根来寺攻めの兵火により社殿を焼失し、以後神宮寺が再び建つことはありませんでした。その後江戸時代に入った万治3年(1660年)に社殿が再建されました。

明治5年(1872年)には郷社に列格し、近隣の村々の氏神を合祀しました。平成6年(1994年)、氏神崇敬者の篤志により、本殿・摂末社および拝殿・社務所等の大改築がなされ、同8年(1996年)に完成しました。

美具久留御魂神社(富田林市)
美具久留御魂神社案内図

神宝・文化財等

美具久留御魂神社の神宝は日本神話に登場する須佐之男の秘蔵の神器である生大刀(いくたち・生太刀とも)・生弓矢(いくゆみ)とされます。
神話によると、大穴牟遅(おおなむち、後の大国主)は根之堅州国(ねのかたすくに)で須佐之男から須勢理毘売と生太刀、生弓矢、天詔琴(あめののりごと)を奪って葦原中国(あしはらのなかつくに)まで逃げ、そこで反抗する八十神をこれらで倒した後に葦原中国を平定し、大国主と名乗ったとされます。
生太刀はもともとは出雲大社の神剣でしたが、現在は当社で祀られています。

また、下拝殿右殿には「朝鮮通信使の絵馬」が掲げられています。これは天和2年(1682年)に友好親善使節として李氏朝鮮から日本へ派遣された第7回朝鮮通信使の船旅の様子を描いたもので、元禄8年(1695年)に喜志櫻井村から奉納されたものです。

境内とその周辺

美具久留御魂神社の神域は南河内随一の広さですが、一の鳥居は一般的な境内への入口と思われる注連柱からさらに500mほど東にあります。

2018年10月6日土曜日

応神天皇陵(羽曳野市) ・八幡神の眠る古市古墳群最大の古墳

応神天皇陵

2018年7月訪問
応神天皇陵(おうじんてんのうりょう)は大阪府羽曳野市誉田にある前方後円墳で、考古学的には「誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)」または、「誉田山古墳(こんだやまこふん)」とも呼ばれてます。古市古墳群最大の古墳で、堺市の百舌鳥古墳群の仁徳天皇陵(大仙陵古墳)に次ぐ全国第2位の規模の巨大古墳として有名です。

応神天皇陵(羽曳野市)
応神天皇陵(羽曳野市)

国道170号(外環状線)や近鉄線からも見ることのできるこの応神天皇陵の北側には宮内庁書陵部の古市陵墓監区事務所が置かれており、歴史ファンにとっても古市古墳群、さらには南河内の古墳、特に天皇陵を巡る旅の起点となる重要な古墳といえます。



歴史と概要

応神天皇陵が築造されたのは古墳時代中期の5世紀前半と考えられており、実際の被葬者は明らかではありませんが、宮内庁により「惠我藻伏崗陵(えがのもふしのおかのみささぎ)」として第15代応神天皇の陵に治定されています(応神天皇の陵としては別に、堺市の御廟山古墳が「百舌鳥陵墓参考地」として治定されています)。

古市古墳群最大の前方後円墳で、墳丘は三段に積み重ねられ、斜面には一面に石が葺かれていますが、現在は樹木で覆われているため山のようにも見えます。その大きさは墳丘長約425m、後円部直径250m、後円部高さ35m、前方部幅300m、前方部高さ36m、濠や堤も入れた最大長は700m前後あります。当古墳は、墳丘長486mとされた仁徳天皇陵に次いで大きさでは2番目ですが、古墳を築造したときに使用した土の量は約143万立方メートル(ダンプカー17万台相当)にものぼり、大仙古墳を上回り1位とされています。
しかし、平成28年(2016年)度の宮内庁の三次元測量調査で仁徳陵の墳丘長が525mに訂正されたことや、応神陵の規模についても諸説あり、今後この順位も変わるかもしれません。

応神天皇陵(羽曳野市)
応神天皇陵の説明板(陵墓監区事務所前)

地図や航空写真を見るとよくわかりますが、応神天皇陵の形は一般的なイメージの前方後円墳に比べ少し歪に見えます。これには主に二つの理由があって、一つ目は応神陵東側の二ツ塚古墳(ふたつづかこふん)が応神陵より30~50年早く造られていたために、内濠と内堤が、この古墳を避けるよう築造され、外濠も同古墳手前で途切れているためです。
二つ目の理由は応神陵の真下を誉田断層が走っており、この断層のずれが原因と思われる地震により前方部の西側が大きく崩れているためです。

くびれ部の両側には造り出しを備え、テラスと呼ばれる平坦な部分には約2万本の円筒埴輪が立て並べられていたと考えられています。出土遺物には円筒埴輪や盾・靫(ゆぎ)・家・水鳥などの形象埴輪の他に、蓋形(きぬがさがた)木製品やクジラ、イカ、タコなどの特殊な土製品もあります。

墳丘周囲の濠と堤は前述のように、東側では先に造られた二ツ塚古墳があって形が歪んでいますが、西側では幅約50m、高さ約3.5mの内堤の外側に二重目の濠と堤の跡が幅60mに渡り良く残っており、古墳の間際まで建物が密集する他の方角に比べ、応神陵古墳の長大な範囲を確認することができます。
内濠と内堤より内側は宮内庁によって管理されていますが、外濠、外堤は昭和53年(1978年)に国の史跡に指定されました。

応神天皇陵(羽曳野市)
 南側にある史跡応神天皇陵古墳外濠外提の説明板(2018年9月)

応神天皇陵から西に約11kmの距離にあるのが仁徳天皇陵で、応神天皇(略歴は後述)は仁徳天皇の父親です。二つの古墳は向きこそ違いますが、ほぼ同緯度にあり、日本最古の官道といわれる竹内街道もこれらを結ぶように走っています。このラインから数キロ北、現在の大阪府で人口の多いエリアはかつてほとんど湖や低湿地帯だったことを考えると、やはり古墳群のある地域は特別だったと感じられます。

古墳外周と陪塚

全国2位の大きさを誇る古墳ともなると一周するのにもそれなりの距離を歩く分、注目スポットも増えます。応神天皇陵は、陵域をほぼ一周する周遊路が整備された仁徳天皇陵と異なり、隣接する住宅地や地形などによって見る角度によって様々な景色を見せてくれます。

応神天皇陵(羽曳野市)
北側にある史跡応神天皇陵古墳外濠外提の説明板

全国第2位、古市古墳群最大の古墳ということで、周辺には多くの陪塚(大型の主墳の近くにあり、それに付属する規模の小さい古墳)とされている古墳が存在しています。これらの中には研究の結果、陪塚とされていながら今は独立した古墳と考えられている古墳がある一方、指定からは外れているが実は陪塚とみられる古墳もあります。また、現在は消滅してしまっているものも複数あります。

応神天皇陵(羽曳野市)
応神陵のかつての姿

応神天皇陵の拝所は前方部のある古墳北側にあります。今回は拝所から時計回りに応神陵を一周してみました。