2018年10月6日土曜日

応神天皇陵(羽曳野市) ・八幡神の眠る古市古墳群最大の古墳

応神天皇陵

2018年7月訪問
応神天皇陵(おうじんてんのうりょう)は大阪府羽曳野市誉田にある前方後円墳で、考古学的には「誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)」または、「誉田山古墳(こんだやまこふん)」とも呼ばれてます。古市古墳群最大の古墳で、堺市の百舌鳥古墳群の仁徳天皇陵(大仙陵古墳)に次ぐ全国第2位の規模の巨大古墳として有名です。

応神天皇陵(羽曳野市)
応神天皇陵(羽曳野市)

国道170号(外環状線)や近鉄線からも見ることのできるこの応神天皇陵の北側には宮内庁書陵部の古市陵墓監区事務所が置かれており、歴史ファンにとっても古市古墳群、さらには南河内の古墳、特に天皇陵を巡る旅の起点となる重要な古墳といえます。



歴史と概要

応神天皇陵が築造されたのは古墳時代中期の5世紀前半と考えられており、実際の被葬者は明らかではありませんが、宮内庁により「惠我藻伏崗陵(えがのもふしのおかのみささぎ)」として第15代応神天皇の陵に治定されています(応神天皇の陵としては別に、堺市の御廟山古墳が「百舌鳥陵墓参考地」として治定されています)。

古市古墳群最大の前方後円墳で、墳丘は三段に積み重ねられ、斜面には一面に石が葺かれていますが、現在は樹木で覆われているため山のようにも見えます。その大きさは墳丘長約425m、後円部直径250m、後円部高さ35m、前方部幅300m、前方部高さ36m、濠や堤も入れた最大長は700m前後あります。当古墳は、墳丘長486mとされた仁徳天皇陵に次いで大きさでは2番目ですが、古墳を築造したときに使用した土の量は約143万立方メートル(ダンプカー17万台相当)にものぼり、大仙古墳を上回り1位とされています。
しかし、平成28年(2016年)度の宮内庁の三次元測量調査で仁徳陵の墳丘長が525mに訂正されたことや、応神陵の規模についても諸説あり、今後この順位も変わるかもしれません。

応神天皇陵(羽曳野市)
応神天皇陵の説明板(陵墓監区事務所前)

地図や航空写真を見るとよくわかりますが、応神天皇陵の形は一般的なイメージの前方後円墳に比べ少し歪に見えます。これには主に二つの理由があって、一つ目は応神陵東側の二ツ塚古墳(ふたつづかこふん)が応神陵より30~50年早く造られていたために、内濠と内堤が、この古墳を避けるよう築造され、外濠も同古墳手前で途切れているためです。
二つ目の理由は応神陵の真下を誉田断層が走っており、この断層のずれが原因と思われる地震により前方部の西側が大きく崩れているためです。

くびれ部の両側には造り出しを備え、テラスと呼ばれる平坦な部分には約2万本の円筒埴輪が立て並べられていたと考えられています。出土遺物には円筒埴輪や盾・靫(ゆぎ)・家・水鳥などの形象埴輪の他に、蓋形(きぬがさがた)木製品やクジラ、イカ、タコなどの特殊な土製品もあります。

墳丘周囲の濠と堤は前述のように、東側では先に造られた二ツ塚古墳があって形が歪んでいますが、西側では幅約50m、高さ約3.5mの内堤の外側に二重目の濠と堤の跡が幅60mに渡り良く残っており、古墳の間際まで建物が密集する他の方角に比べ、応神陵古墳の長大な範囲を確認することができます。
内濠と内堤より内側は宮内庁によって管理されていますが、外濠、外堤は昭和53年(1978年)に国の史跡に指定されました。

応神天皇陵(羽曳野市)
 南側にある史跡応神天皇陵古墳外濠外提の説明板(2018年9月)

応神天皇陵から西に約11kmの距離にあるのが仁徳天皇陵で、応神天皇(略歴は後述)は仁徳天皇の父親です。二つの古墳は向きこそ違いますが、ほぼ同緯度にあり、日本最古の官道といわれる竹内街道もこれらを結ぶように走っています。このラインから数キロ北、現在の大阪府で人口の多いエリアはかつてほとんど湖や低湿地帯だったことを考えると、やはり古墳群のある地域は特別だったと感じられます。

古墳外周と陪塚

全国2位の大きさを誇る古墳ともなると一周するのにもそれなりの距離を歩く分、注目スポットも増えます。応神天皇陵は、陵域をほぼ一周する周遊路が整備された仁徳天皇陵と異なり、隣接する住宅地や地形などによって見る角度によって様々な景色を見せてくれます。

応神天皇陵(羽曳野市)
北側にある史跡応神天皇陵古墳外濠外提の説明板

全国第2位、古市古墳群最大の古墳ということで、周辺には多くの陪塚(大型の主墳の近くにあり、それに付属する規模の小さい古墳)とされている古墳が存在しています。これらの中には研究の結果、陪塚とされていながら今は独立した古墳と考えられている古墳がある一方、指定からは外れているが実は陪塚とみられる古墳もあります。また、現在は消滅してしまっているものも複数あります。

応神天皇陵(羽曳野市)
応神陵のかつての姿

応神天皇陵の拝所は前方部のある古墳北側にあります。今回は拝所から時計回りに応神陵を一周してみました。

2018年9月25日火曜日

熱田神社(松原市) ・切支丹灯籠もある日本武尊を祀る神社

熱田神社

2018年2月訪問
熱田神社(あつたじんじゃ)は大阪府松原市別所にある神社です。松原市周辺の神社といえば、近年初詣の「開運松原六社参り」で参拝される神社が特に話題になっていますが、こちらの熱田神社も、大阪では珍しい御祭神を祀り、隠れキリシタンの痕跡も窺える興味深い神社といえます。

熱田神社(松原市)
熱田神社(松原市)

現在当社のすぐ北側には府道187号大堀堺線が、さらに数百メートル北には阪神高速14号松原線や大和川が東西に延びています。神社周辺は静かな住宅地で、田んぼや溜池も多い地域にあって、御神木の大楠をはじめとした木々が目を引きます。



歴史と概要

熱田神社の正確な創建年は不明ですが、主祭神はその社名から連想される愛知県名古屋市にある熱田神宮に関連する日本武尊(やまとたけるのみこと)となっています。境内には熱田神社の由緒を刻んだ石碑がありますが、そこには

この宮は、日本武尊をまつる。日本武尊は景行天皇の皇子、もと小碓命という。
御父の命により九州の熊襲をうち、熊曽建は死にのぞみ倭建の御子の名をおくる。
これより日本武尊と名のる。再び東国の蝦夷を討つ。その途伊勢神宮に詣で叔母倭姫命より、神剣を授けられ国々の悪神を討つ。
帰途伊吹山の神と戦って病を得、伊勢の熊煩野でみまかる。その霊は白鳥となり飛んで河内の志紀にとどまる。
よって御陵を白鳥の御陵という。神剣は草薙剣といい、今は愛知県の熱田神宮にまつる。
 昭和四十七年十月吉日
とほぼ日本武尊の略歴が記されているのみでした。

日本武尊とその陵墓については白鳥陵古墳の記事で触れていますが、松原市のホームページによると日本武尊を主祭神とするのは大阪府内には僅か4社のみということと、鎮座地である別所村に住む僧侶が尾張国の熱田神宮に詣でて日本武尊を祭神として勧請したという伝承があることがわかりました。

熱田神社(松原市)
熱田神社由緒の石碑

明治時代頃の地図を見ると、熱田神社は旧別所村集落の北西角に鎮座していることがわかります。神社のすぐ南東には鳳凰山頓随寺という真宗大谷派の寺院があり、西約800mには屯倉神社のある旧三宅村、東約700mには大堀八幡神社のある旧大堀村の集落があります。

2018年9月14日金曜日

志貴県主神社(藤井寺市) ・国府遺跡の側に鎮座する河内国総社

志貴縣主神社

2017年11月訪問
志貴県主神社(しきあがたぬしじんじゃ)は大阪府藤井寺市惣社にある神社です。平安時代の書物「延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)」にも名前のある、いわゆる式内社(しきないしゃ)と呼ばれる由緒ある神社で河内国志紀郡14座のうちの一つです。
鎮座地の地名にもあるように、河内国総社(惣社)とも呼ばれる当社は河内国国府があったと推定される遺跡にもほど近く、かなり重要な神社であったと思われます。

志貴県主神社(藤井寺市)
志貴県主神社(藤井寺市)

河内国総社

総社(總社・惣社)とは、特定地域内の神社の祭神を集めて祀った神社のことで、総社宮、総神社、総社神社などとも呼ばれます。郡・郷・村・荘園といった比較的狭い地域内の神を集めたものもありますが、大抵は国(令制国)の範囲で集めたものを指します。



律令制では各令制国のトップである国司が朝廷から派遣されてくると、最初の仕事は赴任した令制国内の定められた神社を順に巡って参拝することでしたが、村上天皇の治世である天歴(てんりゃく)年間(947年~957年)になると、時間も費用もかかることから国府の近くに総社を設け、そこに参拝することで巡回を省くことが制度化されました(惣社の制)。

志貴県主神社は河内国総社ということで、東に200mほど行くと河内国の国府があったとされる「国府遺跡」があり、地名も当社周辺は「惣社」、遺跡周辺は「国府(こう)」となっています。

歴史と概要

鳥居の側にある「志貴県主神社縁起」の石碑によると、当社の正確な創建年は不明ですが、この地に河内国の国府が設置された頃に創建されたものと考えられています。かつては「春日名神」や「惣社明神」などとも呼ばれていたようです。

主祭神は初代神武天皇の皇子で、第2代綏靖(すいぜい)天皇の同母兄にあたる神八井耳命(かんやいみみのみこと)です。他に天照大神、春日大神(天児屋命・比咩大神・武甕槌命・経津主命)、住吉三神(表筒男命・中筒男命・底筒男命)、神功皇后が配祀されています。

志貴県主神社(藤井寺市)
志貴県主神社縁起

「志貴」とは、現在八尾市の町名や駅名にも「志紀」として残っていますが、かつては藤井寺市の大部分と八尾市・柏原市の一部からなるエリアを指し、明治時代まで「志紀郡(しきぐん)」として存在していました(奈良県(大和国)にも磯城郡(しきぐん)があります)。また、「県主」とは、律令制が導入される以前の大和朝廷の職種・姓(かばね)の一つで、朝廷が直轄する地方行政区分の一つ「県(あがた)」を治めていました。

前出の縁起によると「大和時代の初期の頃、柏原付近から南の道明寺付近にかけての肥沃な水田地帯は、大和朝廷の直轄地として「河内の志貴の県(あがた)」といわれ、これを管理する豪族は神武の長子、神八井耳命を始祖とする志貴県主(しきのあがたぬし)及びその同族である志貴首(しきのおびと)であったため、これらの豪族たちが本貴地に祖神を祭る氏神として創建したものが、この神社であると考えられている」とあります。

つまり、当社はもともと志貴県を治める志貴県主とその同族の祖先である神八井耳命を祀る神社でしたが、後に河内国国府がすぐそばに置かれたため、河内国内の主だった神社の神々を合祀して河内国総社となったようです。

志貴県主神社(藤井寺市)
惣社宮の燈篭と式内志貴縣主神社の石碑

古事記には、雄略天皇が河内に行幸した際に、志貴の大県主の家の屋根に堅魚木(かつおぎ)を上げているのを見て、天皇の宮殿に似せて造ったと怒り、焼き払おうとしましたが、大県主が贈り物を献上し詫びたので許された、という話があります。

時代は下り、楠木正成が河内守(かわちのかみ)だった南北朝初期の頃には、その祈願所として社殿も再建され大いに隆盛を極めましたが、楠木氏の衰亡とともに衰微していったようです。
戦国時代末期頃には、大坂夏の陣などの兵火により社殿を焼失。江戸期に再建されるものの往時の隆盛を取り戻すことはありませんでした。明治5年(1872年)村社に列格、本殿・拝殿を再建して現在に至ります。近代に至るまでに当社は何度か遷座を余儀なくされたようで、元々の鎮座地がここでない可能性もあります。

なお、神主不在神社のため、道明寺天満宮が管理しています。祭礼は10月9日。

志貴県主神社(藤井寺市)
河内国府址の石碑

境内

志貴県主神社の鎮座地は、允恭天皇陵の北東角から北に100m少々の少し歴史を感じさせる住宅地の真ん中で、社殿、参道、鳥居と全て南向きとなっています。敷地は東西20~30m、南北50~60mとなっていて、南側の鳥居前から南へ延びる約80mの道は周囲の住宅街と違い、2車線の余裕のある直線道路となっています。この道路の南端からさらに300mほど南東に進んで国府八幡宮の近くで東高野街道につながる道は明治時代の地図でも確認できます。

志貴県主神社(藤井寺市)
真っすぐ伸びる参道

朱色の鳥居をくぐると石畳の参道が真っすぐ拝殿まで伸びています。なお、鳥居の右側には「志貴県主神社縁起」の石碑や「式内志貴縣主神社」、「河内国府址」の石碑も立っています。

志貴県主神社(藤井寺市)
手水舎

参道両側には木々が立ち並び、少し進むと右側に手水舎があります。

志貴県主神社(藤井寺市)
拝殿

拝殿までの参道には数対の石燈籠や狛犬が。

志貴県主神社(藤井寺市)
拝殿前の狛犬は江戸時代のもの

拝殿とその周辺は比較的新しいく、明るい感じがします。

志貴県主神社(藤井寺市)
真新しい感じの拝殿

拝殿の奥には白壁に囲まれた本殿があります。

志貴県主神社(藤井寺市)
拝殿前の賽銭箱

賽銭箱も比較的新しく、ステンレス製で頑丈そうです。

境内社

拝殿に向かって右側(東)に小さめの朱色の鳥居があり、その奥には境内社の「式下大神」が鎮座しています。

志貴県主神社(藤井寺市) 式下大神
境内社 式下大神

この式下大神の裏手から志貴県主神社本殿の北側にかけては市立総社児童公園という小さな公園があり、一旦神社を出て東側の道から入れます。ちなみに、東隣には了信寺という寺院もあります。

アクセス

近鉄南大阪線「土師ノ里」駅下車。上の道路に出て「土師の里」交差点を右(石川方面)へ進み、一つ目の信号(押しボタン式)のある交差点を左折、国府八幡神社の鳥居前からほぼ北に約100m進むと分岐があります。ここを道なりにやや左に曲がりながら更に200mほど先で四つ辻に出るので右折して2車線の広い道を80mほど進むと正面に鳥居があります。八幡神社を越えてからは少し道がわかりにくいので地図があると良いでしょう。

志貴県主神社(藤井寺市)
拝殿の瓦

専用の駐車場が確認できなかったので、車で行く場合は允恭天皇陵古墳北側のコインパーキングが便利かと思われます。
「土師ノ里」駅の上、国道170号線(旧道)の「土師の里」交差点を北に約400m進み、「惣社南」交差点を右(東)に入り少し進むとコインパーキングがあります。そこから更に東に200mほど歩き、左折して2車線の広い道に入ると80mほど先に鳥居が見えます。

周辺には、允恭天皇陵古墳国府八幡神社国府遺跡、黒田神社などがあるので合わせて巡るのも良いかと思われます。

Shikiagatanushi Shrine(Fujiidera City,Osaka Prefecture)


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2018年8月29日水曜日

五六七稲荷大明神(富田林市) ・寺内町にほど近い稲荷神社

五六七稲荷大明神

2018年8月訪問
五六七稲荷大明神(いむないなりだいみょうじん)は大阪府富田林市本町にある神社です。富田林駅の南側には、大阪府下唯一の重要伝統的建造物郡保存地区に指定され、江戸時代の風情を今に伝える美しい町並みの寺内町(じないまち)と呼ばれる地域があります。

五六七稲荷大明神(富田林市)
五六七稲荷大明神(富田林市)

五六七大明神は、近年観光スポットとしても整備されつつある「寺内町エリア」にありますが、厳密には昔の寺内町の内側ではなかったようです。



普通の民家と民家の間の路地の奥に鎮座している小さなお社といった印象の当社ですが、今も周囲の住民の方々から大切に祀られているようです。

五六七稲荷大明神(富田林市)
上には神馬の額も


歴史と概要

観光スポットというわけではないので由緒記や説明板も見当たらず、五六七稲荷大明神の創建年は不明です。「正一位 五六七大明神」と書かれていることから稲荷神が祀られているのは確かかと思われますが、正確な主祭神はわかりません。また、「五六七」と書いて「いむな」と呼ぶ謂れも不明です。

かつての寺内町の北西に位置し、国登録有形文化財である旧田中家住宅前の通りを少し東に行くと北側に鎮座しています。

五六七稲荷大明神(富田林市)
右手に手水鉢がある参道

社殿、参道は南向きで、最も南の道路に面した側に石造りの鳥居があり、そこから奥に向かっていくつかの赤い鳥居があります。

五六七稲荷大明神(富田林市)
参道奥の社殿

民家の間の参道を十数m行くと朱色に塗られた社殿がありますが、その右手も住宅の門になっています。

五六七稲荷大明神(富田林市)
「五六七大明神」や「毛人谷」と書かれた燈篭

社殿には狐や赤い鳥居といった「お稲荷さん」と一目でわかるものが色々とあります。ちなみに、提灯や鳥居に書かれている「毛人谷」はこの辺りの旧村名に見られる地名で「えびたに」と読みます。

稲荷神社である五六七大明神では現在も旧暦2月の最初の午の日には初午祭が執り行われているそうです。

五六七稲荷大明神(富田林市)
創立百年記念碑と役行者像

前の道路からは見えませんが、参道を進むと社殿の手前右側に修験道(しゅげんどう)の開祖、役行者(えんのぎょうじゃ)像と、「創立百年記念碑」と「毛榮組(けいえいくみ)」と彫られた石碑があります。

五六七稲荷大明神(富田林市)
毛榮組と彫られた役行者像

役行者像と石碑のどちらにも刻まれている「毛榮組」とは毛人谷村で大峰山に参詣する人々の集まり、いわゆる大峰講のようです。

五六七稲荷大明神(富田林市)
愛宕山夜燈

また、石の鳥居の手前右側には「愛宕山夜燈」と彫られた燈篭がありますが、これは京都にある火伏せ・防火に霊験のある神社として知られる愛宕神社の神にあやかったもので、こちらも神仏習合において修験道の道場として信仰を集めていました。

アクセス

近鉄長野線「富田林」駅南口から国道170号(旧道)を渡り、富田林の観光交流施設「きらめきファクトリー」の横の道から南に寺内町方面に向かいます。200mほど進み、左手に地蔵堂のある四ツ辻を右折し、約50m先の右側に五六七大明神があります。

五六七稲荷大明神(富田林市)
大正十二年三月奉納の石の鳥居

寺内町エリアということで、五六七大明神前の道も細く一方通行となっています。また、専用駐車場もないもので通常の寺内町観光同様、市役所周辺や富田林駅周辺などのコインパーキングを利用するのが良いと思われます。

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2018年8月17日金曜日

津堂八幡神社(藤井寺市) ・津堂城山古墳内に鎮座する氏神様

津堂八幡神社

2017年12月訪問
津堂八幡神社(つどうはちまんじんじゃ)は大阪府藤井寺市津堂にある神社です。その鎮座地は、古市古墳群を構成する古墳の一つで、国の史跡にも指定されている津堂城山古墳の北西、後円部となっています。

津堂八幡神社(藤井寺市)
津堂八幡神社(藤井寺市)

同古墳は、宮内庁により第19代允恭天皇を被葬候補者とする「藤井寺陵墓参考地」として陵墓参考地に治定もされていますが、同庁が厳重に管理しているのは後円部墳丘頂上付近の金網で囲まれた区域のみなので、それ以外は公園や資料館、そして神社などになっているので立ち入ることが出来ます。

●津堂城山古墳について詳しくは →http://kininarugou.blogspot.com/2018/06/blog-post_29.html



歴史と概要

津堂八幡神社の主祭神は八幡神社ということで「品陀別命(ほんだわけのみこと=応神天皇)」となっています。また、本殿向かって右側の境内社津堂稲荷神社には稲倉魂命(うかのみたまのみこと・倉稲魂命、宇迦之御玉神とも)が祀られています。

正確な創建年は不明ですが、平成29年(2017年)に記された境内に掲げられている由緒略記によると、鎌倉時代末期の元弘から建武年間(1331~1335年)に現在の松原市小川の品陀別命を祀る深居神社から分祀されたとされています。

深居神社は奈良時代の創建と伝えられる小川、津堂、大堀、若林、川辺の恵我五か村の産土神でしたが、建武の兵乱により一時焼失し、大堀八幡神社など各村に分祀されたそうです。

津堂八幡神社(藤井寺市)
津堂八幡神社由緒略記

津堂八幡神社は当初、現在地より北西の津堂墓地や元シャープの工場のあった付近(現レッドウッド)に鎮座していたようです。室町時代、津堂城山古墳にはその地形を利用して三好氏の小山城が築かれていて、永禄9年(1566年)に三好康長が当神社を祈願所としました。しかし天正3年(1575年)、織田信長の河内攻めにより小山城は落城。その際、当時の津堂八幡神社も焼失したと思われます。

津堂八幡神社(藤井寺市)
石碑の裏側に彫られた社歴

享保元年(1716年)、新大和川の氾濫により社殿が浸水崩壊し、享保5年(1720年)に津堂城山古墳後円部頂西端の現在地に遷座されました。ちなみに、津堂村の集落が現在の藤井寺高校から津堂墓地周辺にあったものが古墳西側に移されたのもこの頃のようです。