2018年1月16日火曜日

叡福寺(南河内郡太子町) ・聖徳太子御廟を守護する寺院と古墳

叡福寺

2017年12月訪問
叡福寺(えいふくじ)は大阪府南河内郡太子町太子にある寺院で、山号は磯長山(しながさん)です。地名の由来でもある聖徳太子(厩戸皇子)の墓所とされる磯長墓(しながのはか)があることで有名です。
聖徳太子といえば、第33代推古天皇を補佐し、十七条憲法や冠位十二階の制定、遣隋使の派遣などを行う一方、仏教を取り入れ神道とともに厚く信仰し興隆につとめた日本史上最も有名な人物の一人で信仰の対象でもあります。

叡福寺(南河内郡太子町)
磯長山叡福寺(南河内郡太子町)

叡福寺は四天王寺、法隆寺と共に太子信仰の中核をなす寺院で、古くから「上の太子」とも呼ばれ、「中の太子」こと羽曳野市の野中寺、「下の太子」こと八尾市の大聖勝軍寺とともに、「河内三太子」として多くの人々の巡礼を受けました。
当寺は南河内地域有数の規模を誇る寺院で、その周辺には天皇陵を含む多くの古墳や旧跡があり、日本最古の官道「竹内街道」も通っています。このことから、お参りはもちろん、周辺の歴史スポットを巡る観光客が立ち寄る散策の拠点として、今も多くの人々が訪れています。



歴史と概要

現在の叡福寺は真言宗系の単立寺院で太子宗を名乗っており、本尊は聖如意輪観世音菩薩です。戦後に単立寺院となる前は古義真言宗金剛峯寺の末寺で、かつては周辺の地名から石川寺や磯長寺と呼ばれていたそうです。

正確な当寺の創建年は不明ですが、寺伝によると、聖徳太子は生前の推古天皇28年(620年)にこの地を墓所と定め御廟を造営したそうで、翌推古天皇29年(621年)に生母の穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后が没するとここに葬られました。
さらに翌年の推古天皇30年(622年)には、相次いで没した聖徳太子と妃の膳部菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ)が追葬されたといわれています。

叡福寺(南河内郡太子町)
叡福寺境内図

聖徳太子の没後、伯母にあたる推古天皇が陵墓を守護し追福を営むために土地を寄進し、堂を建てたのが叡福寺の始まりとされています。また、その約1世紀後の神亀(じんき)元

2018年1月8日月曜日

富栄戎神社(富田林市) ・寺内町のえべっさん

富栄戎神社

2017年9月訪問
富栄戎神社(とみさかえびすじんじゃ)は大阪府富田林市富田林町にある神社です。江戸時代からの古き良き街並みを残し、大阪府内で唯一国の重要伝統的建造物群保存地区に選定され、近年南河内でも有数の人気観光スポットになりつつある寺内町(じないまち)の東の端にあります。

富栄戎神社(富田林市)
富栄戎神社(富田林市)

戎神社といえば、大阪はもちろん、関西ではお馴染みの商売の神様「えべっさん」ということで、小さな神社ながら毎年1月のお祭りには多くの参拝客で賑わいます。



歴史と概要

富栄戎神社の正確な創建年と御祭神はわかりませんでした。江戸時代から明治の初めにかけて富田林寺内町では酒造りが盛んで、酒屋の同業組合もあありました。それを「エビス講」と呼んでいて、戎神社はこの「エビス講」により祭られてたそうです。


富栄戎神社(富田林市)
改修後の富栄戎神社

今では全て廃業していますが、かつて寺内町には10の造り酒屋があり、「富田林の酒屋

2018年1月6日土曜日

出合戎藤野森神社(南河内郡千早赤阪村) ・村役場近くのえべっさん

出合戎藤野森神社

2017年12月訪問
出合戎藤野森神社(であいえびすふじのもりじんじゃ)は大阪府南河内郡千早赤阪村水分にある神社です。千早赤阪村で唯一の戎神社ということで、毎年1月の大祭には商売繁盛を願う地元の人々で賑わうそうです。

出合戎藤野森神社(南河内郡千早赤阪村)
出合戎藤野森神社(南河内郡千早赤阪村)

当ブログでの名称は「出合戎藤野森神社」としましたが、神額には「藤野森神社」とあり、由緒記には「出合藤森戎神社」や「藤森戎神社」との記述も見受けられました。



歴史と概要

由緒記によると、出合戎藤野森神社の社殿は元弘元年(1331年)8月、楠木正成により創建されました。楠木正成秘蔵のご神体が祀られているようですが、御祭神が「えびす」なのか「ヒルコ」なのか「事代主」なのか正確なことはわかりませんでした。

出合戎藤野森神社(南河内郡千早赤阪村)
出合戎藤野森神社の由緒記

造営当時は拝殿や瑞垣、その他神社としての付属建物を新築して荘厳だったようですが、

2017年12月23日土曜日

允恭天皇陵(藤井寺市) ・古市古墳群北東端の天皇陵

天皇陵

2017年11月訪問
允恭天皇陵(いんぎょうてんのうりょう)は大阪府藤井寺市国府にある古墳で、遺跡名としては市ノ山古墳(いちのやまこふん。市野山古墳とも)とも呼ばれ、古市古墳群を構成する古墳の一つです。宮内庁により、惠我長野北陵(えがのながののきたのみささぎ)として第19代允恭天皇の陵に治定されています。

允恭天皇陵(藤井寺市)
允恭天皇陵(藤井寺市)の拝所への道

現在はすぐ西に国道170号線の旧道、南には近鉄の南大阪線が走っており、大和川と石川の合流点の1kmほど南西に位置します。



歴史と概要

允恭天皇陵の形状は前方後円墳で、墳丘長は230m、幅は前方部で160m、後円部140m、前方部の高さ23.3m、後円部の高さ22.3mで古市古墳群の中では4番目に大きな古墳となっています。その墳丘は3段に築かれ、築造時は2重の濠を巡らせていたと考えられています。

允恭天皇陵(藤井寺市)
南側にある説明板

濠からは円筒埴輪の他、様々な形象埴輪が出土していますが、内提の盛土から出土した須

2017年12月12日火曜日

板持十三重塔 厳島神社(富田林市) ・鎌倉時代作と考えられる石塔と近くの神社

板持十三重塔

2017年10月訪問
板持十三重塔(いたもちじゅうさんじゅうのとう)は大阪府富田林市東板持町にある石塔です。高台の上に造られた寿美ヶ丘という住宅地にある墓地の中で、ひときわ高くそびえるのがこの十三重の石塔です。
戦前に制定された「重要美術品等ノ保存ニ関スル法律」によって、昭和10年(1935年)5月20日に重要美術品(旧法)に認定されています。

板持十三重塔(富田林市)
板持十三重塔(富田林市)



歴史・概要

現地の説明板によると、このような石塔は多層塔や多重塔とも呼ばれ、個人や集団がそれぞれの願いを塔に託して建立したもので、十三重以外にも三重、五重、七重といった奇数に造られています。調べたところ、国指定重要文化財クラスの十三重石塔は広島県や熊本県、香川県などにもあるようです。

板持十三重塔(富田林市)
板持十三重塔の説明板

こちらの板持十三重塔は花崗岩で造られ、その高さは4mを越えます。塔自体の重さにより礎石は半ば地面に埋没していますが、基礎石にわずかに残る銘文には「文保(ぶんぽう)

2017年12月4日月曜日

軽羽迦神社(羽曳野市) ・白鳥陵古墳に近く竹内街道沿いにある神社

軽羽迦神社

2017年8月訪問
軽羽迦神社(かるはかじんじゃ)は大阪府羽曳野市軽里にある神社です。近鉄の古市駅から竹内街道を西へ進み白鳥陵古墳(軽里大塚古墳)を越えてしばらく行くと、外環状線に出る手前で当社を見つけることが出来ます。かつて賑わっていたであろう街道沿いの古くからの街並みの中に静かに鎮座しています。

軽羽迦神社(羽曳野市)
軽羽迦神社(羽曳野市)



歴史と概要

羽曳野市のホームページなどによると、軽羽迦神社が現在の地に建てられたのは第二次大戦後で、もともとは白鳥陵古墳の濠の横の祠に祀られていたそうです。その後誉田八幡宮に一時預けられ、戦後に白鳥陵古墳の西の現在地に移されました。今でも白鳥陵古墳の濠の横には小さな祠が残っているそうですが、今回は発見できませんでした。

軽羽迦神社(羽曳野市)
軽羽迦神社の社名碑

この軽羽迦(かるはか)という名前は付近の軽里(かるさと)という地名や古墳(陵=はか)と関係しているのかと思い少し調べてみると、この辺りは昭和の初めまで軽墓(かるはか)という地名で、それが軽里になったそうです。
その軽墓は日本武尊(やまとたけるのみこと)の仮の墓がなまって軽墓となったという説

2017年11月22日水曜日

西代神社(河内長野市) ・市指定無形民俗文化財の西代神楽が奉納される神社

西代神社

最終訪問 2017年8月
西代神社(にしんだいじんじゃ)は大阪府河内長野市西代町にある神社です。住所の「西代」と同じく「にしだいじんじゃ」という人も多いようです。

西代神社(河内長野市)
西代神社(河内長野市)

河内長野市の多目的ホールである「ラブリーホール」のほど近くにあり、国道170号線の旧道に面しています。住宅街の中にある普段は静かな神社ですが、例祭には地車や神輿の宮入と神楽も奉納されます。

西代神社(河内長野市)
拝殿前の酒樽




歴史と概要

西代神社の正確な創建年は不詳ですが、楠木正成の本拠地に近いこともあり南北朝時代には南朝方の諸将に崇敬されていました。
元弘年間(1331年から1333年)に当社の東方に楠木正成が河内七城の一つとして金胎寺城(こんたいじじょう)を構築した時、その鎮守として篤く信仰されたそうです。
また、正成の三男である正儀(まさのり)は、天野山の行在所において後村上天皇を守護した際に当社に国家安全、武運長久を祈願し、天皇もまた深く尊信したそうです。

西代神社(河内長野市)
西代神社の御祭神と由緒

江戸時代中期の正徳5年(1715年)10月23日、宗源宣旨をもって正一位が下賜され、「西代大明神」と称しましたが、明治になり現社号の「西代神社」に改称しました。近代社格では村社に列しています。

西代神社(河内長野市)
社務所と手水舎

主祭神は国常立尊(くにのとこたちのみこと)ですが、明治時代に周辺の神社(上原村の西山神社、原村の菅原神社、古野村の浦野神社)を合祀し、現在では素盞嗚尊、足仲彦命(仲哀天皇)、気長足比売姫命(神功皇后)、品陀別命(応神天皇)、武内宿禰命、菅原道真公も祀られています。

西代神社(河内長野市)
拝殿

境内

西代神社は河内長野駅の西、市役所の南にあり、周囲は住宅街ですが神社はこんもりとした林の中に鎮座しています。国道170号線の旧道に面し、本殿はほぼ南東に向いています。

西代神社(河内長野市)
木々に囲まれた静かな神社です。

鳥居をくぐると右手に手水舎や社務所、左手の木々の向こうに駐車場などがあります。正面奥には拝殿などがありますが、その手前には屋根の付いた舞台があります。

西代神社(河内長野市)
西代戎宮と大神宮

拝殿に向かって右に境内摂社の西代戎宮と大神宮、左に赤い鳥居が並ぶ稲荷神社があります。

西代神社(河内長野市)
西代稲荷神社

西代戎宮では毎年1月の「えべっさん」で商売繁盛を願う人々が大勢参拝し、大変賑わいます。

西代神社(河内長野市)
石灯籠には「神祖森」「八王神」とあります。

西代神社(河内長野市)
社殿改築を記した碑

石碑によると、稲荷神社、西代戎宮、大神宮は平成に入って社殿が改築されたことがわかります。その他にも境内には様々な石碑などがあります。

西代神社(河内長野市)
平和慰霊塔

河内西代藩陣屋跡

また、西代神社の東にある河内長野市立長野小学校の敷地には、江戸時代中期の正徳元年(1711年)から享保17年(1732年)まで近江膳所藩から分かれた河内西代藩の陣屋がありました。現在の小学校の校門は陣屋門を模したものとして建てられたものです。

河内西代藩陣屋跡(河内長野市)
長野小学校の門にある説明板

また、西代神社と長野小学校の間には登録有形文化財の河内長野市立武道館があります。

祭礼

西代神社の祭礼は、1月に商売繁盛を祈る「西代戎」、3月には餅まきも行われる「初午祭」などがありますが、10月に行われる秋祭りは「西代神楽」が奉納されることで知られています。

西代神社(河内長野市)
拝殿前にある舞台

河内長野市観光協会のホームページによると、西代神楽は宵宮に地車と神輿が宮入した後に奉納されるもので、享保17年(1732年)に西代藩主本多忠統(ただむね)が、河内西代藩から伊勢神戸(かんべ)藩に転封された際に奉納したのが始まりといわれています。

緋色の敷物を敷いた二間半四方の舞場を設け(写真を見ると、屋根のある舞台と鳥居の間に設置されるようです)、四方に斎竹を立て注連縄を張り、その中で神楽が行われます。
神楽は、鳴物・舞方・後見役で構成され、笑いあり、ハラハラドキドキと目が離せない内容になっているそうです。

西代神楽は伊勢神楽系統の代表的なもので、その演目は計10曲から成り、獅子役と囃子方は、紺の着物に茶褐色の袴という揃いの服装で、真似師と言われる道化役のみ別の服装となっています。現在は河内長野市指定無形民俗文化財に指定されています。

西代神社(河内長野市)
神馬

アクセス

近鉄長野線、南海高野線の河内長野駅の西口ロータリーから約800m。国道170号線(旧道)を西(北西)に進み、ラブリーホール前を左前方へ。長野小学校を越えると右手に神社が見えます。
河内長野駅から南海バスに乗る場合は一つ目の「西代町南」バス停下車、西へ150mほどです。

車でわかりやすいのは、国道170号線(外環状線)の「野作町」交差点を、富田林方面からは左折、和泉方面からは右折し、最初の信号を左に曲がって170号線の旧道に入ります。そこから300mほど先左側に神社がありますが、駐車場の入口は手前にあるため行き過ぎに注意してください。

西代神社(河内長野市)
駐車場出入口

Nishindai Shrine(Kawachinagano City,Osaka Prefecture)

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