2018年5月13日日曜日

狭山池水天宮(大阪狭山市) ・さやま遊園を護る水の神

狭山池水天宮

2018年4月訪問
狭山池水天宮(さやまいけすいてんぐう)は大阪府大阪狭山市狭山にある神社です。狭山池東側の防災公園である「さやか公園」の近くで、新しい住宅街に鎮座する小さな神社ですが、駅からさやか公園や狭山池に向かう途中の交差点の角という目立つ場所にあるので目にする方も多いと思われます。

狭山池水天宮(大阪狭山市)
狭山池水天宮(大阪狭山市)



歴史と概要

狭山池水天宮の鎮座するこの辺りは、明治まで狭山藩の藩主である北条家の下屋敷のあった場所で、南河内郡狭山村(当時)の村民のために有効利用して欲しいということで北条家から寄贈された土地です。その狭山藩下屋敷跡地を利用して、昭和13年(1938年)5月1日に、南海電鉄会社によって開園したのが「さやま遊園」です。

その「さやま遊園」の来園客や従業員等の安全祈願のために建立されたのが狭山池水天宮です。正式な建立の時期はわかりませんでしたが、祭神は狭山池にちなんで水の神である罔象女神(みづはのめのかみ)が祀られています。水難・水害除け、渡航安全、安産、子授けなどの御利益があるとされ、地域住民から「水天さん」と呼ばれ拠り所とされてきました。

その後、遊園地が平成12年(2000年)4月1日をもって閉園したため、平成16年(2004年)5月に現在地に遷座しました。毎年8月に例大祭があります。

狭山池水天宮(大阪狭山市)
神社北側より

当社と密接な関係のさやま遊園についても簡単に振り返ってみると、遊園地は第二次大戦中から戦後にかけて荒廃し、昭和27年(1952年)から昭和30年(1955年)まで競艇場「狭山競走場」として利用された後、昭和34年(1959年)4月1日に南海観光開発会社が経営を再開。その後は南海電鉄が経営してきました。ちなみに、最寄駅は南海高野線「狭山遊園前駅」で、これは現在「大阪狭山市駅」と改名されています。

境内

神社の周辺は、さやま遊園の閉園後の跡地などに再整備された住宅街のようで、前の道路も綺麗で広々しています。

狭山池水天宮(大阪狭山市)
真新しい鳥居や玉垣

駅からさやか公園の方に向かって歩くと、公園の手前の交差点左側の一角に真新しい石の鳥居や玉垣が目に入ります。

狭山池水天宮(大阪狭山市)
石碑と水盤

鳥居の左手には手水用の水盤と水天宮の由緒が記された石碑があります。

狭山池水天宮(大阪狭山市)
狭山池水天宮の御由緒

石碑には前述のような狭山池水天宮についての由緒が刻まれています。

狭山池水天宮(大阪狭山市)
罔象女神を祀るお社

境内はコンパクトで、鳥居をくぐるとすぐ左手に本殿と燈篭、賽銭箱などがあります。比較的新しい神社とはいえ、とても手入れが行き届いている印象を受けました。

狭山池水天宮(大阪狭山市)
神社東側の広場

水天宮の隣にはちょっとした広場があり、ベンチや神社からのお知らせのための掲示板、そして末永雅雄博士についての説明板があります。

末永雅雄博士と狭山

末永雅雄(すえながまさお(明治30年(1897年)~(平成3年(1991年))博士は、橿原考古学研究所初代所長も務めた考古学者で、大阪府南河内郡狭山村(現大阪狭山市)生まれの博士です。

狭山池水天宮(大阪狭山市)
「末永雅雄と狭山」の説明板

奈良県の石舞台古墳や高松塚古墳の発掘調査を指揮した他、古墳の航空査察を実施するなど、日本の考古学の礎を築いた人物で、その輝かしい功績で昭和55年(1980年)に南河内郡狭山町(当時)の名誉町民に、昭和63年(1988年)には考古学者として初めて文化勲章を受章しました。大正時代、狭山池の大改修時に文化財調査を担当し、著書「池の文化」などを出版。大阪府立狭山池博物館には博士が調査研究した狭山池の文化財が展示されています。

●関連記事 →【街歩き】日本最古のため池と河内の北条氏(大阪狭山市) 狭山池・大阪府立狭山池博物館・狭山藩陣屋跡・さやま遊園跡

アクセス

南海高野線「大阪狭山市駅」を出て、線路西側(狭山池寄り)の道を南へ約150m、道なりに右に曲がったのち、真っすぐ300m弱進んだ左側にあります。

府道198号からは大阪狭山市役所とSAYAKAホールの間の交差点(信号あり)を西へ100mほど進んだ左側です。さやか公園の駐車場が斜向かい(北西)にありますが、専用駐車所はないようです。

Sayamaike-Suitenguu Shrine(Osakasayama City,Osaka Prefecture)


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2018年4月30日月曜日

【街歩き】通法寺跡と源氏三代の墓(羽曳野市・南河内郡太子町)

通法寺跡と源氏三代の墓

2018年3月訪問
通法寺跡は大阪府羽曳野市にあった仏教寺院の跡で、通法寺は河内源氏の菩提寺でした。その名は現在も寺の跡地周辺の「羽曳野市通法寺」や「富田林市通法寺町」として地名に残っています。源氏三代の墓とは、通法寺跡から隣の太子町にかけて点在する河内源氏の祖である源頼信から続く、源頼義、源義家の三代の墓所のことです。

通法寺跡と源氏三代の墓(羽曳野市・南河内郡太子町)
通法寺跡に残る山門

この辺りは石川右岸(東)の田畑と古い街並みの残る地域で、直線距離で300m弱の範囲内に全てがありますので一つの歴史スポットとして見学できますし、以前紹介した壺井八幡宮とも500mほどしか離れていないので、一連の河内源氏ゆかりの地として合わせて訪れる方も多いです。



通法寺跡と源氏三代の墓(羽曳野市・南河内郡太子町)
歴史街道「河内源氏のふるさと」の案内板

通法寺の歴史と概要

「通法寺興廃記(つうほうじこうはいき)」によると、長久(ちょうきゅう)4年(1043年)に源頼義が猟の途中に仁海谷で千手観音像を見つけ、これを持ち帰りました。頼義は館の南、山の谷と呼ばれる谷状地の入口に精舎を建立し、その仏像を本尊として安置して通法寺と号したのが始まりと伝えられています。

通法寺跡と源氏三代の墓(羽曳野市・南河内郡太子町)
通法寺山門

その後、頼義は浄土宗に帰依し阿弥陀如来を本尊としたことから河内源氏の菩提寺となり、源氏の隆盛と共に栄えました。

ちなみに、永承6年(1051年)から始まったとされる前九年の役では、頼義が子の八幡太郎義家とともに奥州へ出陣し、その後凱旋して河内国古市郡壺井里(つぼいのさと)の「香呂峰(こうろほう。香呂峯とも)の地」と呼ばれた場所に八幡宮を祀りましたが、これが通法寺の北北西に位置する壺井八幡宮です。

2018年4月10日火曜日

大堀八幡神社(松原市) ・平成27年に新築移転した八幡社

大堀八幡神社

2018年2月訪問
大堀八幡神社(おおぼりはちまんじんじゃ)は大阪府松原市大堀にある神社です。松原市の大堀というと、屯倉神社のある「三宅」同様に、阪神高速道路の出入口があることで地元以外の人々にも知られた地名かと思われます。

大堀八幡神社(松原市)
大堀八幡神社(松原市)

現在は、中央環状線をはじめ、阪神高速14号松原線・西名阪自動車道・近畿自動車道・阪和自動車道を接続する松原JCT(ジャンクション)などの交通の大動脈がすぐそばにありながら、普段はとても静かなこの大堀八幡神社は南河内地域でも最も新しい社殿や敷地を持つ神社の一つといえます。



歴史と概要

大堀八幡神社は、南北朝時代の建武4年(1337年)に、隣の小川村にある深居神社から分祀されたと伝えられています。八幡神社ということで、主祭神は品陀別命(ほんだわけのみこと=応神天皇)を祀っています。
宝永元年(1704年)の大和川付け替えにより周辺の地形が変わり、村落の安全とともに水路等を守る為に祀られました。明治5年(1872年)に村社に列格し、明治21年(1888年)には産土神社より八幡神社に改名されました。

700年近く前の創建で、社殿のみならず境内全てが真新しいのは、平成27年(2015年)3月7日に新築移転してきたからで、それまでは大和川のほとり(大堀4丁目)に鎮座していました。

大堀八幡神社(松原市)
大堀八幡神社の鳥居

松原市ホームページなどによると、大和川沿いの旧社地時代からの本殿は社殿(覆殿)の中に祀られ、江戸時代後半ごろの木造建物と考えられています。その造りは一間社流造・側面一間・浜縁付で、屋根は切妻唐破風向拝付の形状だそうです。もともと元禄15年(1702年)の棟札があったということなので、江戸時代前半までには本殿が建てられていたと考えられています。現在、明治8年(1875年)7月15日に修理されたことを示す棟札が神社に保存されています。

大堀八幡神社(松原市)
各種案内が貼られた掲示板

この明治初期の補修を経て、昭和47年(1972年)に木造の本殿はそのままに、社殿が木造から鉄筋コンクリート造につくり替えられ、同時に拝殿も鉄筋コンクリートになりました。

2018年3月26日月曜日

壺井八幡宮(羽曳野市) ・日本を動かした河内源氏発祥の地

壺井八幡宮

2018年3月訪問
壺井八幡宮(つぼいはちまんぐう)は大阪府羽曳野市壺井にある神社です。南河内を南から北に流れる石川の右岸(東側)にある小高い丘の上に鎮座するこの神社は、八幡太郎と呼ばれた源義家や鎌倉幕府の創始者である源頼朝といった日本史に名を残す人物を輩出した河内源氏の氏神として有名です。

壺井八幡宮(羽曳野市)
壺井八幡宮(羽曳野市)

穏やかな流れの石川と、古い街並み、そして葡萄畑に囲まれたとても静かな神社ですが、周辺には聖徳太子ゆかりの叡福寺をはじめ、多くの古墳や史跡があり、日本最古の官道である竹内街道も通っていることから、歴史スポットを巡るウォーキングのコースとしても人気です。


河内源氏とは

壺井八幡宮を参拝するにはやはり、河内源氏について少し予習しておいた方がより深く歴史を感じられると思います。

壺井八幡宮(羽曳野市)
南からの参道

河内源氏とは、河内国(現在の大阪府の東部)に根拠地を置いた清和源氏(せいわげんじ)の一流で、一般的に武士で「源氏」という場合はこの系統をさします。源氏には祖とする天皇別に21の流派(源氏二十一流)がありますが、清和源氏は第56代清和天皇の皇子などを祖とする源氏氏族です。

清和天皇の曾孫にあたる源満仲(多田満仲)は中級貴族でしたが、藤原氏摂関政治の確立に協力して中央における武門としての地位を確立し、摂津国川辺郡多田(今の兵庫県川西市)の地に武士団を形成しました。

2018年3月9日金曜日

西方院(南河内郡太子町) ・聖徳太子御廟がある叡福寺向かいの寺院

西方院

2017年12月訪問
西方院(さいほういん)は大阪府南河内郡太子町太子にある寺院です。宗派は浄土宗で、山号は南向山(なんこうざん)、寺号は法楽寺。聖徳太子御廟がある叡福寺の道路を挟んで向かい側にあるこのお寺は、聖徳太子が死去した後に出家した三人の侍女(乳母)が剃髪して仏門に入り、墓前にお堂を建立して、太子の冥福を祈ったのが始まりと伝えられ、今も叡福寺とともに参詣する人が多い寺院です。

西方院(南河内郡太子町)
西方院(南河内郡太子町)



歴史と概要

寺伝によれば、西方院の創立は推古天皇30年(622年)とされています。同年に聖徳太子が亡くなったあと、太子の乳母であった月姫(蘇我馬子の娘)、日姫(小野妹子の娘)、玉照姫(物部守屋の娘)の三姫は剃髪して仏門に入り、その名も善信、禅蔵、恵善と称しました(三尼公)。そして、太子御廟の前に法楽寺の寺号で一宇を建立して、太子の遺髪と太子自作の阿弥陀如来尊像を安置したのが始まりと伝えられています。

西方院(南河内郡太子町)
西方院 縁起

このような経緯から、当院は日本で最初の尼寺ともいわれています。その後衰退し荒廃していた寺を、江戸時代初期の寛永16年(1639年)に蓮誉寿正尼(れんよじゅしょうに)が再興し、名称は西方院と改められました。

本尊は前述の聖徳太子作と伝える阿弥陀如来像と、平安時代中期天台宗の僧で恵心僧都(えしんそうず)と尊称される源信の作と伝えられる十一面観音菩薩像。

境内

叡福寺の向かいには路地があるので入っていくと目の前に小さな石橋とその奥の石段が現れます。このことから、叡福寺と西方院の間は小川が流れ、谷になっていることがわかります。

西方院(南河内郡太子町)
石の参道