我堂八幡宮
2019年11月訪問
我堂八幡宮(がどうはちまんぐう)は大阪府松原市天美我堂にある神社です。「厄除宮」、「厄除さん」として古くから知られる当社は、松原市西部を流れる西除川の少し南、本来は静かな住宅街の中に鎮座していますが、神社北側の松原市北東部と堺市を結ぶ府道187号大堀堺線が近年整備されていることから、周辺の環境は変わりつつあります。我堂八幡宮(松原市) |
1月には「開運松原六社参り」といって、お正月の元旦から15日までに松原市内の五社と近隣の一社(阿保神社・阿麻美許曾神社・我堂八幡宮・柴籬神社 ・布忍神社・屯倉神社)を参詣し開運を願う行事が近年注目され、その参拝者も多い神社として知られています。
歴史と概要
社頭の説明板などによると、我堂八幡宮の創建は延宝8年(1680年)となっています。八幡宮ということで御祭神は品陀別命(応神天皇)で、京都の岩清水八幡宮の分霊を勧請したとされていますが、別の情報では堺市にある百舌鳥八幡宮から勧請したとの記述もあります(百舌鳥八幡宮は石清水八幡宮の別宮でした)。鎮座地は、かつての我堂村集落の東の端にあたり、直線距離で布忍神社まで約1km、阿麻美許曾神社まで約1.4kmとなっています。
「厄除宮」我堂八幡宮 |
松原市のホームページなどによると、江戸時代の延宝8年(1680年)に作成された「我堂村検地絵図」ではこの地に鳥居の印があるだけで社名が記されていなかったようですが、延享元年(1744年)の「両我堂村明細帳」には「十五社明神」、享和2年(1802年)の「東我堂村明細書上帳」にも「氏神十五社神」とあることから江戸時代は「十五社」と呼ばれていたことがわかります。
明治元年(1868年)に「八幡神社」と称しますが、大正2年(1913年)に産土(うぶすな)神社と改め、さらにその後、現在の「我堂八幡宮」となり現在に至っています。
説明板 |
明治元年までは現在の社務所が建つ場所に神宮寺(宮寺)の黄檗宗寺院があり、昭和53年(1978年)に再建されるまでの旧社務所には神宮寺の仏間が残されていたそうです。この神宮寺の本尊は高さ61.5cmの阿弥陀如来坐像ですが、像裏に「本尊阿弥陀如来神宮寺置之 永和三年巳年施主成田誓玄居士」の銘があることから、成田氏が永和3年(1377年)に寄進したとわかりますが、この永和という元号は北朝のもので、室町幕府では3代将軍足利義満の時代です。
楠木氏のイメージが強い河内国で北朝の元号が使われているのは、幕府の守護所が現在の松原市域(丹南)にあった為のようです。ちなみに、永和3年は南朝では天授3年となります。
神仏習合の象徴ともいえる神宮寺は明治の廃仏毀釈で廃寺となり、その仏像などは他所に移されましたが、この阿弥陀如来像は150mほど北西にある善正寺に移されています。
祭礼
7月の夏祭、10月の例祭(秋祭・だんじり祭)のほか、2月3日の節分の日に「湯立(ゆたて)神楽」があります。これは、釜で湯を煮えたぎらせ、笹や枝葉を湯に浸して撒くというもので、撒かれた湯や飛沫を浴びることで無病息災や五穀豊穣などを祈念するそうです。
昭和55年(1980年)には天美我堂自治連合会の下に「我堂太鼓保存会」が結成され、夏祭、秋祭、だんじり祭などで我堂の地に伝わる宮太鼓を奉納しているそうです。
境内
我堂八幡宮の現在の正面入口は北側の府道187号に面して立つ朱色の大鳥居となっていますが、かつては西側の鳥居が正面だったようです。この付近の府道187号は我堂八幡宮前から「我堂東」交差点まで拡幅された他、近鉄南大阪線を跨ぐ高架橋が完成するなど整備がすすんでいます。鳥居の額 |
「開運 厄除宮」の標 |
鳥居に向かって左側には「開運 厄除宮」の石標が立っていますが、これは右側の少し奥にある「我堂八幡宮」の社号標よりかなり大きいです。
境内 |
鳥居と次の注連柱をくぐると境内全体をほぼ見渡せます。左手に社務所が見えますが、参道は真っ直ぐ南に向かい、奥で左の本殿に向かって折れているようです。境内は幅約30m、奥行き約35mほどでさほど広くはありませんが、街中の神社ながら大木が何本もあることがわかります。
手水舎 |
参道は朱色の鳥居から真っ直ぐ南に伸びていて、先に進むと程なく右手に手水舎が現れます。
手水鉢 |
手水鉢の手前に昭和に奉納されたことを示す石版がありますが、手水鉢自体は自然石の風合いで古く見えます。
社殿や境内社の集まるエリア |
参道を少し進むと右手に神社西側の入口である鳥居がありますが、この辺りから境内社などが所狭しと配されています。
鳥居の奥に見える拝殿 |
まずは、本殿・拝殿の方に向かいます。「御神燈」の提灯が架けられた門をくぐるとすぐ左手に朱色の鳥居があり、その奥に柱や梁を朱に塗られた拝殿が見えます。
拝殿 |
短い階段を上り拝殿で参拝します。こちらの扁額は「厄除神」となっています。
拝殿から見た境内社など |
拝殿で振り返ると、境内社や石碑などが多数あることを感じられます。
金刀比羅神社 |
参道にある百度石の前に戻り、改めて入口側から境内社を見てみると、右側に3つの祠があることがわかります。
まず最初に鎮座するのが「金刀比羅宮」です。
天雨神社 |
次が「天雨神社」。
末廣稲荷神社 |
そして鳥居に「末廣大神」の額が架けられた稲荷神社です。
白髯神社 |
参道の突き当りを左に折れると(拝殿に向かって右側)、「白髯大神」と掲げられた鳥居があり、その奥に「白髯神社」が鎮座しています。
白髯神社の由緒記 |
こちらには由緒書きがあり、それによると、白髭社は難病平癒や延命・長寿の御利益がある神社で御祭神は猿田彦神となっています。この白髭社の後ろにあるクスノキは樹齢200年を越えており、クスノキの癌瘤凹部(こぶの凹んだところ)に長い年月をかけて雨水や枯葉が溜り腐って土壌化されて、そこにメギ科の南天が育っています。この樹木の生命力の強さにあやかり白髭大神をお祀りしたということです。
社務所前の御神木 |
また、拝殿に向かって左手、社務所の前にも御神木とお社があります。
「皇太神宮遥拝」の碑 |
拝殿の右手奥には伊勢の神宮を拝する「皇太(皇大)神宮遥拝」の碑があります。
西鳥居 |
前述の様に、かつての神社正面に当たる西側には石の鳥居が立っています。
力石 |
西鳥居の傍には、石碑と6つの力石が並べられています。力石とは若者が力競べをする時に使用した石で、南河内でも神社などでよく見かけます。我堂八幡宮の力石は、明治時代前後のもののようで、力石、八幡石、明治石、龍王石、金剛石などと刻まれています。さらに我堂村の東西で競っていたのか「東連中」、「西連中」などとも彫られているようです。
アクセス
我堂八幡宮は府道187号大堀堺線沿いにあります。府道28号大阪高石線(ときはま線)の「北花田」交差点(イオンモール北花田の南東角)からは東に約900m。国道309号「阿保2丁目」交差点からは西に約2.3km。府道192号我堂金岡線「我堂東」交差点からは西に100m少々となっています。なお、市内公共施設循環バス「ぐるりん号」の「天美我堂5丁目」バス停から170mほど南が「我堂東」交差点です。最寄り駅は、大阪メトロ(地下鉄)御堂筋線「北花田」駅で、「北花田」交差点から府道187号を東に約900mです。「開運松原六社参り」などで松原市側から行く場合は、近鉄南大阪線「河内天美」駅の200mほど南を通る府道187号(跨線橋になっています)に出て西に向かうと迷いにくいと思われます(西除川に架かる堀桜橋からは西に約600m)。
左が駐車スペース |
朱色の鳥居の横に「参拝者の自動車は境内へ入れてください」と書かれていて、社務所の手前が駐車スペースとなっていますが、車が大きく入りづらい場合は西除川周辺か各駅近くのコインパーキングを利用する方が良いかもしれません。
コメント
コメントを投稿