柴籬神社
2019年9月訪問
柴籬神社(しばがきじんじゃ)は大阪府松原市上田にある神社です。現在は松原市の中心地や河内松原駅から比較的近い距離にありながらも静かな住宅地に囲まれていますが、かつては日本の中心だったといわれる地に鎮座している由緒ある神社です。
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柴籬神社(松原市) |
全国でも珍しい歯の神様を祭る柴籬神社ですが、近年では1月の「
開運松原六社参り」といって、お正月の元旦から15日までに松原市内の五社と近隣の一社(
阿保神社・
阿麻美許曾神社・
我堂八幡宮・柴籬神社 ・
布忍神社・
屯倉神社)を参詣し開運を願う行事などでも参拝者が多い神社としても知られています。
歴史と概要
柴籬神社の正確な創建年は不明ですが、社伝によれば、第24代仁賢(にんけん)天皇の勅命により6世紀前半に創建されたと伝えられています。御祭神は第18代反正(はんぜい)天皇が正殿に、菅原道真と依羅宿禰が相殿に祭られています。
柴籬神社の立地としては、北の大津道(長尾街道)と南の丹比道(竹内街道)の間で、全国で5番目の大きさを誇る前方後円墳「河内大塚山古墳」から西に約600mの距離にあります。また、3kmほど南には反正天皇と関わりの深い
丹比神社が鎮座しています。
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古い説明板 |
反正天皇は別名(和風諡号)を瑞歯別命(みずはわけのみこと)といいますが、これは反正天皇が容姿端麗で生まれながらにして珠のような美しい歯を持っていたことから名付けられたといわれています。
当社の鎮座地である松原市上田町付近は反正天皇の都(皇居)、「丹比柴籬宮」があった場所といわれていますが、これは大和王権が初めて河内に置いた都とされます。この時代(約5年間)は五穀豊穣で人々はにぎわい、天下も太平であったと日本書紀に記されています。
後に、丹比柴籬宮の跡は、「松生いし丹比の松原」といわれるようになり、これが松原荘や松原市など「松原」の地名の由来と伝えられています。
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新しい説明板 |
第56代清和天皇の貞観6年(864年)には幣帛を給わり、観応2年(1351年)には足利直義が祈願参詣したほか、戦国時代の河内国守護であった畠山氏も当社を篤く信仰し、保護しました。慶長年間(1596年~1615年)に兵火により焼失しますが、寛永年間(1624年~1645年)に神宮寺である広場山寺観念寺2代目住持の覚夢によって再建され今日に至っています。
江戸時代には「好色一代男」をはじめとする浮世草子の作者として知られる大坂の井原西鶴も度々参詣して、当宮の狂歌を数多く残したといわれており境内には歌碑もあります。
柴籬神社では御祭神として相殿に学問の神である菅原道真公を祀っていることから、一時は天満宮と呼ばれたり、広庭神社と称した時期もあったそうです。
明治41年(1908年)頃に西大塚の菅原神社、田井城の
田坐神社など周辺のいくつかの神社を合祀し、その氏地は立部、岡、新堂、高見、西大塚、田井城に広がりました(資料で柴籬への合祀が確認できたのは西大塚と田井城)。現在は立部、岡の
正井殿、新堂の
十二社権現宮、高見の
高見神社、田井城の田坐神社がそれぞれ元の地域に鎮座しています。
大正6年(1917年)には大阪府教育委員会より史蹟に指定され、現在では大阪府教育委員会より、埋蔵文化財分布地に指定されています。
祭礼
元日の歳旦祭をはじめ、他の神社でも執り行われる季節の神事もありますが、平成16年(2004年)より始まった、松原市及び旧中河内郡の東住吉区に氏子地域を持つ阿保神社、阿麻美許曽神社、我堂八幡宮、布忍神社、屯倉神社、柴籬神社の6社を松の内の期間中に参拝する行事「開運松原六社参り」が知られています。
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神社東側の看板 |
他にも、7月の夏祭には露店が境内、参道に所狭しと立ち並び大変な賑わいです。8月8日の「歯神社祭」は午後8時8分になると境内に400灯の庭灯が設置され、一時の幽玄の世界が現れます。また、10月の秋祭には午前9時より奉納される子供相撲がありますが、これは大阪唯一の相撲神事とのこと。午後には子供地車(だんじり)が曳行されるほか、湯神楽神事も。
神社の周囲と境内
柴籬神社は松原駅から500mほど南東の住宅地の中に鎮座していますが、周辺には極殿山、大門、中門、学堂、若宮、反正山(はじやま)、東宮といった、かつての都があったことを連想させる字名が残っています。
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左は神社、右は堺大和高田線へ |
府道12号堺大和高田線(ヤマタカ線)から南に延びる道路の西側に沿うように神社はありますが、社殿や参道、神門などはほぼ南を向いているので、神社から100mほど南にあるY字路から北を向き、左側の道を北上すると神門の前に出ます。このY字路から神門までの道は少し歩道が曲がりくねっていたり、ちょっと道路の中心寄りに松の木が生えていたりするので、かつては松並木の参道が続いていたのかもしれません。
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南側にある神門 |
神仏習合の時代には、境内の社務所付近に神宮寺である広場山観念寺(真言宗)がありましたが、明治元年(1868・1869年)に(明治5年(1872年)の表記もあり)神仏分離政策により廃寺となり、その南門(山門)が現在柴籬神社の神門となっています。
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「反正天皇柴籬宮址」の石碑 |
神門の右手にはQRコード付きの真新しい説明板が、左手には古い説明板と「反正天皇柴籬宮址」の石碑が建っています。
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鳥居と百度石 |
神門をくぐると、正面に参道と鳥居、その奥に社殿などが見えます。
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手水舎 |
まず、参道右側に手水舎があります。
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手水鉢 |
立派な手水鉢がありますが、阿麻美許曽神社などでもみられる鳥獣除けと思われる網がかけられています。
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参道 |
南の神門と西門、そして拝殿の間は石畳の参道となっています。ちなみに、現在の神社の敷地はだいたい南北90m、東西55mといったところでしょうか。
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神宮遥拝所 |
参道右手、手水舎の奥には伊勢の神宮遥拝所があります。
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住吉社・歯神社の鳥居と社殿 |
遥拝所の左手には石造りの鳥居と、その奥の境内末社である住吉社・歯神社の社殿が見えます。
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「歯磨き面」 |
前述のように、柴籬神社の御祭神である反正天皇は美しい歯でも知られていたので「歯」の神様としても信仰されていますが、この歯神社も、もともと松原市内に残る伝説の一つ「ちちかみばし伝説」の「はがみさん」の云われがある神社です。
住吉社・歯神社の前には日本で唯一という「歯磨き面」が建てられており、面の歯を指先でなぞり、健康で丈夫な歯であることを祈ると良いそうです。
また、住吉社の住吉大神は海上交通の神様、交通安全の神様として信仰されています。
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住吉社・歯神社 |
住吉社・歯神社は、かつて長尾街道沿いにありました。住吉社は上田村反正山地区の氏神でしたが、「ちちかみばし伝説」の「はがみさん」も一緒に祀っていたそうで、それが明治元年(1868・1869年)に柴籬神社へと合祀されました。これは単に氏子区域であったという理由だけではなく、当社の御祭神である反正天皇(瑞歯別命)がもともと歯と健康の神として信仰されていたという事も由縁の一つだと考えられているそうです。
なお、大阪一の繁華街である梅田にも「綱敷天神社 末社 歯神社」があって宇賀御魂神が祀られていますが、直接の関係はなさそうです。
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絵馬堂 |
住吉社・歯神社からさらに拝殿寄りには神宮寺の面影を残す絵馬堂があります。
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絵馬堂の説明板 |
この絵馬堂は平成23年(2011年)に修復され、楠木正成、武田信玄と上杉謙信、加藤清正などが描かれた絵馬が掲げられています。
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稲荷社の鳥居 |
さらに進み、拝殿への石段の手前右側に創建時より脇宮として祀られている稲荷明神、勝手明神があります。
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稲荷社 |
こちらは数ある稲荷社(商売繁昌の神様)でも最も古い神様として崇敬されているそうです。
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社務所 |
一方、参道の左側にはまず社務所があり、その前には「柴籬宮むくけうへてゆふ柴垣の都哉」と彫られた井原西鶴の句碑が立っています。
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参集殿 |
社務所より拝殿寄りにあるのが参集殿で、立派な屋根を持つ2階建ての建物となっています。
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大塚の菅原神社の手水鉢 |
参集殿の前には大きな石があり、上部の窪みには「水」という漢字が浮き彫りになっていますが、これは柴籬神社から600mほど東方にある全国で5番目に大きな前方後円墳「
河内大塚山古墳」の墳丘上に鎮座していた菅原神社(天満宮・東大塚村などの氏神)の手水鉢だったものです。この手水鉢は河内大塚山古墳の石材を転用したものと考えられています。なお、菅原神社は明治41年(1908年)に柴籬神社に合祀され、その後さらに羽曳野市の
大津神社に遷座されています。
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拝殿 |
石畳の参道を奥まで進むと注連柱があり、それをくぐり石段を上ると拝殿前に出ます。
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三十六歌仙図がこの中に |
拝殿の左右には、18ずつ掛けられた三十六歌仙図があります。これは、現在の松原市南東部の立部(たつべ)地域、かつての河内国丹北郡立部村の氏子26名が嘉永7年(1854年)8月に氏神である柴籬神社に奉納したものです。
三十六歌仙とは、平安時代後半に藤原公任によって選ばれた36人の優れた歌人のことで、この36人の肖像にその代表的な和歌を一首添えたものを三十六歌仙図と呼び、後に和歌の上達を願って歌仙図を絵馬として寺社に奉納するようになったといわれています。
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天神社? |
拝殿の手前右側にも境内末社のお社があります。
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右奥が田坐神社への入口 |
拝殿と左側の建物の間から、奥にある河内国式内社の田坐神社(たざじんじゃ)へお参りできます。
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「式内田坐神社」の石碑とお社 |
本殿に向かって左側手前に田坐神社が祀られれています。
田坐神社は、現在の松原市田井城に鎮座していましたが、明治41年(1908年)3月に柴籬神社に合祀されました。その後、昭和60年(1985年)4月に遷座祭が執り行われ再び旧社地に復社し、平成9年(1997年)9月、本殿の新築とともに境内の整備も行われ、今も田井城の氏神として崇敬されています。
●田坐神社(田井城)について詳しくは →
田坐神社(松原市) ・仁徳天皇所縁の地ともいわれる式内社
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本殿裏側 |
拝殿、幣殿、本殿の横から裏手にかけては木々が多くさらに静かなエリアとなっています。
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真新しいスロープと鳥居 |
拝殿や本殿に向かって右手、つまり東側には令和元年(2019年)6月に新築、奉納された鳥居やスロープがありますので、車椅子での参拝も容易になったようです。
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神符守札焼納所(左に狛狐) |
スロープの下は広場のようになっていて、端には石と耐火煉瓦で八角形に組まれた「神符守札焼納所」があります。よく見ると稲荷社のものと思われる狐の姿も。
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大歳社 |
神門をくぐって境内に入った場所に戻り、拝殿に向かって左手を見ると、こちらにも鳥居とお社があります。こちらは末社の大歳社で、土地や作物の神として、又、大きく年を取る神という社名から延命神ともいわれています。
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丹比柴籬宮址碑周辺 |
大歳社のさらに奥にある西門の外には鎖で囲まれた一角があり、最も外側に「丹比柴籬宮址 大正八年 大阪府」の石碑があります。
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「柴籬橋」の一部 |
また、小さな木の陰には明治時代の「柴籬橋」の欄干の一部が置かれています。
●柴籬神社ホームページ →
https://www.shibagaki.or.jp/
関連スポット
西門から出てそのまま細い道を西へ約100m進んだ左側に願正寺がありますが、そこには柴籬神社の神宮寺であった広場山観念寺の釣鐘が残されています。
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神社の西にある観音堂 |
願正寺から西に50mほど進んで右折し、さらに50mほど北に歩いた左手に観音堂があります。ここには観念寺の本尊であった観念寺創建時(室町時代)のものといわれる十一面観音像が移されています。
また、柴籬神社から500mほど南西の中高野街道の少し西に
十二社権現宮が、900mほど南の街道の東には
正井殿といった神社があります。
アクセス
近鉄南大阪線「河内松原」駅方面から行く場合、駅の南口から府道12号堺大和高田線(ヤマタカ線)を東(恵我之荘駅方面)に進みます。200mほど先で最初の信号のある「上田東」交差点を右折(南下)し、450mほど進んだ右手に柴籬神社があります。
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駐車場 |
松原市内公共施設循環バス「ぐるりん号」には「柴籬神社南」バス停があります。
車の場合も同様に「上田東」交差点から南に進むのがわかりやすいと思われます。駐車場は南側にある神門の右手(東)にあります。観光バスは北隣の「ふるさとぴあプラザ」に。
Shibagaki Shrine(Matsubara City,Osaka Prefecture)
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