十二社権現宮(松原市) ・街道を見守る熊野の神々

十二社権現宮

2020年5月訪問
十二社権現宮(じゅうにしゃごんげんぐう)は大阪府松原市新堂にある神社です。その鎮座地は、近鉄河内松原駅南側の住宅街の中を南北に延びる商店街から一歩中に入った静かな公園の一角となっています。

十二社権現宮(松原市)
十二社権現宮(松原市)

かつての新堂村の鎮守であった十二社権現宮は、地域の守り神というだけではなく、古代に遡る重要な街道を見守った神社ともいえます。

歴史と概要

現地にある由緒記などによると、十二社権現宮の創建は室町時代後期の永禄年間(1558年~1570年)に、僧秀盛によって創建されたとされています。

御祭神については、社名から想像される通り熊野信仰における熊野権現、つまり伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)、伊邪那美大神(いざなみのおおかみ)、素戔嗚尊(すさのおのみこと)をはじめとした神々が祀られています。郷土史には、伊邪那岐大神、伊邪那美大神、素戔嗚尊の他に、天照皇大神、事解之男神(ことさかのおのかみ)、速玉之男神、忍穂耳命、瓊々杵命、彦穂穂出見命、鵜茅草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)、軻遇突智命(かぐつちのみこと)、埴山姫命、彌都波能売命、稚産霊の計14柱の神を祀っているとあります。


熊野権現とは、熊野神(くまののかみ)とも呼ばれ、紀伊国(現和歌山県と三重県の一部)の熊野三山に祀られる神で、神仏習合時代の本地垂迹(ほんじすいじゃく)思想のもとで権現と呼ばれるようになりました。熊野三山の祭神の内、特に主祭神である家津美御子(けつみみこ)、速玉(はやたま)、牟須美(ふすび、むすび)の三神を指して熊野三所権現と呼びますが、この神々はそれぞれ素戔嗚尊、伊邪那岐大神、伊邪那美大神とされています。そして、それ以外の熊野の神々を含めて熊野十二所権現ともいわれています。

熊野三山は熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の三社からなりますが、熊野本宮大社の例を挙げると十二所権現の十二柱の神が以下のように祀られています。カッコ内は「本地仏」と呼ばれる本地垂迹思想における日本の神に対応した仏です(寺院や神社によって異なる)。

 三所権現:第一殿・西御前(結宮)に伊邪那美大神(千手観音)、第二殿・中御前(速玉宮)に伊邪那岐大神(薬師如来)、第三殿・証誠殿に家津御子大神(阿弥陀如来)

 五所王子:第四殿・若宮に天照大神(十一面観音)、第五殿・禅児宮に忍穂耳命(地蔵菩薩)、第六殿・聖宮に瓊々杵尊命(龍樹菩薩)、第七殿・児(ちごの)宮に彦穂々出見尊(如意輪観音)、第八殿・子守宮に鵜葦屋葦不合命(聖観音)

 四所明神:第九殿・一万宮十万宮に軻遇突智命(文殊菩薩・普賢菩薩)、第十殿・米持金剛に埴山姫命(毘沙門天)、第十一殿・飛行夜叉に彌都波能賣命(不動明王)、第十二殿・勧請十五所に稚産霊命(釈迦如来)

熊野神を勧請した神社は全国に約3000社あり、熊野神社の他、十二所神社や十二社神社、十二所権現社などと呼ばれています。「十二」と付く神社には土着の山の神を祀ったものもありますが、熊野神を祀った神社では概ね前出の12の神仏を祀っており、明治時代の神仏分離によって御祭神を天神七代(かみのよななよ)・地神五代(ちじんごだい)の神々と改めたところもあります。

十二社権現宮(松原市)
由緒記

以上のように、新堂の十二社権現宮も熊野神を祀った神社ですが、それにはかつて主要道であった中高野街道や住吉街道がこの地を通っていたことが関係しているようです。これらの街道には高野詣や熊野詣をする旅人が多く、その道中の安全を祈ったとも考えられています。熊野権現については大阪狭山市の池之原神社や兵庫県尼崎市の杭瀬熊野神社の記事でも触れています。


中高野街道の起点は杭全神社西の泥堂口にあった一里塚と考えられており、大和川に架かる高野大橋を渡って現在の南河内地域に入ります。松原市内では三宅の屯倉神社前を過ぎると、阿保・上田・新堂・岡・丹南を通り、現堺市美原区の真福寺、下黒山などを経て河内長野駅前付近で他の高野街道と合流します。


永禄の頃に建てられた社殿は慶長年間(1596年~1615年)に焼失しましたが(大坂の陣?)、寛永年間(1624年~1645年)に、当時「天神宮」と呼ばれていた近くの柴籬宮(柴籬神社)と共に再建されました。もともとは、現在の鎮座地から100mほど南西の同じ新堂3丁目内にある高鷲山良念寺(真宗大谷派)前の東之坊(真言宗・廃寺)の境内に祀られていましたが、後に中高野街道と住吉街道の交差点東の邸宅に預けられ、昭和52年(1977年)9月13日に現在の栄町公民館前広場(石碑にある谷門の地?)に移されました。

この地はかつて河内国丹北郡新堂村と呼ばれていましたが、明治22年(1889年)に上田村、岡村、立部村、西大塚村、阿保村、田井城村、高見村の区域と合わせて松原村(町村制)となります。明治29年(1896年)には所属郡が中河内郡に変更。その松原村は昭和17年(1942年)に町制施行して松原町となり、昭和30年(1955年)に中河内郡天美町、布忍村、恵我村、三宅村と合併して松原市となっています。

なお、大正時代に出版された「大阪府全誌」によると、新堂村は松原市田井城にある式内社、田坐神社の氏地となっていますが、田坐神社は明治41年(1908年)に柴籬神社に合祀され、その後復社しています。

祭礼

地元の「新堂・栄町商店会」のホームページには「昔、街道筋であった地元に、古くから旅人の交通の安全を守る為に十二社権現のお社が有ったと聞いています。そのお社を今の公園の所に移し、『郷土愛を育み、子供達の健全 育成を願い』地元の3町会(新堂、新堂栄、新堂北)が協力して毎年秋にお祭りを催しています。」とあります。

境内

現在の十二社権現宮を参拝するのに最もわかりやすいのは河内松原駅から中高野街道を南下し、途中右手にある路地を抜けるコースです。この時通る道は商店街で、北から松原中央商店会、上田元町商店会、新堂栄町商店会となっており、路線バスの走る真っ直ぐな道となっていますが、この道は中高野街道の新道で、旧道は西側の住宅地の中を抜ける曲がりくねった道となっています。

十二社権現宮(松原市)
西側より

旧中高野街道側から栄町公民館前広場に入ると、北東角に玉垣で囲われた一角が見えます。

十二社権現宮(松原市)
社号標

玉垣で囲われた一角の南西角には「十二社権現宮」の社号標が西向きに建っています。

十二社権現宮(松原市)
正面より

神域は東西約5m、南北約6mほどで、社殿や鳥居は南向きとなっています。

十二社権現宮(松原市)
本殿

石造りの鳥居をくぐると狛犬と石燈篭が一対ずつあり、その奥に一間社流造の本殿が建っています。

十二社権現宮(松原市)
裏から見た狛犬と鳥居

狛犬や鳥居横の由緒記などは現社地に遷座された際に奉納されたようですが、鳥居は寛保元年(1741年)9月と彫られているので、旧社地から移されたもののようです。

室町時代に創建されて以来、鎮座地は二転三転した十二社権現宮ですが、現在の境内はコンパクトながら綺麗にまとめられていて、木も植えられるなど、隣の公園(広場)と合わせて町内の大切な場所となっているようでした。

十二社権現宮(松原市)
中高野街道と住吉街道交差点の道標

なお、十二社権現宮が一時預けられていたという、中高野街道と住吉街道の分岐点付近には天保5年(1834年)に建立された尖頭角柱型道標があります。松原市商店会連合会のホームページによると、「左 さかい 住よし道」「右 平野 大坂道」「すく かうや よしの道」とあり「釋善心」が建てたことがわかっています。ちなみに、「すく」とは真っすぐの意味とのこと。


松原市内には中高野街道に沿うような形で(北から)屯倉神社阿保神社、柴籬神社、正井殿丹南天満宮といった神社があります。また、十二社権現宮から500mほど南西には王仁の聖堂跡(出岡弁財天)もあります。

アクセス

近鉄南大阪線「河内松原」駅南側の府道12号堺大和高田線(ヤマタカ線)「上田」交差点から南(ゆめニティ松原の横)に入ります。この道が中高野街道の新道となります。中高野街道新道を800mほど進むと右手に松原乗物センターさんがあるので、その建物の右の路地を入ると十二社権現宮のある公園(広場)となっています。

また、「河内松原」駅から近鉄バスに乗り「新堂住宅」バス停で降り100mほど北に戻ると前出の路地があります。

十二社権現宮に駐車場はありません。

Junishagongengu Shrine(Matsubara City,Osaka Prefecture)


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