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正井殿(松原市) ・スサノオノミコトを祀る岡と立部の鎮守

正井殿

2020年5月訪問
正井殿(まさいでん)は大阪府松原市岡にある神社です。神社としては珍しく、名称に「神社」や「宮」ではなく「殿」と付いていますが、外から見ると鳥居や玉垣がきっちりと備えられ、境内には木々の間に社殿が建つというまさに「村の鎮守」といった雰囲気を感じられる神社です。

正井殿(松原市)
正井殿(松原市)

周辺は静かな住宅街といったところですが、少し西にはかつての主要街道である中高野街道が南北に走り、街道と正井殿の間にはスーパーマーケットが、正井殿の南向かいには小学校が建っています。


歴史と概要

正井殿の正確な創建年は不祥です。現地には松原市が設置した説明板があり、それによると正井殿の御祭神は素佐之男命(素戔嗚尊)で、周辺の岡地区と立部(たつべ)地区に深く信仰されている、とあります。

古文書によると、正井殿は慶長年間(1596年~1615年)に焼失しましたが、寛永年間(1624年~1645年)に再建されたようです。明治元年(1868年)に新政府から神仏判然令(神仏分離令)が出され、明治5年(1872年)に現社地から少し南の竹内街道と中高野街道が交わる交差点(現在の松原南コミュニティセンター)付近に移転しましたが、疫病が流行したため明治38年(1905年)に元の鎮座地に戻りました。

鎮座地の町名にもなっている岡地区は、明治の初めまで河内国丹北郡岡村と呼ばれ、集落は正井殿から300mほど南にあり、一方の立部地区もかつては同じく丹北郡の立部村で、集落は当社から400mほど東にありました。また、正井殿の70mほど西には中高野街道が、300mほど南には竹内街道が通っていました。500mほど北の中高野街道から少し西に入ると十二社権現宮があります。

なお、明治22年(1889年)には岡村、立部村、新堂村、高見村、上田村、西大塚村、阿保村、田井城村が合併して松原村になり、明治29年(1896年)には所属する丹北郡が廃止され中河内郡になっています。松原村は昭和17年(1942年)に松原町になり、昭和30年(1955年)、中河内郡天美町、布忍村、恵我村、三宅村と合併して松原市が誕生します。

正井殿(松原市)
説明板

松原市のホームページによると、岡5丁目にある真宗大谷派の寺院、円正寺の本堂前に「正井殿常夜燈」と書かれた常夜燈の竿石と同社の手水石が置かれており、常夜燈は形式や正井殿に残る石造物の状況から江戸時代後半頃のものと考えられているようです。境内に天保14年(1843年)8月の石灯籠が現存する他、少し前まで文化13年(1816年)8月の狛犬も残っていたそうです。

正井殿(松原市)
問い合わせ先の案内

正井殿は神職不在神社のため氏子により管理されていますが、諸祭などは900mほど北にある柴籬神社にお願いされているようです。

なお、柴籬神社のホームページには、「当社には、正井殿という井戸が境内に存し『病気が直る』御霊水として、干数百年の昔より、持ち帰る崇敬者が絶えなかったと記録されています。」との記述があります。

間西天の連理の松

松原市のホームページなどによると、江戸時代には正井殿の御神木「連理の松」が有名で、延宝7年(1679年。ホームページでは「延享」)に出版された河内国の観光案内「河内鑑名所記(かわちかがみめいしょき)」にも記載されています。河内鑑名所記には、その地にちなんだ短歌(狂歌)や俳諧が掲載されており、正井殿の説明板でも意朔の「巣やかけん比翼連理の松の枝」や如貞の「契り来なけ連理のまつそ郭公」といった連理の松を呼んだ作品が紹介されています。

「連理」とは1本の木の枝が他の木の枝につき、1本の木のように木理(木目)が同じになることで、「連理木」という言葉もあります。この「連理の枝」は、空を飛ぶ時はペアになって助け合わなければならない伝説上の鳥である「比翼の鳥」と結びついて「比翼連理」という言葉になり、男女(夫婦)の仲が極めて親密なことのたとえに使われています。そのことから、連理の松は縁結びや安産の御神徳がある御神木として崇拝されるようになったようです。

また、前出の河内鑑名所記には、利光という人物の「連理の松丹北郡松原の庄間西天の神木也」という狂歌も収められていますが、この「松原の庄」は現在の松原市上田、新堂、岡の地域にあたり、「間西天」は「まさいてん」と読むのでしょうか、牛頭天王(素戔男尊)を祀る今の「正井殿」のことを指します。

名称については「正井殿宮」とした幟もあるようです。また、訪問時点でGoogleマップでは当社の名称が「八幡宮正井殿」となっていました。

境内

中高野街道から少し東に入ると右手には小学校が、そして左手には周囲とは違って木々が生い茂る一角が見えて来ます。

正井殿(松原市)
鳥居と「正井殿」の社号標

外側に金属製の柵が設置されていますが、その内側には玉垣があり、中央の入口から少し奥まった所に建つ鳥居が見えます。

正井殿(松原市)
鳥居の正面より

鳥居の正面まで来ると、「正井殿」の額がかけられた石造りの鳥居と、そのすぐ手前右側には「松原村青年團岡支部」と彫られた石碑が、左側には「岡支部」の人名が彫られた石碑が建っています。

正井殿の鳥居や社殿は南南東を向いていて、境内は幅約20m、奥行き40mほどのようです。西隣りにスーパーマーケット、南側に道路を挟んで小学校、東と西は住宅が多いという環境ですが、第二次大戦後間もなくの航空写真を見ると正井殿の周囲はほとんどが田んぼのようでした。

正井殿(松原市)
参道と境内の木々

境内には舗装された参道が真っすぐ奥の社殿に続いているのがわかります。参道途中の右側には比較的新しい社務所のような建物が見えます。

正井殿(松原市)
百度石と手水舎など

鳥居をくぐるとすぐ右側に百度石が立っています。その奥に手水舎があり井戸のようなものが見えますが、現在は石の蓋で閉じられています。手水舎の少し左に小さな手水鉢がありましたが、こちらも使用できませんでした。また、参道を挟んで左側には境内社への鳥居が建っています(後述)。

正井殿(松原市)
印象的な社殿

参道を進むと、まだ新しい狛犬があり、その先に社殿があります。正井殿の社殿は、本殿と右隣りにある境内社(稲荷社)ともに独特の形状をした屋根を持つ鉄筋コンクリート造りのようです。

正井殿(松原市)
「正井殿」の額

当然ながら拝所の額にも「正井殿」と書かれています。

正井殿(松原市)
本殿

今回の参拝時は昼間の明るい時間帯で無人でしたが、本殿内には灯りがともされていました。

正井殿(松原市)
本殿から鳥居を望む

本殿から振り返ると、境内の様子が良くわかります。

正井殿(松原市)
本殿右手奥の稲荷社

次に、本殿に向かって右側にある朱色の鳥居が並ぶ境内社に向かいます。こちらの参道も舗装されています。

正井殿(松原市)
楠本大神

本殿右手の境内社は「楠本大神」で、稲荷神が祀られているようです。ちなみに、同じ松原市内では大堀八幡神社に楠本稲荷社が、神戸の湊川神社には楠本稲荷神社という境内社があります。

正井殿(松原市)
入口からすぐ左に続く参道

境内社は境内の南西にもあります。こちらはへ正井殿入口の鳥居をくぐってすぐ左に向かう参道を進みます。こちらにも朱色の鳥居があります。

正井殿(松原市)
岡光大神

参道は右に折れ、その先に木の塀で囲われた祠があります。こちらには「岡光大神」と書かれた額が架かっています。

正井殿(松原市)
建設記念碑

正井殿の境内にはいくつかの石碑や石造物があります。まず、本殿に向かって左側にあるのが「建設記念碑」です。こちらには昭和58年(1983年)8月21日の日付が彫られていることから、現在の本殿(楠本大神も?)が竣工した日付と思われます。

正井殿(松原市)
蓋のようにも見える石

また、本殿への参道中ほどから左の方、境内の西端には石の板状のものがあります。

正井殿(松原市)
皇太子殿下御降誕記念碑?(右)

また、入口の鳥居のすぐ右側には「皇太子殿下御降誕記念」?と思われる石碑もあります。こちらは現在の上皇陛下の御誕生を記念したものと思われます。


正井殿は境内も社殿も手入れが行き届いており、氏子の方々によりしっかり管理をされている神社と思われます。また、境内にある石造物を見ると江戸時代のものから明治、昭和、そして平成といった元号を見ることができました。平成だけでも鳥居や狛犬などが複数の年号で奉納されているのが印象的でした。

アクセス

近鉄南大阪線「河内松原」駅前の府道12号堺大和高田線(ヤマタカ線)「上田」交差点から中高野街道(新道)を南に約1.3km進み、スーパー「食品館アプロ 岡店」前の信号のある交差点(角に中高野街道の記念碑などあり)を左折。70mほど先の左手に正井殿が鎮座しています。

府道2号(中央環状線)「丹南東」交差点からは北に進み、約400m先の中高野街道の記念碑とスーパーの前の信号を右折すると、約70m先に当社があります。

「河内松原」駅からは近鉄バスが出ているので「岡北口」で降りると最寄りで、少し南に歩くと前述のスーパーの角に着きます。

なお、正井殿に駐車場は無いようです。

Masaiden-shrine(Matsubara City,Osaka Prefecture)


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