河合神社
2020年4月訪問
河合神社(かわいじんじゃ)は大阪府松原市河合にある神社です。鎮座地はかつての重要な街道に囲まれているだけでなく、地名から連想されるように近くには西除川や、かつては大溝と呼ばれる運河もあった交通の要地であったと考えられています。河合神社(松原市) |
鳥居の前に「河合神社遥拝所地」の碑があることからわかるように、一時は堺市にある金岡神社に合祀されていましたが現在はもとの社地に戻り、今は静かな河合地区の氏神として大切に祀られています。
歴史と概要
河合神社の正確な創建年は不祥です。現地の説明板によると、御祭神は素戔嗚命、武御甕槌命、経津主命、天兒屋根命、比咩大神、事代主大神を祀っていますが、かつては「牛頭天王宮」と呼ばれていたことから主祭神は素戔嗚命のようです。明治41年(1908年)4月23日、当時南河内郡北八下村大字河合の氏神であり、近代社格制度で村社に列格していた河合神社は、2.5kmほど西北西の南河内郡金岡村大字金田(現堺市北区金岡町)にある金岡神社(郷社)に合祀され、河合も金岡神社の氏地となりました。ちなみに、旧八上郡(後述)の主な神社はほとんど金岡神社に合祀されたようです。
説明板 |
河合神社の旧社地には金岡神社を拝む遥拝所の石碑が建立されましたが、第二次世界大戦後の昭和34年(1959年)10月4日に河合神社遷宮式が行われ、御祭神は元の宮に復社されました。
現在の境内は復社後に補修の手が加えられており、合祀前の姿とはかなり違うようですが、享保20年(1735年)の石燈篭一対をはじめ、元文5年(1740年)8月16日と彫られた手洗石、さらに天保9年(1838年)の狛犬一対といった江戸時代の石造物も複数遺されています。
拝殿前の様子 |
なお、河合神社は神職不在神社となっています。
河合
河合神社の鎮座地である河合は西除川の左岸(西岸)にあり、弥生時代の石器が数多く出土したり、飛鳥時代から奈良時代の大溝や掘立柱建物が検出されるなど「河合遺跡」として知られ、古くから人々が暮らし集落が形成されていたことがわかっています。河合の北には、7世紀以降の官道である大津道(後の長尾街道)が、南には丹比道(後の竹内街道)がいずれも東西に走っていました。西には難波宮から南へ伸び、大津道や丹比道とつながる難波大道も通っていました。また、遺跡内には7世紀後半から8世紀中ごろに開削され、大溝と呼ばれる人工運河もあり、これは舟運に利用されたと思われています。このように河合の地は交通の要衝にあり、河合古池公園付近からは我が国最古級の棹秤(さおばかり)の重りも出土しています。
また、松原市ホームページによると、天正11年(1583年)8月1日に豊臣秀吉が福島正則に与えた知行の中に「河州八上郡内河合郷」とあるそうです。
この辺りはかつて丹比郡(たじひのこおり)と呼ばれていましたが、平安時代後期に丹比郡が丹南郡と丹北郡に分割され、さらに丹北郡から八上郡(やかみぐん)が分立しました。この八上郡は現在の堺市北区の一部(東三国ヶ丘町・金岡町・南花田町など)、東区の一部(野尻町・菩提町・八下町など)、美原区の一部(石原・大饗・小寺・菩提)、そして松原市の河合を郡域としていました。
河合神社の氏子地である河合地区は、明治時代までは河内国八上郡河合村と呼ばれていましたが、明治22年(1889年)に大阪府八上郡北八下村河合、明治29年(1896年)には南河内郡北八下村大字河合などとなり、昭和32年(1957年)に松原市に編入され現在に至っています。
祭礼
毎年10月の秋祭りでは河合地区の地車(だんじり)が出て河合神社に宮入するようです。●河合町地車保存会 Twitter →https://twitter.com/KAWAIJIGURUMA
境内
阪南大学高等学校の東側の道路を南下し、さらに住宅街を進むと右前方に高い木が見えて来ますがこれが河合神社の目印となります。東側の境内入口 |
現在の河合神社は静かな住宅地の中にあり社殿は東向きに建てられていますが、この場所は旧河合集落の南東端に当たり、金岡神社に合祀される前の河合神社は広い境内と南面する社殿を持つ神社だったようです。
「河合神社」の額が架かった一の鳥居 |
巨木の根元まで来ると、道路の西側に建つ大きな石造りの鳥居もよく見えます。
参道 |
道路側の一の鳥居から参道が真っすぐ西に延び、同じく石造りの二の鳥居や拝殿が並んでいます。
手水鉢と小さな狛犬 |
一の鳥居をくぐるとすぐ左手に手水鉢(手水石)があり、この正面に「元文五庚申年八月十六日 牛頭天王宮」と刻まれています。
境内や社殿の様子 |
現在の河合神社の境内は幅約18m、奥行き約26mといったところで周囲には玉垣が巡らされ、東側の道路以外は住宅に囲まれています。
拝殿 |
二の鳥居をくぐると天保9年の狛犬が一対あり、参道の石畳は正面の本殿と右側の境内摂社へと別れています。また、拝殿手前には石燈篭も一対配置されています。
拝殿内の祠(本殿) |
本殿の覆いを兼ねた拝殿は昭和46年(1971年)10月に建てられた鉄筋コンクリート造りですが、手前の格子戸は木製です。拝殿の中には本殿となる石祠があり、その中に御神体が祀られています。
拝殿から参道を望む |
拝殿で参拝し振り返ると、立派な鳥居とクスノキ?の大きさを改めて感じられます。ちなみに、今の一の鳥居は昭和61年(1986年)、二の鳥居は昭和13年(1938年)に奉納されたもののようです。
拝殿に向かって左側にある燈篭 |
拝殿の左右、拝殿を囲む玉垣の内側にも石燈篭があります。
境内社 |
前述のように、二の鳥居と拝殿の間、拝殿に向かって右(北)に進む石畳の先には、境内摂社と思われる社殿があります。
百度石 |
一の鳥居の方に戻り、手水石の裏側を見ると百度石がありました。
境内北東側 |
一の鳥居をくぐって左手には手水石や百度石があちますが、右手にはこちらも古そうな小さめの手水鉢と、「皇紀二千六百年記念事業」の大きな記念碑があります。皇紀2600年は昭和15年(1940年)に当たり、初代神武天皇の即位から2600年目ということで、日本中で「紀元二千六百年記念行事」が執り行われ、全国各地の11万社ともいわれる神社でも大祭が行われました。
「皇紀二千六百年記念事業」碑 |
「河合神社遥拝所地」や「皇紀二千六百年記念事業」の碑が残されていることからもわかるように、明治の末に金岡神社に合祀された後も、河合の人々が河合神社とその社地を大切にしてきたことがわかります。
なお、同じ松原市内では河合神社から約750m北に高見神社が、1.7km北には式内社の田坐神社がある他、東南東800mほどの距離には王仁の聖堂跡(出岡弁財天)もあります。
アクセス
近鉄南大阪線「高見ノ里」駅南口から府道12号堺大和高田線(ヤマタカ線)を西に約150m進み「高見学園通り」交差点を左折(南へ)。450mほど進み、阪南大学高等学校の校門前を左折し、約50m先を右折。校舎やグラウンドを右に見ながら450mほど南下すると住宅街の中、右手に河合神社が見えて来ます。国道309号からは「尻ノ池前」交差点を西に入り、道なりに約450m進み道路が右にカーブするところで左の脇道に入り(この少し北に市内公共施設循環バス「ぐるりん号」の「河合公園前」バス停があります)、すぐの分岐を右に進みます。さらに約120m先の交差点を右折し、40m少々進むと左手に河合神社があります。
神社周辺は道路の狭いところもあり、駐車場も無いので車の場合は「高見ノ里」駅周辺などのコインパーキングを利用すると、高見神社などと合わせて参拝しやすいと思われます。
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