田坐神社
2018年10月訪問
田坐神社(たざじんじゃ)は大阪府松原市田井城にある神社です。平安時代に記された「延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)」という書物にも名前のある、いわゆる式内社と呼ばれる由緒ある神社で、河内国丹比郡11座のうちの一つです。田坐神社(松原市) |
現在の田井城地区は幹線道路が走り、松原市の公共施設も多数建てられる同市の中心的エリアとなっていますが、田坐神社は田井城地区の中でも古くからの静かな街並みの中にひっそりと鎮座しています。
歴史と概要
田坐神社の正確な創建年は不明ですが、境内には由来を刻んだ石碑や市の設置した説明板があります。それらには、三代実録の記述から貞観4年(862年)4月26日に河内国の無位であった「田坐神」が従五位下に叙されたこと、同年5月17日には官社に列したことが見える、とあります。この周辺は、現在も律令制の土地区画である条里制遺構が残っていることで有名で、かなり古くから稲作が行われていた土地です。地図を見ると農地の畦道やため池などがほぼ正方形をなしている区画をすぐに見つけることが出来ます。ちなみに、条里制では1町(約109m)四方を基本とし、6町(約650m)四方の正方形を1里としていました。同じ松原市内では深居神社のある小川周辺などでも条里制の跡を見ることができます。
社名の「田坐」の由来としては「第16代仁徳天皇がこの地に行幸の際、綾織を見て仮宮(かりみや=天皇行幸などの際に一時的に設けられる宮居)を営み「田坐」と称し、以後代々ここに綾織を織らしめた」という日本書紀の記述が紹介されています。また、和名抄の「この地は河内国丹比郡田邑(多無良)にあたり、「田に坐(い)ます神」から社名が生まれた」との説明も書かれており、「田坐」とは「田にいます」や「田におわす」、「田にまします」という意味と考えられます。
「田坐」については現在「たざ」という読み方をしていますが、古記によると「たゐ」と呼んでいたようです。「坐」の音読みは「ざ」ですが、訓読みはいくつかあり、「います」や「いながら」という読み方があるので、古くはこの「たゐ」という地を「田井」、「田居」、「田坐」と表記していたものの内、「田井」は現在の地名である田井城に、「田坐」は神社名として残ったものの読み方が変わってしまったのかもしれません。
説明板 |
また、石碑には「第21代雄略天皇14年(4世紀後半)、呉服漢織(くれはあやは)呉の国より来たりて住吉浦に泊す。勅して丹比の田坐の地に迎う、即ち磯歯津路(いしつじ)を経て田坐の地に来り、桑を植え、蚕を飼い、絹糸を作る。依羅宿根之を管す。」とあります。これは、雄略天皇の命により、この地に呉の国から来た呉服と漢織という綾織(あやおり)の女性技術者を迎え、桑を植え絹糸を製したということで田坐の地こそ日本における、養蚕、製糸発祥の地であるとしています。
平安時代後期になると、現在の田井城周辺は荘園化して田井荘とよばれ、中世には京都にある石清水八幡宮領となりました。石碑には「末社八座を存じ今八幡とも称す」ともあります。戦乱期には環濠集落や砦が築かれたこともあり、今日の田井城の地名の由来となったと考えられています。
これらの歴史から、当社の御祭神についてははっきりしないものの、八幡大神、(近隣の阿麻美許曾神社にも関連する)依羅宿禰(よさみのすくね)、豊宇気毘売神、呉織漢織の女神を祀ると言われています。
田坐神社由来石碑 |
田坐神社鎮座地はかつての河内国丹北郡田井城でした。田坐村は明治22年(1889年)に新堂村、高見村、上田村、岡村、立部村、西大塚村、阿保村と合併して松原村となり、明治29年(1896年)には所属郡が中河内郡となりました。当時の鎮座地は中河内郡松原村大字田井城字東口となっています。そして、明治41年(1908年)3月に現在の松原市上田7丁目に鎮座する柴籬神社に合祀されました。その後、昭和60年(1985年)4月に遷座祭が執り行われ復社、再び旧社地に祀られました。なお、今も柴籬神社本殿の西側には「式内田坐神社」の石標と祠が遺されています。
平成9年(1997年)9月、本殿の新築とともに境内の整備も行われ、今も田井城の氏神として崇敬されています。
祈祷などは柴籬神社へ |
田坐神社は神職不在神社のため、各種祈祷などの申し込みは柴籬神社社務所まで。
●柴籬神社ホームページ →https://www.shibagaki.or.jp/
境内
田坐神社は、かつての田井城集落の北東に当たる位置に鎮座しています。境内入口 |
社殿、鳥居、参道などはほぼ西向きに並んでいて、敷地は東西約40m、南北約20mとそれほど広くありません。また、周囲は住宅街で、特に旧田井城村集落にあたる西側は古い街並みといえます。
鳥居の額 |
比較的新しい石造りの鳥居には「田坐神社」の額が架かっています。
手水舎 |
鳥居の右手には手水舎があり、蓋をされた井戸?と少し古そうな水盤があります。
水盤 |
水盤には大きく「水」と彫られています。
拝殿 |
鳥居をくぐるとすぐ目の前に拝殿があります。武内宿禰が応神天皇を招く絵馬があるとの情報もありますが確認できませんでした。
賽銭箱は拝殿内 |
拝殿と本殿、その他の建物などはほとんど平成9年に建てられたもののようで綺麗でした。
拝殿の額 |
そんな中、拝殿の「田坐神社」の額は歴史を感じさせるものでした。
古い灯籠 |
鳥居から拝殿まではほとんど距離がありませんが、境内にはいくつかの石碑や案内板の他に、柴籬神社への合祀前からあったような石灯籠などが並んでいます。
石碑 |
大正14年の碑 |
南側に顕彰碑のような石碑が2つ並んでいます。
百度石 |
参道から拝殿に向かって左手(北側)には百度石もあります。また、こちらの神社北西の壁の向こう側には浄土真宗の天文山陽雲寺が隣接していますが、こちらも飛鳥時代の創建といわれる歴史ある寺院です。
社務所等 |
百度石の奥には社務所が建てられていて、掲示板などもありますが、これらを見ても、当社は氏子の方々により綺麗に管理されているようでした。
神社裏手の大木 |
社務所と拝殿の間を抜けると社殿の裏側へ出ます。
裏側広場から見た本殿など |
社殿の裏手は少し広場のようになっていて、遠くからでも見える立派なクスノキやイチョウの木などがあります。神社北隣のかつて池だった場所は公園のように整備されていますがフェンスがあり立ち入れませんでした。
アクセス
神社に駐車場は無いようで、周辺もかなり狭い道が多いため車での参拝は駐車場を見つけてからになります。比較的わかりやすい道のりとしては、国道309号「阿保2丁目」交差点から西に進み、約600m先のセブン-イレブン松原田井城店の手前を左折します。左右に池を見ながら200mほど進みさらに左折。あとは道なりに200m弱で鳥居が見えます(途中、左手に佐渡ケ嶽部屋が大阪場所の宿舎としている日蓮宗の福嶋山善宗寺があります)。
神社南東から見た社殿裏側 |
最寄り駅は、近鉄南大阪線「高見ノ里」駅で、駅前の府道12号を西に約150m歩き、「高見学園通り」交差点を右折し、北へ約700m直進。突き当りを右、左と曲がり、さらに突き当りを右折すると約60mで神社に着きます。
なお、「高見ノ里」駅から南に進むと高見神社や河合神社があります。
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