磐船大神社
2019年5月訪問(2022年4月更新)
磐船大神社(いわふねだいじんじゃ)は、大阪府南河内郡河南町平石にある神社です。その名が示す通り、境内には饒速日命が降臨する際に乗っていた天磐船をはじめ、浪石、燈明岩などの巨岩、奇岩が多数存在する神社です。磐船大神社(南河内郡河南町) |
集落から離れた山中にあり、周りを深い森に囲まれた当社は、その御神木である栂(とが)の木にちなみ、栂の宮(とがのみや)とも呼ばれています(漢字は「樛宮」とも)。
歴史と概要
境内の説明板になどよると、磐船大神社の正確な創建年は不明ですが、主祭神は饒速日命(にぎはやひのみこと)ほか十柱で、摂社に豊受大神(とようけのおおかみ)ほか五柱が祀られているようです。
「郷土史の研究」などによると、天照国照彦天火明櫛玉饒速日命(あまてるくにてるひこあまのほのあかりくしたまにぎはやひのみこと)を主神とし、高彦産霊神、天照大神を上座配祀。
左相殿に底筒男神、中筒男神、表筒男神の住吉三神と息長帯媛尊(神功皇后)を祀り住吉大神と称し、右相殿に応神天皇を祀る品陀別天子八幡宮、主神饒速日命の子である可美真手命(うましまでのみこと)を祀る可美真手命若宮、饒速日命の妻である御炊屋姫(三炊屋媛)を祀る御炊屋姫命瀧宮(瀧御前とも)、大山祇神(山神山主神とも)を祀っているとあります(計11柱)。この内、八幡宮、若宮、山神、瀧宮は当山の南横尾の瀧(もみじの滝)の霊神としてまつられたようです。また、摂社には豊受大神、大国主命、大年神、御年神、若歳神、火之迦具土神、素戔男大神が祀られているとあります。
饒速日命が主祭神として祀られているのは、旧事記(くじき=先代旧事本紀)天孫本記に「饒速日命十種のみたからを奉じ、天磐船に乗りて河内国河上の哮峰(たけるがみね)に天降り給う」とあり、当社周辺に「天磐船」とされる巨石があることから当地が哮峰と伝えられたことに由来すると思われます。また饒速日命は古代豪族である物部氏の祖神と伝えられていることから、当地と物部氏の関係も考えられます。
磐船大神社は、古くから祭祀の原型として「神奈備」の様式をとっていたようで、境内に多数ある磐座だけでなく饒速日命が降臨したとされる山「哮峰」全体が御神体とされていたようです。
当社から28kmほど北の大阪府交野市私市にも、饒速日命を祀り舟形巨岩を御神体としている磐船神社があり、こちらは岩窟めぐりなども行われています。また、泉州(和泉国)の泉佐野市には、同じく饒速日命を祀る泉州磐船神社(泉州航空神社)もあります。さらに、河南町内でも4kmほど南西には同じ饒速日命を祀る式内社の鴨習太神社が鎮座しています。
境内の説明板 |
磐船大神社の300mほど東には神下山高貴寺という高野山真言宗の寺院がありますが、神仏習合時、当社は高貴寺の鎮守であったと考えられています。江戸時代後期、高貴寺の慈雲尊者が、独自の神道説(雲伝神道、または葛城神道)を広めるにあたり、当社を根本道場として社殿を建立し「樛宮」と命名しました。また、江戸時代頃には岩船宮、磐船社、磐船神祠、岩舟大明神、磐船明神などとも呼ばれていたようです。
色褪せて読みにくい説明板は「磐船神社」表記 |
明治元年(1868年)から明治14年(1881年)まで当地は堺県の管轄下にありましたが、この頃、当地の饒速日命降臨伝説に基づき、延喜式神名帳に河内国石川郡の小社として記載されていながら永らく所在が不明だった饒速日命を祀る鴨習太神社が当社であるとして県に「村社式内鴨習太神社」として届け出ました。その後、式内鴨習太神社と境内別社磐船神社とを合わせて「樛宮(栂宮)」と称していましたが、当地の管轄が大阪府になった後、府庁明細帳に「磐船大神社」とあるのをもって式内鴨習太神社の号を削除し、改めて「磐船大神社」と公称しました。なお、明治末期の地図では「栂ノ宮」と表記されていました。
明治5年(1872年)に近代社格制度で村社に列格し、明治44年(1911年)5月29日には神撰幣帛料供進神社に指定されました。また、神仏分離により当社と高貴寺が分離されたのも明治時代のことです。
磐船大神社の鎮座地周辺は明治の初め頃まで河内国石川郡平石村と呼ばれていましたが、明治22年(1889年)の町村制の施行により、加納村、白木村、寺田村と合併して改めて誕生した白木村の大字となりました。明治29年(1896年)には所属郡が南河内郡に変更。当時の鎮座地は南河内郡白木村大字平石となっています。その後、白木村は昭和31年(1956年)に石川村、河内村、中村と合併し現在の南河内郡河南町が発足しています。
現在、磐船大神社は神職不在神社となっています。
境内
平石集落の中心といえる集会所やバス停の付近から磐船大神社までは、直線距離で400mほどですが、歩きやすく迷いにくいのはやはり高貴寺の山門前からのコースかと思われます。鳥居と石段 |
高貴寺の山門前を通過し、300mから400mほど山中の道を歩くと磐船大神社の鳥居下に着きます。山中の森の中にあるとは思えない立派な石造りの階段と鳥居です。
祓戸之大神 |
石段の上り口の左手に祓戸之大神(祓を司どる神)が祀られています。南河内では河内長野市喜多町の烏帽子形八幡神社にも「祓戸大神の碑」がありました。
石造りの鳥居 |
石段を上りきると、さらに一段高くなった所に大きな鳥居があり、左手に第二次境内整備記念碑、右手に古そうな百度石が見えます。なお、この鳥居手前の足元に猪などの害獣除け電気柵が設置されているので十分注意して境内へ向かったください。電気柵は神社を囲む形で張り巡らされているようです。
拝殿への参道 |
鳥居をくぐると、またも山中に造られた神社とは思えないような、平坦な広場というか参道が奥の拝殿まで続いており、左右にベンチや自然石の燈篭などが見えます。
鳥居側の磐座 |
参道左側には磐座と思しきものも。
かつての手水鉢? |
右側にはかつての手水鉢と思われる石も見られます。
御神木の跡? |
拝殿手前右側にある石灯籠の奥には小さな祠のようなものがあったのでよく見ると、その奥に根元から2mほどを残し上部を切られた木の幹が玉垣で囲われています。これが御神木でかつて社名の由来となった栂(とが)の木でしょうか。
拝殿 |
短い石段を上ると拝殿があります。
「樛宮」の額 |
拝殿には歴史のありそうな「樛宮(とがのみや)」の額が掲げられています。
拝殿左側の社 |
拝殿手前から左のほうにずっと道が続いているようだったので少し進むと、摂社と思われるお社がありましたが、こちらに祀られている御祭神は不明でした。
特に大きな2つの石 |
さらに道を進むと、すぐに階段と、その奥にとても存在感のある巨石が見えます。
磐座 |
斜面には特に大きな2つの巨石が祀られていて、下の方の磐座は古墳の石室を思わせるような佇まいで山肌から露出しています。
天岩戸を思わせる磐座の空洞 |
なお、この磐座の手前は祠のようになっていて、奥は石室のような空洞になっていますが中は良く見えませんでした。
苔むした磐座 |
その祠の様な部分の前には、鎖と注連縄で囲まれている苔むした石があります。
磐船 |
巨大な磐座の右側の階段を登り始めると、次に10m以上はあろうかという細長く平らな巨石が現れます。形からして、これが伝説の磐船かと思われます(哮峰の山頂にあるとも)。
五つの扉のある摂社 |
不思議な形の巨大な石からさらに上ると、左手にまた摂社の様な建物があります。5つの扉があったので、説明板に書かれた豊受大神外五柱を祀る摂社でしょうか。
本殿 |
磐船横の階段を上り、右に向かうと磐船大神社の本殿が見えて来ます。文化9年(1812年)に再建されたという社殿がこの本殿と思われます。
この奥が前述の饒速日命が十種の御宝を奉じ、天磐船に乗って降臨した哮峰(たけるがみね)ということで、山全体が御神体のようです。再建前の本殿は哮峰の山頂にあったとも。
様々な彫刻を施した立派な本殿の扁額には色々な文字が書かれているようでしたが角度的にうまく見えませんでした。
本殿前で振り返ると、先ほどの拝殿の裏から上ってくる石段がありました。なお、本殿、拝殿、鳥居はほぼ一直線で南西の方角を向いていました。
石段を使い拝殿まで下りてくると、拝殿の正面から向かって右側にも玉垣で囲まれている磐座があります。
奉納者の住所を見ると、地元河南町だけでなく堺市や門真市、さらには奈良県もありました。一説には、山中にこの様な巨石・巨岩が48ヶ所もあるそうです。
拝殿に向かって右手には社務所か参集所のような建物があり、外にはトイレもありましたが、こちらにも電気柵が設置されています。ここから高貴寺からの道に戻ることが出来ます。
じっくり探すと周辺には、境内で紹介した以外にももっと巨石・巨岩があるかもしれません。
石段下から少し高貴寺寄りには、鬱蒼とした木々に囲まれた登山道の途中の休憩所のような広場もありました。
神社から500mほど西には平石城(平岩城)跡があり(磐船大神社はかつて平石城の鎮守でもあったそうです)、さらにゴルフ場を挟んで1kmほど西には近つ飛鳥風土記の丘(一須賀古墳群)や近つ飛鳥博物館があります。また、当社から約1.5km南の持尾地区にも磐船神社があります(持尾展望台から500mほど東)。
磐船大神社の南、平石から奈良県へ抜ける今の府道704号竹内河南線道はかつての河内国と大和国を結ぶ街道ですが、現在は府道(奈良県側は県道704号竹内河南線)とはいえ車両の通行も困難な道となっています。国境(府県境)の平石峠の南には岩橋山という山がありますが、この名はかつて、役行者が地主神である一言主神とこの山から奈良県吉野地方にある金峰山まで岩の橋「久米の岩橋」を架けようとした、という伝説から名付けられたとされています。
本殿の扁額 |
様々な彫刻を施した立派な本殿の扁額には色々な文字が書かれているようでしたが角度的にうまく見えませんでした。
本殿前から見た拝殿裏側 |
本殿前で振り返ると、先ほどの拝殿の裏から上ってくる石段がありました。なお、本殿、拝殿、鳥居はほぼ一直線で南西の方角を向いていました。
拝殿右側の磐座 |
石段を使い拝殿まで下りてくると、拝殿の正面から向かって右側にも玉垣で囲まれている磐座があります。
祭式台 |
奉納者の住所を見ると、地元河南町だけでなく堺市や門真市、さらには奈良県もありました。一説には、山中にこの様な巨石・巨岩が48ヶ所もあるそうです。
社務所など |
拝殿に向かって右手には社務所か参集所のような建物があり、外にはトイレもありましたが、こちらにも電気柵が設置されています。ここから高貴寺からの道に戻ることが出来ます。
神社周辺
境内以外では、鳥居に至る石段の手前にも磐座がありました。石段手前の磐座 |
じっくり探すと周辺には、境内で紹介した以外にももっと巨石・巨岩があるかもしれません。
錆付いた野鳥の看板がある広場 |
石段下から少し高貴寺寄りには、鬱蒼とした木々に囲まれた登山道の途中の休憩所のような広場もありました。
神社から500mほど西には平石城(平岩城)跡があり(磐船大神社はかつて平石城の鎮守でもあったそうです)、さらにゴルフ場を挟んで1kmほど西には近つ飛鳥風土記の丘(一須賀古墳群)や近つ飛鳥博物館があります。また、当社から約1.5km南の持尾地区にも磐船神社があります(持尾展望台から500mほど東)。
磐船大神社の南、平石から奈良県へ抜ける今の府道704号竹内河南線道はかつての河内国と大和国を結ぶ街道ですが、現在は府道(奈良県側は県道704号竹内河南線)とはいえ車両の通行も困難な道となっています。国境(府県境)の平石峠の南には岩橋山という山がありますが、この名はかつて、役行者が地主神である一言主神とこの山から奈良県吉野地方にある金峰山まで岩の橋「久米の岩橋」を架けようとした、という伝説から名付けられたとされています。
これらの他に、平石峠には葛城修験第二十四番経塚がある他、岩橋山周辺には巨岩が重なる胎内くぐりと呼ばれる行所や鉾立石、石不動、鍋釜石など、修験道にまつわる伝承と奇岩・巨石などが数多く見られます。
祭礼
10月の第3土曜、日曜日に秋祭りが行われ、平石地区では地車(だんじり)の曳行もあります(前日の金曜夜も)。磐船大神社には平石地区と持尾地区の地車が宮入するようですが持尾のだんじりは平成19年(2007年)をもって曳行休止となったようです。なお、実際には神社の前までだんじりは行けないので別に宮入用の場所があるようです。平石地車庫 |
その他にも、河南町ホームページによると献灯祭などの古くからの習わしを今に伝えているそうです。
アクセス
近鉄長野線「富田林」駅から金剛バスで「平石」バス停下車。府道704号竹内河南線を500mほど上ります。「この先幅員狭小につき車両通行不可」の看板のある分岐を左へ入り、墓地の前を通って300mほど上ると高貴寺の山門前に着きます。車の場合、河南町役場から300mほど北の、府道27号「寺田」交差点から東に入り府道704号河内河南線を道なりに進みます。橋を渡り、町立総合体育館ぷくぷくドーム前を通過、約350m先の「北加納」を左折し平石方面へ。約2.8km先の河内河南線「この先幅員狭小につき車両通行不可」の看板がある分岐を左へ。墓地を左手に見ながらカーブする坂道を300m少々上ると高貴寺の山門前駐車場に着きます。
高貴寺山門前 |
高貴寺の山門前を左に進むと斜面の木々の中を進む遊歩道のようになっています。なお、高貴寺山門前付近にも磐船大神社の案内板などは見当たりませんでした。
磐船大神社への参道 |
左下に谷を見ながら、多少のアップダウンのある道を300~400mほど歩くと磐船大神社の鳥居前の石段の下に着きます。
このほか、近つ飛鳥風土記の丘から山道で平石城跡を経由して磐船大神社、高貴寺に至るルートもありますが、こちらは崩落などで通行止めの時もあります。
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