高貴寺(南河内郡河南町) ・役行者開基といわれ、弘法大師、慈雲尊者ゆかりの古刹

高貴寺

2019年5月訪問
高貴寺(こうきじ)は大阪府南河内郡河南町にある寺院です。高野山にある金剛峯寺を総本山とする高野山真言宗の寺院で、山号は神下山(こうげさん)。金剛山や葛城山、二上山などとともに金剛山地を形成する岩橋山の近くにあり、少し西の山中には、当寺と関係の深い磐船大神社も鎮座しています。

高貴寺(南河内郡河南町)
高貴寺(南河内郡河南町)

深い森の中、静寂に包まれた境内は大阪府指定の史跡とされ、趣のある伽藍や国指定の重要文化財、重要美術品などがあり様々な歴史を感じさせる名刹です。



歴史と概要

高貴寺の正確な創建年は不明ですが山門前の説明板などによると、第42代文武天皇の御世(7世紀末から8世紀初)に、修験道の開祖といわれる役行者によって開創されたと伝えられています。役行者は法華経二十八品にちなんで葛城山周辺に28ヶ所の修験霊場を開いたとされますが、高貴寺はその一つ、第二十五品の観音経普門品に配当されるものだったそうです。河南町内には同じく役行者が開いたとされる弘川寺もあります。



当寺では諸仏を供養する香華(こうげ)が常に絶えなかったので香華寺(香花寺)と名付けられた、ともいわれていますが、山号の「神下」は香華と同じなのか、神が降臨した地との伝説に基づいているのかは不明です。

高貴寺(南河内郡河南町)
説明板

平安時代の弘仁年間(810年から824年)には弘法大師空海が来山し、密法修行中に高貴徳王菩薩を感得したことから、高貴寺と名を改めました。また、弘法大師は勅命により金堂、講堂、東西両塔、経蔵、鐘楼堂、大門といった堂塔を建立し、さらに五大明王を伽藍の本尊としたそうです。また、国家と寺門繁栄のためにと弁財天像が彫られて講堂に安置されました。
その後、弘法大師の弟子である智泉大徳などの高僧が来住することもあって、12世紀頃までは、寺勢も盛んだったようです。

南北朝時代、楠木正成の本拠地に近いこの地は南朝方につき、後醍醐天皇より北朝軍調伏の祈祷を命じられるなどしましたが、元弘元年(1331年)に高貴寺の西方1kmほどにあって平岩氏の拠る平石城が攻められた際の兵火により当寺の伽藍も焼失しました。その翌年には金堂が再建され、寺門六坊も復興しましたが、次第に衰微し以後数百年法燈も振るいませんでした。

高貴寺(南河内郡河南町)
慈雲尊者揮毫といわれる結界石

江戸時代の安永5年(1776年)、慈雲尊者が高貴寺に来住します。この頃、大和郡山藩主である柳沢保光(尭山)の帰依・支援を受けて伽藍を修築し旧観を復興したことから、尊者は当寺中興第1世とされています。さらに天明6年(1786年)には幕府の認可を得て、正法律高貴寺一派総本山を称するに至ります。尊者の学は儒仏をきわめ梵語(サンスクリット)に通じ、晩年には葛城神道(雲伝神道)を創唱しました。当寺では慈雲尊者筆の梵学津梁一千巻を所蔵しているそうです。

明治元年(1868年)、神仏分離により当寺の鎮守であったと磐船大神社が分離され、明治6年(1873年)以後は高野山金剛峯寺末に属することになります。現在も真言律座禅道場門という、あくまでも修行の場として、あまり観光などには力を入れておられない寺院のようです。

境内

高貴寺は河内国石川郡平石村(現河南町平石)から、大和国(奈良県)との境である平石峠へ至るの道の少し北側の山中にあります。

高貴寺(南河内郡河南町)
山門前の広場(駐車場)から金堂方面を望む

高貴寺への坂道を上って行くと、駐車場として利用されている広場に出ます。左手には「史跡 高貴寺境内」の説明板があり、その左の方の少し高くなった所に山門があり、そこへは「史跡 高貴寺境内」の石碑の左側から上ります。石碑の前をそのまま木々の中へ進むと磐船大神社への道となっています。

高貴寺(南河内郡河南町)
通行止めの道

説明板の隣には山門をくぐらず境内に至る道があるようですが、土砂崩れの影響か通行止の看板が立っていました。

高貴寺(南河内郡河南町)
山門(鐘門)

階段を上って山門前に出ると、いくつかの石碑や宝篋印塔が並んでいます。

高貴寺(南河内郡河南町)
鐘門と立て札

よく見ると山門には鐘が吊り下げられており鐘門となっていることがわかります。ここには「御用の方は鐘を鳴らして下さい」と「写真撮るならば字を書け絵をかけ一句出せ」と書かれた立て札があります。この先、境内に入るとお堂の前などに「撮影禁止」の看板がありましたので、境内の写真はありません。

高貴寺(南河内郡河南町)
鐘門の鐘

山門から若干右に曲がり少し進むと、左に真っ直ぐ奥の金堂へ続く道が現れます。ここからの真っ直ぐな道の左側には長い土塀があり、その中は学寮や本坊などがあるそうです。

突き当りには五大明王を本尊とし、脇侍、役行者、理源大師像が祀られている金堂があります。その左手には重要文化財で秘仏の木像弁財天坐像を本尊とする大きな講堂、右手には慈雲尊者木像を本尊として祀るやや小さい開山堂があります。

奥の院には本堂の左手から登れるようで、そこには弘法大師像を本尊とする弘法大師御影堂をはじめ、慈雲尊者の墓、後桃園天皇の実母、開明門院の御髪奉安塔、柳沢保光の遺髪碑がなどがありますが、奥の院への参拝はお寺の方の許可が必要です。

その他にも境内には、鎌倉時代に造られた十三重石塔と宝篋印塔、さらには富田林ゆかりの明治期の女流歌人である石上露子(富田林寺内町の杉山家出身)の歌碑や墓所があります。また、当寺には重要文化財の金銅五鈷鈴も所蔵されているそうです。

高貴寺周辺

高貴寺から300mほど西には前述の磐船大神社が鎮座し、さらに西には平石城跡があります。平石城跡から1kmほど北西には近つ飛鳥風土記の丘(一須賀古墳群)や近つ飛鳥博物館もあり、これらは登山・ハイキングコースで結ばれています(大雨による崩落などで通行できないこともあります)。

高貴寺(南河内郡河南町)
岸桜井(左上は標石)

一方、府道704号河内河南線から高貴寺駐車場への途中には「岸桜井」という聖徳太子ゆかりの井戸(の跡?)があります。こちらには聖徳太子が桜の季節に馬の鞭で掘り当てたという伝説があり「櫻井戸」とも呼ばれているようです。これとは別に、境内には弘法大師が掘り当てたと伝わる独鈷水も湧出していたとか。

また、平石地区の南隣には持尾地区がありますが、こちらには持尾城跡持尾の磐船神社があります。


アクセス

近鉄長野線「富田林」駅から金剛バスで「平石」バス停下車。府道704号河内河南線を500mほど上ります。「この先幅員狭小につき車両通行不可」の看板のある分岐を左へ入り、墓地の前を通って300mほど上ると高貴寺の山門前に着きます。

車の場合、河南町役場から300mほど北の、府道27号「寺田」交差点から東に入り府道704号河内河南線を道なりに進みます。橋を渡り、町立総合体育館ぷくぷくドーム前を通過、約350m先の「北加納」を左折し平石方面へ。約2.8km先の河内河南線「この先幅員狭小につき車両通行不可」の看板がある分岐を左へ。墓地を左手に見ながらカーブする坂道を300m少々上ると高貴寺の山門前駐車場に着きます。

磐船大神社へは、山門前の道を左へ進み300~400mほど歩くと磐船大神社の鳥居前の石段の下に着きます。

また、1.8km南西の南河内グリーンロード沿いには持尾展望台があります。

Koukiji Temple(Kanan Town,Osaka Prefecture)


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