一須賀古墳群
2021年3月訪問
一須賀古墳群(いちすかこふんぐん)は大阪府南河内郡河南町一須賀から東山、さらに隣接する太子町葉室にかけて広がる丘陵上にある古墳群です。大阪府の南東部、南河内地域にある一須賀古墳群は現在、建築家である安藤忠雄氏設計の建物があることでも知られる「大阪府立近つ飛鳥博物館」の南側に開かれた史跡公園「大阪府立近つ飛鳥風土記の丘」として整備されてるので、山あいにありながらも見学しやすい古墳群といえます。
一須賀古墳群(南河内郡河南町) |
同じ大阪府内には、平野部に築かれた大規模な古墳を多数有し、令和元年(2019年)7月にユネスコの世界文化遺産に登録された百舌鳥・古市古墳群がありますが、一須賀古墳群はそれらとは異なった魅力のある古墳群といえます。
歴史と概要
金剛山地の西麓、大阪府南河内郡の河南町北部から太子町南部にかけての丘陵上には日本を代表する群集墳で、八尾市の高安古墳群、柏原市の平尾山古墳群とともに、大阪府における三大群集墳と呼ばれる一須賀古墳群があります。一須賀古墳群が築かれたのは6世紀前半から7世紀中頃にかけてとみられ、その数は総数262基を数えます。それらの古墳は丘陵の尾根ごとに十数基ずつ位がまとまって一つの「支群」と呼ばれるグループを形成しており、一須賀古墳群には23支群が確認されています。
これらの墳形は大部分が直径10mから20mの円墳ですが、一部で方墳も見られます。また、埋葬施設は大半が横穴式石室で、一部に木棺直葬や石棺式石室なども見られます。
この丘陵の北は太子町の磯長谷(しながだに)とよばれる地域にあたりますが、そこには難波津から大和に通じる日本最古の官道とされる竹内街道が走り、敏達天皇陵や用明天皇陵、推古天皇陵、孝徳天皇陵といった天皇陵、さらに叡福寺の聖徳太子墓所など、皇族の墓と伝えられる6~7世紀の古墳が集中しており、「王陵の谷」とも呼ばれています(敏達天皇陵、用明天皇陵、推古天皇陵、聖徳太子墓、孝徳天皇陵の五つの陵墓は梅の花になぞらえて梅鉢御陵(うめばちごりょう)とも呼ばれています)。また、磯長谷から一須賀古墳群のある石川東岸周辺は、大和国(現奈良県)の「遠つ飛鳥」に対し「近つ飛鳥」とも呼ばれていました。
案内板(2019年5月) |
一須賀古墳群では、これまでに80基余りの古墳が発掘調査されているようで、その結果、石室内には石棺、あるいは木棺を2~4基置いていることが多いことから、追葬の形跡が明らかとなっています。
副葬品では、須恵器、土師器、純金製耳環、ガラス玉、金銅製冠片、金銅製履片、金銅装単龍環頭大刀柄頭片、馬具、環状金具、鉄刀、鉄刀子などが見つかっている他、竈(かまど)や甑(こしき。せいろのような蒸し器)のミニチュア炊飯具型土器を副葬する例が目立ちます。これら古墳から出土した須恵器から、古墳の築造は6世紀の前半に始まり、6世紀の後半から末葉に最盛期を迎え、7世紀初頭から前半には終焉を迎えたとみられています。
また、玄室の床面が羨道部の床面よりも低い、朝鮮半島の影響を受けたと見られる構造の横穴式古墳があることから、一須賀古墳群は渡来系氏族、特に百済、あるいは漢人系氏族との関連が指摘されています。一方で渡来人を支配下に置き、大和政権で絶大な権勢を誇った蘇我氏とこの地域との密接な関係もよく知られています。
消えかけの説明板 |
江戸時代にはこの地に多数の古墳があることが地元の人々に知られていたようですが、昭和41年(1966年)に上野勝巳氏が「一須賀古墳群」の分布調査を行い発表しました。しかし、昭和40年代初めからの「阪南ネオポリス(現河南町大宝)」の宅地造成工事によって古墳群西側の約30基は消滅。大阪府教育委員会や河南町教育委員会は、宅地開発の事前調査や古墳の整備などで70基ほどの調査を実施。その結果、古墳群の重要性を認識した大阪府は、古墳の最も密集している区域約29haを開発会社より買収して保存を図り、昭和61年(1986年)に大阪府立近つ飛鳥風土記の丘として公開しました(後述)。また、平成6年(1994年)10月7日には国の史跡に指定されました。
なお、一須賀古墳群は現在の地名では河南町一須賀、東山、太子町葉室(それぞれ旧河内国石川郡一須賀村、東山村、葉室村)にまたがっていますが、この内、古墳群の名称にも付けられている一須賀の旧集落は古墳群から1.5kmほど北西の丘陵の麓にあり、大ヶ塚と呼ばれる寺内町内には式内社の壹須何神社(いちすかじんじゃ)が鎮座しています(神社と一須賀古墳群との関係も指摘されています)。
近つ飛鳥風土記の丘
大阪府立近つ飛鳥風土記の丘(おおさかふりつちかつあすかふどきのおか)は、我が国を代表する群集墳である一須賀古墳群を保存し、その学術的価値を認識し、かつ貴重な文化財に触れ・学び・親しむ場として府によって設置された史跡公園です。
前述のように、昭和40年代にニュータウン、阪南ネオポリスの造成によって一須賀古墳群が失われようとしていたところを、大阪府が古墳の最も密集している区域約29haを開発会社より買収し保存を図りました。そして昭和61年(1986年)6月に史跡公園大阪府立近つ飛鳥風土記の丘として開園し、一般に開放されました。
風土記の丘地図(2019年5月) |
具体的には、一須賀古墳群東部の緩やかな丘陵地一帯に点在する古墳群の中に園路や展望台、トイレ、管理棟などを設け自由に散策出来るようになっています。
260基以上ある一須賀古墳群の内、近つ飛鳥風土記の丘内には102基の古墳があります。その中の40基は横穴式石室で内部見学も可能となっています。また、近つ飛鳥風土記の丘は春の梅や桜、秋の紅葉も美しく、イベントが催されることもあるため古墳見学以外でも多くの人が訪れます。
園内の展望台からは「近つ飛鳥」をはじめ、古市古墳群や南河内の風景、さらに遠くには大阪市内や六甲、淡路島などを望むことが出来ます(河南町の一般展望台としては持尾展望台が2kmほど南東にあります)。
また、近つ飛鳥風土記の丘の北側には陵墓・古墳の宝庫「近つ飛鳥」の中核的文化施設である大阪府立近つ飛鳥博物館があり、古墳・飛鳥時代の人々の生活を、実物資料や映像で楽しく学ぶことができます(一部有料)。
風土記の丘と博物館は古墳群内の散策路(連絡路)でつながっているため実質同じ施設、公園とも言えます。なお、「近つ飛鳥博物館前」バス停は「近つ飛鳥風土記の丘」駐車場前にある他、風土記の丘と近つ飛鳥博物館の駐車場は直線距離で300mほどしか離れていないものの、行き来するには太子町を経由して5km少々迂回するコースとなるので注意が必要です。
●近つ飛鳥博物館についてはこちら →【南河内探訪】アスカディア・古墳の森 大阪府立近つ飛鳥博物館(河南町)
古墳群の現状
一須賀古墳群に属する古墳の内、西側の30基ほどは宅地造成などで消滅しており、東側の山深いエリアにある古墳は通常装備では到達困難な場所にあるといえるので、実際に見学できるのは大阪府立近つ飛鳥風土記の丘内の古墳となります。風土記の丘内には102基の古墳があり、その中の約40基が整備・公開されています。風土記の丘管理事務所 |
近つ飛鳥風土記の丘内の一須賀古墳群の古墳を見学するには、一般的に風土記の丘管理事務所側からか、近つ飛鳥博物館側からスタートしますが、今回は管理事務所側から散策を開始しました。なお、近つ飛鳥風土記の丘の内、散策しやすい園路が整備されているのは最大で東西500m、南北400mの範囲内といったとこのようです。
管理委事務所内部 |
管理事務所内には園内や周辺の地図の他、石室など様々な展示物があります。また、こちらでは無料の「近つ飛鳥風土記の丘散策マップ」などが置かれています。
D支群 |
管理事務所南側の階段を上った辺りから散策を始めると、いきなりD支群の古墳が現れます。この後も散策路沿いに多くの石を目にすることになりますが、かなりの確率で古墳関連のものと思われます。
管理事務所付近はなだらかな広場に |
また、管理事務所周辺には他の場所から移設された古墳(石室など)もあります。
富田林方面を一望 |
管理事務所から見て南の方にある緑の広場に向かう坂道を上ると、富田林方面などの景色が良く見える場所があります。この辺りは緩やかな斜面の広場になっていて桜の木が多く植えられているので春には素晴らしい景色を楽しめます。
山中に見られる巨石 |
さらに坂道を上るとやがて散策路の周囲が木々に囲まれますが、あちこちで突然積み上げられた巨石などに出会うこともあります。
P支群・平石城跡などへの標識(2019年5月) |
やがて風土記の丘の整備された園路の南東端(M支群)付近まで来ると、風土記の丘を出てP支群などへ向かう山道への分岐もあります。ちなみに、さらに南東に向かうとP支群、平石城跡、磐船大神社、高貴寺周辺を経てダイヤモンドトレイル方面につながります。
第一展望台 |
風土記の丘を出ずに少し戻って北に向かうと、すぐに第一展望台があります。
航空写真のタイル? |
一部見えにくくなっていますが、展望台には様々な説明板、ウォークラリーポイントなどがあります。
「古市古墳群と一須賀古墳群」 |
展望台から見える景色や古墳について学ぶことが来ます。
第一展望台から見た古市古墳群等 |
第一展望台からは大阪市内方面をはじめ、堺(百舌鳥古墳)の仁徳天皇陵、さらに南河内の石川流域一帯などを見渡せます。
D-4号墳 |
第一展望台から下る際は北と北西の二つのルートがありますが、北西のルートを進むとD-4号墳があります(北に進むとE支群、さらに第2展望台への分岐もあります)。
D-4号墳の説明板 |
D-4号墳は一須賀古墳群の中でも最大級の古墳です。
D-4号墳の石室 |
こちらでは薄暗い石室の中に入ることも出来ます(照明設備などはありません)。
こちらは立入禁止 |
D-4号墳からは北に向かうルートを。
人面石にも見える丸い石 |
E支群付近では石室ではない大きな石や岩も。
B支群の一部 |
舗装道路に出て北西に向かうとB-16号墳があります。
B-16号墳の説明板 |
B-16号墳は6世紀後半の築造と考えられる直径約15m、高さ約3mを測る円墳で、隣接するB-15号墳、B-14号墳と連続して築かれています。
博物館と風土記の丘の連絡路 |
B-16号墳からは北に進むとB支群、西に進むとC支群となっています。今回は管理事務所のすぐ東に出るC支群の方に下り、管理事務所前で右折し北東の博物館方面へ向かいます。
なお、博物館と風土記の丘の連絡路は急な坂道と階段の近道(A)と、長く曲がりくねった少し緩やかな道(B)があります。
風土記の丘と博物館をつなぐ道 |
管理事務所前から博物館に向かう道の周辺にも桜の木が多数植えられています。
寛弘寺古墳群からの移設古墳 |
連絡路周辺にも他の古墳群から移設された古墳があります。特に寛弘寺古墳群から移築された寛弘寺45号墳の横穴式石室などは存在感があります。
B支群案内図(倒壊?) |
しばらく博物館方面に歩くと、右手にB支群の古墳があります。ここを上って行くと先ほどのB-16号墳へと向かうことになります。
B-9号墳 |
B-9号墳では迫力の石室と家形石棺を見ることが出来ます(石棺は復元されたもの)。
B-7号墳 |
風土記の丘と博物館を結ぶ連絡路に戻り、分岐付近に位置する直径12mほどの円墳であるB-7号墳を見学。こちらでは鉄釘と鎹(かすがい)が出土しており、木棺が用いられたと考えられています。石室の天井石は持ち去られ基底部しか残っていませんが、金製・銀製の耳環やそれに付けた金製の垂飾り、琥珀玉やガラス玉のような多彩な装身具が出土しています。
須恵器窯跡の説明板 |
B-7号墳から北西の脇道に入ると須恵器窯跡があります。
須恵器穴窯跡 |
一須賀一帯には5基の須恵器窯跡が確認されていますが、その内2基がここに残されています。現在は保存のために埋められています。
風土記の丘北部にある梅林 |
B支群から北東方向に向かうと近つ飛鳥博物館が見えて来ますが、その手前が梅林となっており、休憩所も設けられています。桜の前には梅も楽しむことが出来ます。
梅林の先に見える博物館 |
近つ飛鳥博物館のすぐ南側にはI支群がある他、そこから南の道を上って行くとJ支群、K支群、L支群、またJ支群から南に進むとH支群や第2展望台にも向かえます。ちなみに、L支群からさらに奥にはS支群やN支群もあるようですが、園路は整備されていないようです。
一須賀古墳群は西側の一部が消滅しているものの、東側の丘陵地では多数の古墳が残されています。近つ飛鳥風土記の丘には一須賀古墳群の102基の古墳があり、その中の40基は見学しやすく整備・公開されています。それほど大きな古墳はありませんが、遠くから巨大な墳丘を眺める古墳見学とはまた違った“古墳体験”が出来ます。
アクセス
公共交通機関では、近鉄長野線「喜志」駅、または「富田林」駅から金剛バスを利用し「近つ飛鳥博物館前」バス停下車。カナちゃんバスでは「大宝3丁目(北13)」バス停下車。バス停前が近つ飛鳥風土記の丘入口になっています。博物館までは風土記の丘入口から徒歩約8分です。
車で近つ飛鳥風土記の丘へ行く場合は、大阪芸術大学前を走る府道27号柏原駒ヶ谷千早赤阪線「一須加」交差点から東の「大宝」方面へ進み、約1.6km坂を上った住宅街の突き当りが風土記の丘の入口となっています。駐車場は約30台分。
北隣の大阪府立近つ飛鳥博物館へは太子町内の府道32号美原太子線「上宮学園南」交差点を南に入り案内看板に従い約1.8kmです。博物館の駐車場台数は80台。
コメント
コメントを投稿