孝徳天皇陵
2021年9月訪問
孝徳天皇両(こうとくてんのうりょう)は大阪府南河内郡太子町山田にある古墳です。大阪磯長陵(おおさかのしながのみささぎ)として、宮内庁により第36代孝徳天皇の陵に治定されている円墳で、考古学的な遺跡名としては「山田上ノ山古墳」と呼ばれています。
孝徳天皇陵(南河内郡太子町) |
国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産に登録された百舌鳥・古市古墳群の古市古墳群から石川を挟んで南東の二上山の麓にある古墳で、複数の天皇陵を含む磯長谷古墳群(しながだにこふんぐん)を構成する古墳の一つとなっています。
歴史と概要
孝徳天皇陵(山田上ノ山古墳)は、大阪府と奈良県の境にある二上山の西側に延びる丘陵の先端部に築造された古墳で、すぐ南を通る竹内街道を見下ろす位置にあるともいえます。この付近の竹内街道は石川の支流である飛鳥川と並行するように延びていますが、その飛鳥川によって形成された磯長谷にはこの孝徳天皇陵の他、敏達天皇陵、用明天皇陵、推古天皇陵、聖徳太子墓(叡福寺内)の5つの天皇・皇族の陵墓があります。これらは梅の花びらになぞらえて「梅鉢御陵」と呼ばれ、磯長谷を指して「王陵の谷」とも呼ぶこともあります。
孝徳天皇陵の古墳の形としては円墳で、墳丘の直径は約32mとなっています。実際の被葬者は明らかではありませんが、宮内庁により「大阪磯長陵」として孝徳天皇の陵に治定されているため本格的な調査は行われておらず、主体部の埋葬施設など不明な点も多い古墳といえます。
関連出土品としては、中国の隋・唐代に流行した背面に葡萄の文様と海獣をあしらった海獣葡萄鏡がかつて当古墳の陪塚から出土したとされていますが、その出土地の詳細は不明です(現在陪塚等の存在は確認されていないようです)。
「孝徳天皇 大阪磯長陵」 |
梅鉢御陵の中で最も小さく、7世紀の王陵としては懐疑的な見解もあり、約1.5km北西の同じ太子町内にある太平塚古墳を孝徳天皇の真陵とする説もあります。これは日本書紀には孝徳天皇を「大坂磯長陵」に葬ったと記されており、この「大坂」が二上山北側の穴虫峠を越えて大和国と河内国を結ぶ街道、「大坂道」を指すと考えられることもあって、大坂道の側にある太平塚古墳が挙げられたようです。なお、現在宮内庁の定める陵号は「坂」でなく「阪」の字を用いた「大阪磯長陵」となってます。
一方、墳丘規模が小さいのは孝徳天皇が即位2年目に改革の中で出した「薄葬令」によるものと考えられています。
清少納言の「枕草子」における「うぐひすのみささぎ(鶯の陵)」を奈良県奈良市春日野町にある鶯塚古墳と比定する説もありますが、江戸時代の「河内名所図会」では当古墳を鶯の陵として紹介しています。ちなみに、当古墳前から竹内街道を東に2kmほど進んだ河内国と大和国の国境(現在の大阪・奈良府県境)にあった関所は「鶯の関」と呼ばれていました。
孝徳天皇
孝徳天皇は第30代敏達天皇の孫で押坂彦人大兄皇子の王子である茅渟王の長男に当たり、母は第29代欽明天皇の孫で桜井皇子の王女である吉備姫王です。諱は軽(かる)。姉(同母姉)は第35代皇極天皇(後に第37代斉明天皇)で、第38代天智天皇(中大兄皇子)、間人皇女(はしひとのひめみこ)、第40代天武天皇(大海人皇子)の叔父にあたります。
姉である皇極天皇の4年(645年)6月12日 、蘇我氏の専横を憂う中大兄皇子や中臣鎌足らが宮中にて蘇我入鹿を暗殺。 翌日には入鹿の父である蝦夷が自宅に火を放ち自殺し、蘇我氏(蘇我宗家)が滅んだ政変「乙巳の変(いっしのへん)」が起こります。
さらにその翌日の6月14日、皇極天皇の譲位を三度辞退した後に受け第36代天皇として即位しますが、この時の譲位が日本史上初の譲位とされています。また、6月19日にはこちらも日本史上初となる元号を立て、この年を大化元年としました。
政治では皇極天皇の子である中大兄皇子を皇太子とし、阿倍内麻呂(阿倍倉梯麻呂)を左大臣、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣、そして中臣鎌子(藤原鎌足)を内臣とし、後に大化の改新と呼ばれる国政改革を行いました(主に中臣鎌足が主導したといわれます)。この改革により今に続く「日本」という国号、そして「天皇」という称号が正式なものになりました。
この時代、北の蝦夷に対しては渟足柵や磐舟柵を越国に築き備えた他、大陸諸国との外交も盛んで、南河内ゆかりの高向玄理(たかむこのくろまろ)も活躍しています(現河内長野市高向に高向神社あり)。
皇后は姪の間人皇女で、阿倍倉梯麻呂(阿倍内麻呂)の娘の小足媛(おたらしひめ)、蘇我倉山田石川麻呂の娘の乳娘(ちのいらつめ)を妃とし、小足媛との間に有間皇子を儲けました
孝徳天皇は難波長柄豊碕宮(現大阪市中央区)を造営し都と定めます。白雉4年(653年)に皇太子(中大兄皇子)が倭京(現在の奈良県飛鳥地域に置かれた宮都)に遷ることを求めますがこれを拒否、皇太子は皇祖母尊(先代の皇極天皇)や大后(間人皇女)、大海人皇子、さらに多くの臣下を伴って倭京に移りました。
白雉5年(654年)10月10日に崩御(元号はこの後しばらく使われなくなります)。12月8日(655年1月20日)に「大坂磯長陵」に葬られました。
古墳の現状
孝徳天皇陵へは、日本最古の官道とされる竹内街道を歩いて赴くことになります。
陵墓入口 |
陵墓への入口は竹内街道の北側にあります。なお、入口向かいには国登録有形文化財(建造物)の「大道旧山本家住宅」や「竹内街道交流館」があります。
最初の階段 |
他の天皇陵と同様に、入口には舗装された駐車場のような区画がありますが通常車止めがされているので徒歩で参拝します。最初はコンクリートの階段があります。
石畳の坂道 |
階段が終わると、後は石畳の坂道が続きます。
右カーブと墓石 |
最初の右カーブ付近には一般の墓標のようなものもあります。
苔むす参道 |
さらに上ると左カーブとなります。
猪注意の看板も |
途中には宮内庁による「この付近はイノシシが出没します。十分に注意して御参拝下さい。」との看板もあります。
拝所前の小屋 |
程なく左手に管理小屋が現れ、その先に拝所の瑞垣が見えて来ます。
拝所 |
拝所は南南西を向いています。参道を上ってくると鳥居に向かって右手(東側)から到達しますが、拝所の正面はすぐ谷になっており瑞垣もあるのでこれ以上進めず、拝所の少し東側で参拝することになります。
墳丘 |
拝所の先にある右手の小高い所が墳丘と思われますが、鬱蒼として木々で覆われているので全容は把握できません。
参道途中から南西を望む(右手にPLの塔) |
なお、参道途中(階段の少し上付近)からは西側の富田林市街などがよく見えます。
参道途中より南東を望む |
以下、孝徳天皇陵の少し東にある地蔵尊?のご紹介です。
少しわかりづらい石段 |
孝徳天皇陵から竹内街道を奈良方面(東)に70mほど歩くと、左(北)側に崖を上る石段のようになっている箇所があります。
石室のような祠? |
その石段を少し上ると古墳の横穴式石室を思わせる横穴の中に石仏?が祀られています。周囲には石灯篭のようなものもあり、石垣なども古墳時代のものではないようですが、街道沿いの途中にある他の地蔵尊とは少し異なる雰囲気があります。
孝徳天皇陵周辺を見ると、入口向かいに前述の「大道旧山本家住宅」や「竹内街道交流館」がある他、街道を170mほど東に進んだ少し北に「太子町立竹内街道歴史資料館」もあります。また、当古墳から500mほど南西には蘇我倉山田石川麻呂の墓と伝わる仏陀寺古墳もあります。
アクセス
公共交通機関では、近鉄南大阪線「上ノ太子」駅から金剛バスに乗り「孝徳天皇陵前」バス停(太子町コミュニティバスのバス停もあり)で下車します。バス停から国道166号を100mほど東に進み、最初の信号のある交差点を左折し100m少々北に進みます。川を渡り「餅屋橋」と刻まれた道標がある丁字路を右折すると20mほど先に孝徳天皇陵入口があります。
竹内街道にある餅屋橋の道標 |
竹内街道を歩く場合は、太子町役場付近からは東に約900m、竹内峠からは西に約2.2kmとなっています。
道の駅から見た飛鳥橋 |
車の場合は、国道166号の「道の駅 近つ飛鳥の里・太子」から道の駅の奥(北)に進み、飛鳥川に架かる飛鳥橋を渡ります。橋を渡った先が竹内街道なので左の大阪方面(西)に向かい、後は約350m坂を下ると右手に孝徳天皇陵の入口が見えて来ます。
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