科長神社
2018年7月訪問
科長神社(しながじんじゃ)は大阪府南河内郡太子町山田にある神社です。平安時代の「延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)」という書物にも名前のある、いわゆる式内社と呼ばれる由緒ある神社で河内国石川郡9座のうちの一つです。太子町内にある唯一の式内社で、多くの神々を祀っていることから八社大明神(はっしゃだいみょうじん)との別名もあります。
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科長神社(南河内郡太子町) |
鎮座地の東には金剛山地の岩橋山から二上山に連なる山々が控え、集落と山の境界ともいえる立地で、科長神社の隣には、遣隋使として知られ華道の祖とされる
小野妹子の墓もあります。また、この周辺は聖徳太子の墓所がある
叡福寺や、皇族の陵墓が集まる「王陵の谷」とも呼ばれるエリアで、日本最古の官道ともいわれる「竹内街道」も少し北を東西に通っています。
歴史と概要
科長神社の主祭神は風の神である級長津彦命(しなつひこのみこと)・級長津姫命(しなつひめのみこと)で、素盞嗚命・品陀別命・建御名方命・武甕槌命・経津主命・天児屋根命・天照大神が配祀されている他、天御柱国御柱大神・天児屋根命・品陀別命・八坂大神・道祖大神・保食神・菅原道真・市杵島姫命・天照大神が合祀されています。
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科長神社の境内 |
科長神社創建の由緒は不明ですが、延喜式では式内小社とされています。元々は二上山上に鎮座し「二上権現」と呼ばれていました。現社地には鎌倉時代の暦仁(りゃくにん)元年(1238年)に遷座したとされますが、現社地には元々恵比須神社(一名 土祖神社)があり、科長神社が当地に遷座するに当たりその末社とされたと伝えられています。
一説には江戸時代、葉室大納言藤原頼孝により現在地に遷座され、この時に藤原氏の祖神である春日神(武甕槌命・経津主命・天児屋根命など)を勧請・合祀したので、主祭神にその他の神々を加えて八社大明神と呼ばれるようになったともいわれています。ちなみに、南河内では千早赤阪村東阪の
不本見神社でも風の神(天神柱命(天御柱命)と国神柱命(国御柱命))が祀られています。
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「科長社」と彫られた石燈籠 |
科長神社の鎮座地は、明治の初めまで河内国石川郡山田村でした。明治22年(1889年)に畑村と合わせて新たな山田村が発足、明治29年(1896年)には所属郡が南河内郡となりました。そして昭和31年(1956年)に磯長村と合併して太子町となっています。
科長神社は明治5年(1872年)に旧社格制度で郷社に列格。明治40年(1907年)1月に神饌幣帛料供進神社に指定されました。また、同年10月19日に当時の南河内郡磯長村大字太子字上城の村社
科長岡神社と、磯長村大字春日字村内の村社素盞嗚神社(春日西之宮)を合祀しました。
主祭神の名にある「級長」は「しなが」とも読み、当社の「科長」や周辺の地名でもある「磯長」も同じ読みとなっています。
境内
科長神社は集落の東端から細い川を渡り少し坂を上ったところにあります。坂を上るとちょっとした広場になっていて、左に科長神社の鳥居、正面に
小野妹子の墓所に続く長い石段があります。
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神社正面(右の石段の先が小野妹子の墓) |
小野妹子の墓所への石段の上り口の脇に手水舎があります。
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手水舎 |
手水舎と同じ水源かは不明ですが、本殿の裏側には「八精水」と呼ばれる湧き水があり、当麻の刀鍛冶がここの水で刀剣を鍛えたとも伝えられています。
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鳥居の扁額 |
石造りの鳥居には銅製の額がかけられていて、前出の藤原頼孝卿の筆による「八社大明神」という文字がありますが、この書体は当社の御朱印にも取り入れられているようです。ちなみに、
建水分神社の大鳥居の額にある「正一位 水分大明神」の文字も藤原頼孝卿によるものです。
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拝殿 |
鳥居をくぐると、正面よりやや右方向に拝殿が見えます。
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「八社大明神」と書かれた献灯も |
軒下などに多数の彫刻が見られる拝殿を覗くと、奥には本殿が見えます。
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拝殿右側より見た本殿など |
拝殿の横から奥に進むと本殿があり、二上神社、恵比須神社、琴平神社(金毘羅大権現)も鎮座しているようです。
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社務所 |
拝殿に向かって左手に社務所があり、右手には御神輿か何かを収納しているような建物がありました。
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拝殿右側の庫? |
「式内社調査報告」には「科長→磯長→息長と転じ、息長氏の出である神功皇后の誕生地伝説が生まれたのではないか」と記されるなど、当地には神功皇后誕生の地という伝承もあり、科長神社の宝物には神功皇后所用と伝わる雛形の兜があります。太子町内の竹内街道歴史資料館には神功皇后雛形兜のレプリカが展示されているそうです。
祭礼
毎年7月24日から30日の間の日曜日の例祭には、神輿と地車(だんじり)5台が出されて賑わいます。この辺りでは唯一の神輿とだんじりが繰り出す夏祭りです。
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境内南側に並ぶ石燈籠 |
大道(だいどう)町のだんじりは文化4年(1807年)に作られた大阪府内で最も古い石川型のだんじりとされ、西町のものも天保3年(1832年)製と同じく江戸時代に作られただんじりです。永田町のだんじりは岸和田型を改造したもので、東條(ひがんじょう)町と後屋(ごや)町のだんじりは、大阪府に3台しかない大変珍しい船形のだんじりです。
境内社等
鳥居と拝殿の間はだんじり5台が入れる広場となっています。拝殿とその広場を挟んで正対するのが境内社の金平大明神です。
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金平大明神 |
科長神社には境内社として二上神社、恵比須神社、琴平神社、稲荷神社が祀られているようですが、こちらは赤い鳥居と狐、幟からして稲荷神社のようです。他の境内社は前述のように本殿脇にあるようです。
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裏側から見た金平大明神の稲荷幟(旗) |
また、鳥居から出ると、正面の木々の間を(西南西方向に)一直線に貫く道がありますが、この道を150mほど進むと少し開けた場所に出ます。そこには石の鳥居と祭壇のようなものがありますが、鳥居が明治32年(1899年)6月に建てられたものという以外は詳細不明です。
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森の奥の明治時代に造られた鳥居 |
以前は祠があったような形状にも見えますが、他の神社で見られる神輿台のようでもあるので御旅所にも見えますが詳細は不明です。
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石造りの台とその周辺 |
なお、前述のように科長神社は明治40年に近隣の
科長岡神社、素盞嗚神社を合祀していますが、この内、科長岡神社は現在
叡福寺の境内奥に鎮座(復社?)していることを確認済みです。
アクセス
太子町内の国道166号(竹内街道)沿いにある「
道の駅 近つ飛鳥の里・太子」から200m程西(大阪寄り)にある1つ目の信号を目指します。信号から南(太子カントリー倶楽部方面)に延びる広域農道「南河内グリーンロード」に入り、約300m先の信号のある交差点(さらに100m程先を左折しても行けます)を左折し、集落の中を300m程進み突き当りを右に折れると科長神社へ上る坂道が見えてきます。
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科長神社への坂の上り口 |
広域農道から集落へ入ると徐々に道幅が狭くなるのでご注意ください。なお、科長神社の駐車場は確認できませんでした。神社への坂の下に駐車可能なスペースがありましたが使用できるかは未確認です。道の駅からでも徒歩で1km弱です。
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川の右手の森の奥が科長神社 |
公共交通機関では、近鉄長野線「喜志」駅、あるいは南大阪線「上ノ太子」駅から金剛バスに乗り「推古天皇陵前(旧御陵前)」バス停下車。すぐそばの丁字路から東の山に向かって歩き、道なりに900mほど進んで突き当りを右に行くと科長神社への坂が見えてきます。ちなみに、
推古天皇陵はバス停から300mほど南にあります。
※追記:2020年(令和2年)頃、科長神社から約350m西の南河内グリーンロード沿いに「科長神社口・ふくの音前」バス停が設置されました。
Shinaga Shrine(Taishi Town,Osaka Prefecture)
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