二子塚古墳(南河内郡太子町) ・国の史跡に指定された全国で唯一の双方墳

二子塚古墳

2022年2月訪問
二子塚古墳(ふたごづかこふん)は大阪府南河内郡太子町山田にある古墳です。現在は二上山の麓に広がる田園地帯に溶け込むように佇む古墳ですが、磯長谷古墳群を構成する古墳の一つで、すぐそばにある推古天皇陵(山田高塚古墳)と共に古くからその存在が知られていた古墳でもあります。

二子塚古墳(南河内郡太子町)
二子塚古墳(南河内郡太子町)

古市古墳群のある南河内地域の古墳としてはそれほど大きくありませんが、形状は全国的にも珍しい双方墳で国の史跡にも指定されています。


歴史と概要

二子塚古墳は推古天皇陵と同様に、大阪府の南東部、奈良県との境にある二上山の西麓に伸びる台地状丘陵の西端部に築かれた古墳で、推古天皇陵からは東南東に直線距離で約200mの距離にあります。その形は二つの方墳をつなぎ合わせた双方墳という極めて珍しい形状で、現時点で発掘調査によって双方墳と確認されたのはこの二子塚古墳のみとなっています。

太子町ホームページや現地説明板などによると、二子塚古墳は一辺約25mの方墳二基が南西から北東に渡って並列する主軸長が60mを越える古墳です。全長は資料により61m、66mなどがありますが、令和元年(2019年)度・令和2年(2020年)度の調査資料では全長約69m、幅約35mとなっています。墳丘は3段築成で墳丘表面に葺石や埴輪は認められないものの敷石が確認された他、墳丘の周囲には周溝の掘削が認められ、築造時期は7世紀中葉とされます。

二子塚古墳は長方形の下段墳丘上に東西二つの方形の上段墳丘が築かれる、という構造ですが、それぞれの墳丘には南東方向に開口する横穴式石室があり、いずれにもほぼ同じ形で同じ大きさの横穴式石室が構築され、珍しい蒲鉾型の家形石棺が納められています。石室は長方状の箱形で、東墳丘石室は長さ約5m、幅約1.8m、高さ約1.6mで、一方の西墳丘石室は長さ約5.3m、幅約1.5m、高さ約1.55mで、壁面に塗布された漆喰が残っていました。

石棺はそれぞれ石室のほぼ中央に置かれ、身は刳拔き式で外法長さ約2.2m、幅約1m、高さ約0.7m、蓋は一枚石の蒲鉾形となっています。


盗掘を受けており、遺物のほとんどが失われていますが、羽釜形土器(一説に後世の骨壷)や小皿形土器、鉄釘が出土したそうです。


このように、二子塚古墳が長方形の下段墳丘に二つの方墳が載る双方墳で、横穴式石室が短い羨道に特異な墓道を持ち、蒲鉾型の家形石棺が納められていることなどから、古墳時代終末期に属する古墳として稀有なもので学術上の価値が高いとして、昭和31年(1956年)に国の史跡に指定されました。また、令和元年には更なる発掘調査で古墳の範囲が拡大したことから追加指定を受けています。

二子塚古墳(南河内郡太子町)
説明板

二子塚古墳の記録としては、享和元年(1801年)に刊行された「河内名所図会」に鳥瞰図と共に「二子塚 山田村推古陵の東にあり 二ッ双ふをもつて名によぶ」とみえ、江戸時代にはすでに知られていたことがわかります。

また、当古墳の被葬者は不明ですが、第33代推古天皇と竹田皇子の真の合葬陵墓がこちらであるとの伝承があります。


太子町ホームページによると、大正4年(1915年)、土取りによって東墳丘石室が発見されます。この時に考古学者の喜田貞吉と梅原末治が現地調査を行いましたが、梅原の「河内國山田村二子塚調査報告」によると、「大正4年3月末にその一部が住宅の壁土とするため削られ大石が出たと所有者の田中氏へ報告があり、現地へ行くと頂上が削り取られ、その下に天井石がみえ、その下に石室があり、中に石棺を発見した」と記されています。その翌年頃には、開墾により西墳丘石室が発見され、その中から石棺が発見されています。その後、二子塚古墳は幾度となく開墾の危機にさらされますが、所有者の努力により守られたそうです。

しかし、昭和31年になるとついに古墳が売りに出されることとなります。そこで、同年4月29日から5月6日に河南高校考古学クラブが二子塚古墳の記録保存のため測量調査を行い、その成果を墳丘測量図などから、当古墳が2基の方墳が連なる全国的にも珍しい双方墳で、小型化した横穴式石室、退化した蒲鉾形の石棺など、古墳時代終末期の姿を示す貴重な古墳であることを雑誌で発表しました。

その後、前述のように二子塚古墳は昭和31年11月28日に国史跡に指定され、昭和32年(1957年)3月に公有地化されました。

近年は、墳丘や石室の劣化が進み適切な保存管理が急務となっていたことから、太子町では専門家による検討委員会の指導の下、平成28年(2016年)度から平成29年(2017年)度にかけて発掘調査を実施して古墳の現状を確認。その結果、露出している東墳丘石室内が床面まで良好な状態で保存されていることと、墳丘北側と東側裾部で区画溝、北側ではその外側にテラスと地山削り出し斜面があることが確認され、古墳の規模が拡大することが判明し、令和元年10月16日に追加指定されました。

二子塚古墳(南河内郡太子町)
ウェブリンク集QRコード

太子町では二子塚古墳の保存整備事業を進めており、今後は開口している石室はそのままに、のぞき込み見学が可能なようにしながら墳丘を保護。また、墳丘保護のためやむなく墳丘上に生えていた桜の伐採を行ったことから、エントランスゾーンに新たに桜を植栽して景観を継承し、見学路やトイレなどの便益施設を設置する計画だそうです。このような整備が進むと、当古墳から南南西約5kmの河南町芹生谷にある金山古墳公園のようになるのかもしれません。ちなみに、金山古墳は全国的に珍しい双円墳です。


二子塚古墳の詳細については太子町のホームページ(歴史文化に関すること)で確認出来る他、現地の電柱に当古墳に関するウェブリンク集のQRコードが掲示されていました。

●太子町教育委員会による第3次(平成31年度)・第4次(令和2年度)の調査成果報告動画 →https://youtu.be/ACkY4t9QXYI


古墳の現状

二子塚古墳は現在も田畑に囲まれた長閑な田園風景の中にありますが、当古墳へ至る道としては、推古天皇陵から田畑の中を抜ける北西から、推古天皇陵参道入口から車道で迂回して南西から、「二子塚前」バス停より向かう南東から、磯長神社小野妹子の墓方面からなどグリーンロードを通る北東からのルートがあります。

二子塚古墳(南河内郡太子町)
南から見た二子塚古墳

今回は南西、南東ルートが合流する古墳南側の給食センター前から北に向かいました。こちらから見ると、二子塚古墳を見上げる形となり当古墳が丘陵地の端に築造されたことがよくわかります。

ちなみに、平成の終わりごろまでは墳丘には多数の桜の木がありましたが発掘調査のため伐採されています。

二子塚古墳(南河内郡太子町)
東側にある古墳への坂道(右)

一旦古墳南側の道路で古墳の下を通り過ぎ、東側の交差点付近から古墳に向けて分かれている坂道を上ります(ガードレールあり)。

二子塚古墳(南河内郡太子町)
段丘上に到達

坂道を上り切ると台地の上に出ますので、そのまま西に見える古墳に向かって歩きます。

二子塚古墳(南河内郡太子町)
東墳丘南側の細道

まず東墳丘の南側を通って東西両墳丘の中間部を目指します。

二子塚古墳(南河内郡太子町)
東から見た両墳丘中間付近

中間部に着くと「史跡二子塚古墳」の碑(石標)があります。

二子塚古墳(南河内郡太子町)
史跡二子塚古墳の石標

この石標は、二子塚古墳が国史跡に指定された翌年、公有地化された昭和32年3月に建てられたようです。

二子塚古墳(南河内郡太子町)
両墳丘の間から見た推古天皇陵

東西両墳丘の間から西北西を見ると、田畑の真ん中にこんもりとした小山が見えますが、これが推古天皇陵です。

二子塚古墳(南河内郡太子町)
西墳丘

訪問時は発掘調査から整備に移る前の段階ということで立ち入りを制限するロープや保護のためにシートを掛けられた部分が多かったです。

二子塚古墳(南河内郡太子町)
西墳丘の保護シート

保護シートの下の様子は不明ですが、広範囲に発掘調査されたことがわかります。

二子塚古墳(南河内郡太子町)
墳丘上から見た推古天皇陵

墳丘上の通行可能な場所からは周辺の景色が一段と良く見えます。

二子塚古墳(南河内郡太子町)
西墳丘から見た東墳丘

西墳丘から東墳丘を望むと奥には二上山も見えます。

なお、東西の墳丘間にある中央土壇は西墳丘と同時に造られたことが確認されています。

二子塚古墳(南河内郡太子町)
東墳丘南面

次に、石室の一部と思われる大きな石が露出している東墳丘に向かいます。

二子塚古墳(南河内郡太子町)
東石室内の石棺

近付ける範囲の石の隙間から内部の石棺も確認出来ました。

二子塚古墳(南河内郡太子町)
畑・平石方面を望む

東墳丘上で南東方向を向くと、畑地区、高貴寺磐船大神社のある平石の峰、さらにその奥の金剛・葛城山系の山々が一望できます。

二子塚古墳(南河内郡太子町)
北側から見た二子塚古墳

東西の墳丘間を抜けて古墳の北西側に出ると、こちらに説明板が設置されていました。

二子塚古墳(南河内郡太子町)
推古陵拝所から見た二子塚

太子町内の史跡巡りコースとしては、推古天皇陵から田畑の間を抜けて北側から二子塚古墳に至り、さらに南のグリーンロード沿いにあるバス停からバスに乗るのが推奨コースとなっているのかもしれません。


アクセス

公共交通機関では、近鉄南大阪線「上ノ太子」駅から金剛バスに乗車し「二子塚前」バス停で下車。坂を下りバス停のすぐ北側にある交差点を左折し西に向かいます。道なりに300mほど進んで太子町立学校給食センターの手前を右に入り坂を上り始めると正面に二子塚古墳が見えてきます。

古墳への登り口は、給食センターから200mほど歩いた先にある交差点を左折するとすぐ左手に古墳方面に向かう坂道が分かれています。


推古天皇陵から向かう場合は、参道入口から南東に300mほど進むと上記の給食センターがあるので給食センターを越えて左折します。また、推古天皇陵の拝所付近から南東に見える二子塚古墳方面に田畑の間を縫って歩くと約300m弱で着きます(こちら側に説明板があります)。

二子塚古墳に見学者用駐車場はありません。

Futagozuka Tumulus(Taishi Town,Osaka Prefecture)


にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ

コメント