不本見神社
2021年3月訪問
不本見神社(ふもとみじんじゃ)は大阪府南河内郡千早赤阪村東阪(あずまざか)にある神社です。その鎮座地は、大阪府の南東部に位置し府下唯一の村として知られる千早赤阪村にある不本見山の山頂で、南河内でも指折りの“参拝難易度”が高い神社ともいえます。
不本見神社(南河内郡千早赤阪村) |
不本見神社はその由緒や山頂にあって立派な社殿も気になりますが、祭礼時の奉納相撲や鎮座する山自体にも興味深い言い伝えがあります。
歴史と概要
不本見神社の正確な創建年は不祥です。現在の御祭神は共に風の神である天神柱命(あめのみはしらのみこと)と国神柱命(くにのみはしらのみこと)の二柱となっています。
不本見神社参拝時点では神社について記された説明板はなく、公式ホームページも無いようでしたが、大阪府全志などに記された社伝によると、不本見神社が鎮座する不本見山は第7代孝霊天皇癸酉の歳5月8日、一夜にして湧き出た山といわれ、「夜山」や「本見ぬ山」と呼ばれました。不本見山は茶碗を伏せたような形をしており、神の宿る山として信仰されたそうです。
第42代文武天皇の御代(697~707年)、この地を訪れた役行者(役小角)は当山にただならぬものを感じてここに天御柱神を祀り、さらに自らが彫った蔵王権現と金伽羅童子の像を安置したと伝えられていることから、これをもって不本見神社の創建とされています。
また、第45代聖武天皇の時代(724年~749年)には行基も当山を訪れ不動尊を祀り、弁財天女の宝殿を後嶺に構えたそうです。
中世、当地周辺を根拠地として活躍した大楠公こと楠木正成は常に当社を信仰し、随身の毘沙門天像や宝劔などを奉納して武運長久を祈願したと伝えられています。また、この頃不本見山には本宮城という城も築かれたようです。
江戸時代の「河内名所図会」には不本見山に牛頭天王、八将神の祠があり、 本地堂には十一面観音(2尺1寸)を安置し、 平等院と号していたとあります。
明治に入ると、神仏分離令によって蔵王権現をはじめとした仏像は当社から切り離されました。この頃に、御祭神として天神柱命と国神柱命が龍田神社から勧請されたとありますが、これは現在の奈良県生駒郡三郷町にある龍田大社のことでしょうか。なお、勧請元の龍田大社では、天神柱命は「天御柱命」、国神柱命は「国御柱命」表記となっています。
明治5年(1872年)に近代社格制度で村社に列格し、明治41年(1908年)12月には神饌幣帛料供進神社に指定されました。この頃の境内社としては天照皇大神社、住吉社、熊野社、八幡社、春日社、賀茂社、弁財天社が記されています。
現在、拝殿に向かって左手にある境内社は、平成30年(2018年)の台風21号で全壊に近い被害を被りましたがすぐに再建が進められ、翌令和元年(2019年)10月16日の秋祭りに合わせて遷座式が執り行われて、現在は美しい姿を取り戻しています。
鎮座地周辺は、明治の初めまで河内国石川郡東阪村でしたが、明治22年(1889年)の町村制施行により中津原村、小吹村、吉年村、千早村と合併して新たに千早村が誕生し、旧村はその大字となりました。明治29年(1896年)に所属郡が南河内郡となります。この当時の不本見神社鎮座地は南河内郡千早村大字東坂の不本見山(字名不明)となっています。千早村は昭和31年(1956年)に赤阪村と合併して千早赤阪村となっています。
集落入口の標識 |
不本見山の南側に上東阪の集落があり、もともとは集落から山頂の神社には最短のコースとして石段の参道があったようですが、現在は安全上の理由からか通行が禁止されています。このような状況から、当社に参拝するには(麓の集落から見て)迂回する形で上る必要があります(後述)。
不本見神社のもともとの御祭神は修験道の本尊である蔵王権現でした。蔵王権現は神道においては安閑天皇(広国押建金日命)の他、金山毘古命、大己貴命、少彦名命、国常立尊などと習合し同一視されたため、明治時代の神仏分離の際、蔵王権現を祀る神社はそれらの神々を御祭神と改めることが多かったようですが、不本見神社では龍田大社の御祭神で風の神である天神柱命(天御柱命)と国神柱命(国御柱命)を祀ることになりました。なお、龍田大社の社伝や祝詞では天御柱命は志那都比古神(級長津彦命)、国御柱命は志那都比売神(級長津姫命)としています。南河内で級長津彦命と級長津姫命を祀る神社としては旧石川郡山田村(現太子町山田)の式内社である科長神社が有名です。
現在でも境内には「蔵王権現」と彫られた石灯篭などが残されています。また、当社から1.5kmほど西北西にある旧吉年村の村社金峰神社では蔵王権現と同一視された広国押建金日命(安閑天皇)が主祭神となっていることから、周辺では蔵王権現への信仰や修験道との関わりが深かったと思われます。
不本見神社の境内には鎌倉時代前半の作と推定される層塔があります。この層塔は、灯身に梵字だけだはなく仏像が彫られるなど大変珍しい塔ですが、材質が大変脆い凝灰岩ということで、保護の必要があるという意味を込めて平成24年(2012年)8月31日に村指定の有形文化財の第1号となりました。
なお、現在の千早赤阪村内には旧府社の建水分神社、千早神社、旧村社の金峰神社、中津神社、小吹八坂神社などといった神社があります。
不本見神社は神職不在神社で、羽曳野市高鷲にある式内社大津神社が管理しています。
祭礼
4月の春祭りでは地域の人々によって盛大な餅まきが行われます。また、秋祭りには「ヤーホ相撲(ヤホー相撲)」が奉納されています。ヤーホ相撲が奉納されるようになった経緯については千早赤阪村のホームページに以下の言い伝えが紹介されています。
昔、子どもたちが相撲をとって楽しんでいると、風がおこり、木の上より「ヤーホ」という声と笑い声が聞こえました。そこで、子どもたちは木の上を見たところ誰もいなかったため、驚いて服も着ずに裸のまま逃げ帰りました。子どもたちの話を聞き、親たちも驚いて来てみると、子どもたちの衣服がきれいに整えられていました。その様子から、きっと神様が相撲を好まれて、見物に降臨されたのであろうと考え、以来、不本見山の大祭に「ヤーホ相撲」が奉納されるようになったということです。
このように、不本見神社では秋祭りの宵宮の夜に「ヤーホ相撲」という子どもたちによる相撲が氏神様に奉納されます。
参道と境内
前述のように、不本見神社への参拝には地元の人々しか知らないような山道も通るので、初めて参拝される方は注意が必要です。今回は以下に二通りの経路をご紹介します。
東阪駐在所(神社は右後方) |
一つ目は、府道705号富田林五條線(南河内グリーンロード重複区間)沿いにある富田林警察署東阪駐在所付近から上るコースです。
駐在所から50mほど府道を上ると左に「日本ライトハウス 盲導犬訓練所」の看板があるので、しばらく訓練所に向かって上ります。途中で右に曲がるところがありますが、300mほど進むと訓練所前となります。
森の中を進む坂道 |
訓練所前を通過すると後は基本的に一本道ですが、途中で舗装道路ではなくなります。
農業用モノレール |
しばらく進むと農業用モノレールや少し広い場所があって、この辺りまでは(軽)自動車で来れないことは無いようですが、関係者以外駐車可能かどうかは不明です。
西側から見た石の鳥居 |
さらに進んで神社に近くなると比較的急な上り坂などもありますが、やがて前方左手に石造りの鳥居が見えて来ます。
駐在所前からは、一部下りもあるもののほとんどが上り坂という西側から向かう1km少々の道のりでした。
阪本橋と不本見山 |
二つ目は、上東阪集落の北側から上るルートです。今回は府道705号に並行して流れる千早川に架かる阪本橋付近から上る道順をご紹介。
府道から阪本橋を渡り右折し、道なりに約300m進んで上東阪橋を渡って左折します。40mほど進むと交差点に出るので右に曲がり、以降はほぼ鬱蒼とした森の中を進むことになります。
神社へはここを右上に |
程なく道は上り坂になり、最初の分岐は右に進み山を登って行きます。こちらのコースも基本的に一本道ですが、途中に畑などに入る道もあるので注意が必要です。
東側から見た石の鳥居 |
最後の坂を上ると右側に石造りの鳥居が現れます。
阪本橋からは神社の東側から上るコースで、駐在所前からより少し距離は短いようですが、坂がきつい印象でした。
鳥居から下の参道を封鎖するパイプ |
どちらのコースから上ってきても石段下の石の鳥居前で合流しますが、本来はこの鳥居の正面にある石段から上って参拝していたと思われます。鳥居から下の石段はどこかで崩落しているのか、現在は通行止めとなっています。
上から見た通行禁止の石段 |
通行止めとなっている鳥居から下を見ると、枯葉に覆われた石段が続いていることがわかります。
石段と上の鳥居 |
参道合流地点に建つ石の鳥居から石段の先を見上げると、最後の石段があと数十段続いており(手摺あり)、頂上に大きな鳥居が建っているのが見えます。手前に見えるのは塞の神でしょうか。
石段から見た境内 |
最後の石段を上り切ると、鳥居の間から境内とその奥に建つ拝殿が見えます(写真の鳥居の下に横たわるのは細い倒木)。こちらの銅製と思われる鳥居には昭和46年(1971年)9月の銘があります。
頂上から見下ろした石段 |
石段の頂上で振り返ると、上ってきたばかりの石段と下の鳥居が見えます。その下に続く通行不止めになっている参道が通れた頃はさらに見事な石段の風景だったと思われます。
広場と拝殿 |
鳥居をくぐると、広場になっており、正面に拝殿が見えます。
狛犬と灯篭と手水舎 |
鳥居をくぐるとすぐにそれぞれ一対の狛犬と石灯篭が置かれています。こちらの灯篭には「蔵王大権現」、「文政五年壬午(1822年)」とあります。
手水舎は左手やや後方にあります。逆に右手には百度石があります。
手水鉢と石造物 |
手水舎周辺には一部が欠けたかつての?社号標をはじめ、様々な石造物の一部と思しき石材が集められているようでした。村指定の文化財である層塔は手水舎付近から少し下った所にあります(後述)。
拝殿内部 |
まずは、主祭神に参拝します。
社務所などを兼ねていると思われる拝殿からは、奥の階の先に本殿の一部が見えます。
拝殿から見た広場と鳥居 |
拝殿で振り返ると、正面に鳥居があり、その周囲に狛犬や灯篭が配置されていることがわかります。社殿と二つの鳥居までの参道・石段は一直線で、ほぼ南を向いています。
南東側から見た広場 |
拝殿前の広場には特に何もなく、建物や境内社、石造物などは広場を取り囲むように配置されていることから、餅まきなど村人が集まる祭事は主にここで執り行われているようです。
南から見た境内社群 |
次に、不本見神社の見どころの一つである境内社に参拝します。当社の境内社は、拝殿に向かって左側、境内の西側に一列に並んで東向きに鎮座しています。
境内社のお社は流造で、左から八幡神宮、加茂神宮、神明神宮、大神宮、春日神社、天神神社、住吉神社の順で並んでいます。なお、八幡神社の左側に他より一回り小さなお社がありますが訪問時は何も祀られていないようでした。
北から見た境内社群 |
前述のように、これらの摂社は平成30年の台風で大きな被害を受けたことから翌年新たに造り直されたそうで、社殿の木と屋根の銅板が真新しさを感じさせます。
本殿 |
不本見神社の拝殿の左手、境内社列の前を通って境内の西側に回ると、神明造りの本殿が現れます。拝殿の奥から本殿の周囲にかけて透塀で囲われていて近づくことは出来ませんが、立派な本殿の姿をしっかり見ることが出来ます。
本殿の裏側 |
さらに境内の北側まで来ると、神明作りの特徴の一つである床が高い構造がよくわかります。これは高床式倉庫の名残であると考えられています。南河内でここまで立派な神明造の社殿は貴重な存在と思われます。
社殿の北側は相撲取場や踊場という字地だったようです。
境内東側 |
拝殿前に戻り、拝殿に向かって右側(東側)を見ると、細長い屋根付きの休憩所のような建物があり、拝殿の右手にも建物があります。
絵馬堂 |
拝殿右側の建物は床を見ると物置のようですが、天井を見ると絵馬堂であることがわかります。
奉納絵馬 |
こちらに掲げられている絵馬は主に明治時代に奉納されたものようです。
不本見神社層塔 |
次に、千早赤阪村指定文化財第1号である「不本見神社層塔」へ向かいます。
層塔は境内南西の少し斜面を下った場所にありますが、手水舎の横にある坂道を少し下るとすぐに見つけられます。
不本見神社層塔の説明板 |
不本見神社層塔には説明板があり、それによると、層塔の建立時期は鎌倉時代中期と推定されており、二上山山麓から産出される流紋岩質凝灰角礫岩で造られています。現在の高さは170.3cmで三重の塔に見えますが、もとは五重塔だったと考えられています。
層塔は下から基礎、塔身、屋蓋、相輪で出来ていますが、屋蓋の一部と相輪が失われています。塔身には仏像の姿と仏を表す梵字が彫られています。仏教の諸尊を梵字一文字で表したものを種子(じゅじ)といいますが、梵字「ウーン」は阿閦如来(あしゅくにょらい)、「タラーン(タラーク)」は宝生如来(ほうしょうにょらい)、「キリーク」は阿弥陀如来(無量寿仏)を表しています。仏像は如来を表しているようですが、仏を表す指の形(印相)は磨滅して何を表しているかよくわかっていません。他の種子が「金剛界の四仏」を表していることから、釈迦を表す不空成就如来(ふくうじょうじゅにょらい)と考えられています。
なお、四仏は金剛、胎蔵両界曼荼羅において大日如来の四方に鎮座する仏で、金剛界では東は阿閦、南は宝生、西は無量寿、北は不空成就となっています。
アクセス
府道705号富田林五條線の「森屋」交差点から約1.8km南に進み、富田林市消防署千早赤阪分署や赤阪の棚田駐車場前の分岐を左に進みます。この分岐から1.1kmほぞ進むと駐在所があります。
阪本橋へはさらに600mほど先の丁字路を左折し、約500m進むと左手に阪本橋があります。
いずれにしても、不本見神社周辺に観光用駐車場は無いようです。
公共交通機関を利用する一例としては、近鉄長野線「富田林」駅から金剛バスに乗車し「東阪」バス停下車。バス停から南東に向かい、約250m先を左折。道なりに350mほど歩くと上記の駐在所前に着きます。
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