大津神社(羽曳野市) ・羽曳野市北西部を氏地とする古代豪族津氏ゆかりの式内社

大津神社

2021年5月訪問
大津神社(おおつじんじゃ)は大阪府羽曳野市高鷲にある神社です。平安時代の「延喜式神名帳」という書物に河内国丹比郡11座のうちの三座として名前が記載された、いわゆる式内社(小社)で、明治時代の旧社格制度では村社に列格していました。

大津神社(羽曳野市)
大津神社(羽曳野市)

現在は、駅前にある普段は静かな住宅地の中に佇む神社、といった趣の大津神社ですが、古くから広範囲の氏子地区を持つことで知られ、地域でも重要な神社だったようです。


歴史と概要

大津神社の正確な創建年は不祥です。主祭神として素盞嗚尊(すさのおのみこと)、奇稻田姫命(くしいなだひめのみこと)、天日鷲命(あめのひわしのみこと)を祀っている他、大山咋命(おおやまくいのみこと)、菅原道真公が配祀神として祀られています。


由緒記などによると、第15代応神天皇(4~5世紀初め頃)の御代、秦氏の祖である弓月君(ゆづきのきみ)や南河内にも所縁のある王仁(わに)など多くの渡来人の来朝がありましたが、大津神社のある河内地方は難波の津と大和を結ぶ要路であったことから土着した渡来人も多かったとされています。

当時、この地方には、百済の近仇首王(きんきゅうしゅおう・貴須王(きすおう)とも)の子孫とされる葛井氏、船氏、津氏の三氏が勢力を張っていましたが、この三氏のうち津氏一族がこの地を「大宮山」と称して自らの祖先、あるいは守護神を奉斎したことが大津神社の発祥と考えるのが古くからの定説となっているそうです。

ちなみに、貴須王の孫が王仁と共に来朝した渡来人の辰孫王(しんそんおう)で、その4代孫がそれぞれ葛井氏、船氏、津氏の祖となったとされています。葛井氏は葛井寺(現藤井寺市藤井寺)を氏寺とし辛國神社(藤井寺市藤井寺)と、船氏は野中寺(羽曳野市野々上)を氏寺とし国分神社(柏原市国分市場)と関係があった、との説もあります。

大津神社(羽曳野市)
由緒記

羽曳野市が境内に設置した「歴史街道」の説明板には、当地が羽曳野市の古市付近から島泉付近の東除川につながる人口水路「古市大溝」の流路沿いであったとみられることから、この地を本拠地として西国からの貢物輸送などに関わっていた渡来系氏族の津氏が祖先神を祀った社が大津神社の始まりであるという説が記されています。

大津神社は津氏一族の守護神として創祀されたとみられますが、後に津氏一族は朝廷に召されて大和国に移住しました。津氏は延暦9年(790年)に連から朝臣への改姓を上表し許され、菅野朝臣と称しました。

しかし、平安時代になると氏姓制度は徐々に衰退し、当社と津氏の関係も薄れていったようで、中世以降には、大津神社はこの地方九ヶ村の人々の氏神として受け継がれ、「河内の大宮」などと呼ばれるようになりました。また、仏教の隆盛に伴い、本地垂迹説に基づいて「午頭天王社」と称し「北宮の午頭さん」とも呼ばれました。また、境内には真言宗の神宮寺である大宮山南之坊を設けて神仏混淆となり、社僧の支配を受けることとなりました。

この九ヶ村とは、概ね旧河内国丹南郡の北宮村、南宮村、西川村、南島泉村、丹下村、伊賀村、向野村、野々上村、埴生野新田かと思われますが、これらは現在の羽曳野市北西部に当たります。


現在の大津神社の本殿、拝殿、幣殿からなる社殿は江戸時代の寛永17年(1640年)に建立されたものとされています。

大津神社(羽曳野市)
歴史街道の説明板

明治5年(1872年)5月に旧社各制度で村社に列格し「神道大津神社」となり、明治40年(1907年)1月には神饌幣帛料供進神社となりました(明治期に神宮寺は廃寺となったようです)。同年10月7日に高鷲村大字東大塚字天神山の村社菅原神社、大字丹下字西口の無格社日吉神社、埴生村大字野々上字久保の村社八幡神社、同月14日に埴生村大字埴生野字宮林の村社埴生神社を合祀しています。これにより、氏地は高鷲村と埴生村、丹比村大字樫山にまで広がりました。

現在の御祭神のうち、大山咋命は大字丹下の日吉神社、菅原道真公は大字東大塚の菅原神社の御祭神を合祀したものと思われます。また、合祀された各神社には後に再建・復社したものも多く、現在は丹下日吉神社(現羽曳野市恵我之荘)、野々上八幡神社(羽曳野市野々上)、埴生野神社(羽曳野市はびきの)が旧社地に鎮座しています。西川八幡神社(羽曳野市恵我之荘)と八王神神社(羽曳野市樫山)については詳細不明です。

第二次大戦後は連合国最高司令部(GHQ)の占領政策による神道指令によって神道・神社は国家より分離され、昭和21年(1946年)6月2日には宗教法人令に基づき神社本庁所属の「宗教法人大津神社」が発足し、今に至ります。

大津神社の鎮座地周辺はかつて河内国丹南郡丹下郷の宮村と呼ばれていましたが、やがて宮村は南北に分かれ、鎮座地は明治時代まで丹南郡北宮村に属していました。北宮村は明治22年(1889年)に南宮村、南島泉村、西川村、丹下村、丹北郡島泉村、東大塚村と合併して高鷲村となり、明治29年(1896年)に所属郡が南河内郡に変更。当時の大津神社鎮座地は南河内郡高鷲村大字北宮字丹下となっています。その後、高鷲村は昭和30年(1955年)に高鷲町となり、翌年には古市町、埴生村、西浦村、駒ヶ谷村、丹比村と合併して南河内郡南大阪町となります。昭和34年(1959年)には南大阪町が市制施行して南大阪市となりますが、この南大阪市は誕生すると即日改称して現在の羽曳野市となっています。


主祭神については、延喜式に三座とあることからもともと津氏に関係のある三柱の神が祀られていたのかもしれませんが、周辺住民の産土神となって以降は素戔鳴命と奇稻田姫命の夫婦神(江戸時代までは牛頭天王と頗梨采女?)、そして天日鷲命を祀るようになったと考えられます。

また、大津神社の境内には大宮戎社(祭神:戎大神)、大宮稲荷社(祭神:宇迦之御魂大神)、辯天宮(祭神:市杵嶋姫命)、平和之社(やわらぎのやしろ)の社があります。

現在は厄除開運、縁結び、安産、家内安全、交通安全、引越しや住居のリフォーム等の方災除けの御神徳があるとされています。


大津神社周辺を見ると、北西1km前後の距離に西川八幡神社、丹下日吉神社・白龍大神、一津屋厳嶋神社、1kmほど東に葛井寺、辛國神社、1.5kmほど北東に小山産土神社、1.5kmほど南東に野中寺、野々上八幡神社、埴生野神社、1.5kmほど南南西に八王神神社といった神社仏閣がある他、700mほど北に雄略天皇陵、1kmほど東南東に仲哀天皇陵、1.4kmほど西に河内大塚山古墳、1.6kmほど北東に津堂城山古墳といった大きな古墳もあります。

また、少なくとも現羽曳野市野々上の野々上八幡神社、藤井寺市野中の野中神社、千早赤阪村吉年の金峰神社、千早赤阪村東阪の不本見神社が大津神社の兼務社となっているようです。

●大津神社ホームページ →https://itp.ne.jp/info/278313894300000899/


祭礼

境内に大宮戎があることから毎年1月にえびす祭、いわゆる「えべっさん」があります。7月の夏越祭には多くの出店が出て賑わう他、10月の例大祭では周辺の各地区から地車(だんじり)が宮入するようです。また、毎月一日には「おついたち」と呼ばれる一日参りで賑わうそうです。


神社の周囲と境内

大津神社は、近鉄線「高鷲」駅南側の住宅の多い地域に鎮座しています。


大津神社(羽曳野市)
大津神社の北東角

駅から南に100mほど進むと信号のある交差点があり(途中左手に不動尊があります)、右前方に大津神社が見えて来ます。

大津神社(羽曳野市)
北側の社号標

神社の東と北は比較的交通量の多い道路に面しており、東側は塀、北側は玉垣で囲まれています。また、塀と玉垣の境目付近に北(駅方面)向きの立派な社号標が建っています。

大津神社(羽曳野市)
北側の道路に面した玉垣

北側の玉垣は約120mあり、途中に駐車場の入口があります。

大津神社(羽曳野市)
東側の社号標と鳥居

東側の塀の長さは35mほどで、途中に参道入口があり、まず社号標、そしてその少し奥に石造りの鳥居が建っています。

大津神社(羽曳野市)
参道

西に延びる石畳の参道は広く、約60m先に拝殿が見えています。当社の社殿は東向きで、参道も東側の鳥居まで一直線となっています。

大津神社(羽曳野市)
参道左側

鳥居をくぐると、いくつかの古そうな石灯篭や百度石などが参道脇に置かれていることに気付きます。

大津神社(羽曳野市)
参道右側

参道右側の灯籠や木々の奥に駐車場が見えます。

大津神社(羽曳野市)
手水舎

参道を20mほど歩くと左手に手水舎(修繕中?)があります。

大津神社(羽曳野市)
手水鉢

手水鉢も歴史を感じさせるものとなっています。

大津神社(羽曳野市)
参道の拝殿寄りにある百度石

さらに参道を進むと、真ん中に比較的新しい百度石があります。

大津神社(羽曳野市)
社務所

手水舎から少し先の左手に社務所があります。

大津神社(羽曳野市)
拝殿

社務所前から20mほど進むと拝殿前に到着します。

大津神社(羽曳野市)
拝殿の額

拝殿、幣殿奥にある本殿に素盞嗚尊、奇稻田姫命、天日鷲命、大山咋命、菅原道真公が祀られています。

拝殿での参拝後は一旦参道入口の鳥居まで戻り、境内各所にあり境内社などを回ります。

大津神社(羽曳野市)
遥拝所の鳥居

まず、参道入口の鳥居から拝殿に向かって進み、手水舎の手前を左に入って少し進むと左手に「伊勢神宮遥拝所」があります。

大津神社(羽曳野市)
伊勢神宮遥拝所

小さな石の鳥居の先には一対の石灯篭があり、その先の小さな塚の上に注連縄が張られた磐座のようなものが見えます。この先に伊勢の神宮があります。

大津神社(羽曳野市)
平和之社

参道に戻り、15mほど拝殿に向かって進むと右手に石造りの鳥居がありますが、こちらは平和之社(やわらぎのやしろ)です。

大津神社(羽曳野市)
平和之社の由緒記

平和之社は、サンフランシスコ講和条約の締結(発効は昭和27年(1952年)4月28日)を記念して建立されたもので、御祭神は「平和之神」として氏子出身の戦没英霊278柱を祀っています。

大津神社(羽曳野市)
大宮辯天宮(弁天宮)

平和之社から拝殿に向かってさらに参道を10mほど進むと、同じく右側に朱色の鳥居が見えて来ます。

大津神社(羽曳野市)
八角形の社殿

こちらは大宮辯天宮(弁天宮)で市杵嶋姫命を祀っており、仏教建築の八角堂のような雰囲気持つ、朱色の柱が映える八角形の社殿となっています。もともと高鷲駅の南西にある宮池に祀られていたものが境内に遷座したとも。

大津神社(羽曳野市)
動植物の御霊を祀る社

改めて拝殿の方に進み右手を見ると、柵の向こうに小さな社があることに気付きます。こちらでは、境内の樹木や動物など生命あるものの御霊を祀っています。

大津神社(羽曳野市)
「支那事変出征軍人武運長久祈願」碑

小社から北側の道路沿いに視線を移すと、玉垣の手前に石碑が建っています。こちらは昭和12年(1937年)に奉納されたもののようで、「支那事変出征軍人武運長久祈願」とあります。この約15年後に建てられたのが前出の平和之社です。

大津神社(羽曳野市)
大宮稲荷社

拝殿の右奥、境内の北西には大宮稲荷社が鎮座しています。

大津神社(羽曳野市)
ずらりと並ぶ朱色の鳥居

一直線の石畳の参道に並ぶ真新しい朱色の鳥居は南河内でもかなり多い方かと思われます。

大津神社(羽曳野市)
稲荷社の社殿

宇迦之御魂大神を祀る大宮稲荷社は鳥居から参道、社殿に至るまでまだ新しい印象です。

大津神社(羽曳野市)
絵馬掛け

一方、稲荷社とは逆の、拝殿に向かって左手を見ると、少し離れて絵馬掛けがあり、その先は少し広場のようになっています。

大津神社(羽曳野市)
うぶすな館

広場の東側(社務所側)には参集殿のような建物がありますが、入口には「うぶすな館 音楽教室」と書かれています。この右奥にトイレがあるようです。

大津神社(羽曳野市)
戎社前の広場

広場の西側、つまり大津神社拝殿に向かって左奥となる境内南西には大宮戎社が鎮座しています。

大津神社(羽曳野市)
大宮戎社

大宮戎社の御祭神は戎大神となっており、社殿の前には注連柱と狛犬が配置されています。

関西ではお馴染みの「えべっさん」は、1月7日の宵えびす祭、8日の本えびす祭、9日の残りえびす祭の3日間で、福引(空くじなし)が行われるなどして賑わうそうです。

大津神社(羽曳野市)
戎社付近から見た大津神社社殿

戎社や稲荷社付近からは、大津神社社殿の側面などを見ることが出来ますが、江戸時代のものと伝わる幣殿や本殿は覆屋の中にあるようです。


長い歴史のある大津神社は、渡来系豪族の祖神を祀った神社がやがて周辺住民の産土神・鎮守となったと考えられる興味深い神社です。今は境内社を含め多くの神々を祀る神社となり、普段静かな境内も、各祭の日には広い氏子地区から多くの参詣者を集めるなど賑わっているようです。


アクセス

公共交通機関の場合、近鉄南大阪線「高鷲」駅から府道191号(島泉伊賀線)を南に進み、100m少々歩くと交差点の右前方に大津神社があります(社号標あり)。鳥居のある東側の参道へはそのまま真っすぐ南に進むと右手に参道入口があります。

大津神社(羽曳野市)
北側の駐車場入口

府道12号堺大和高田線(ヤマタカ線)の「島泉」交差点からは南に約550m進み、踏切を渡って「高鷲」駅前の信号を(道路の矢印は直線のようになっていますが)右(南)に進みます(右斜め後方の池沿いの道に入らないよう注意)。さらに100mほど進むと信号のある交差点があり、右前方の角が大津神社となっています。徒歩の場合は直進して鳥居のある東側の入口へ、車の場合は右折して北側の駐車場から入ります。

大津神社(羽曳野市)
境内から見た駐車場

境内の駐車場は参道の北側に位置しています。駐車料金は無料。

Otsu Shrine(Habikino City,Osaka Prefecture)


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