津堂城山古墳
2017年12月訪問
津堂城山古墳(つどうしろやまこふん)は大阪府藤井寺市津堂にある国指定史跡の古墳です。古市古墳群を構成する古墳の一つで、その最北端に位置しており、現在の大和川からは南に約300mという距離にあります。また、雄略天皇陵(丹比高鷲原陵)は南西に直線距離で1km弱のところにあります。※令和元年(2019年)7月6日午後に、百舌鳥・古市古墳群の世界文化遺産登録が決定しまし、津堂城山古墳もそのリストに登録されました。
津堂城山古墳(藤井寺市) |
現在の敷地内には神社や展示施設、花しょうぶ園などもあり、ほとんどの区域に自由に出入りできるので、古墳として見学するだけでなく、周辺の人々の憩いの場にもなっています。
歴史と概要
津堂城山古墳の実際の被葬者は明らかになっていませんが、宮内庁により「藤井寺陵墓参考地」として第19代允恭天皇陵墓参考地に治定されています。これまでの発掘調査などから4世紀後半に築造されたとみられ、古市古墳群の中でも初期の古墳であり、応神天皇陵(誉田御廟山古墳)よりも先に造られた同古墳群では最も古い大型前方後円墳とされています。津堂城山古墳の説明板 |
墳丘長は約210mで、前方部の向きは南東。前方部の幅約117m、後円部の直径約128m、最も高い後円部の高さは16.9mあります。また、くびれの部分には造出し(つくりだし)と呼ばれる出っ張りがあります。
古墳北東側の入口より南を望む |
第二次大戦後、航空写真による古墳の研究を進めていた大阪狭山市出身の考古学者末永雅雄博士が、現在花しょうぶ園などになっている内濠の外側に、幅約80mにもおよぶ付属地があることを指摘し、この部分を「周庭帯(しゅうていたい)」と命名しました。後の調査でこの周庭帯の部分が、内濠の堤と外濠、さらに外濠の堤であるが判明したため、これらを含めると、古墳の全長は400m以上になります。
Googleマップなどの航空写真を見ると、現在の津堂城山古墳の外側にあった外濠の面影がなんとなく見て取れます。当古墳は二重の濠と堤をそなえた巨大な前方後円墳だったのです。
冬の花菖蒲園 |
津堂城山古墳は位置的には羽曳野丘陵上にあり、古市古墳群の中では最も北側にある古墳です。現在は津堂城山古墳の東側に沿うように府道2号、いわゆる旧大阪中央環状線が通っている他、古墳のすぐ北側には西名阪自動車道が走り、さらにその北には大和川も流れています。
南端にある石碑 |
この辺りはかつて河内国丹北郡津堂村・小山村と呼ばれた地域で、室町時代には古墳の地形を利用して三好氏の小山城が築かれたため、墳丘の一部が掘削されています。
明治初期に、どの古墳がどの天皇の陵であるかの選定考証、いわゆる陵墓治定(りょうぼじじょう)作業が行われましたが、原形をとどめていない津堂城山古墳は天皇陵とされませんでした。
さらにこの時、陵墓治定からもれた古墳の中には巨大な前方後円墳でありながら、天皇陵としては認められないものの、それに近いと考えられる古墳には「陵墓参考地」という治定が行われました。しかし、津堂城山古墳は参考地としても治定されませんでした。やはりこれも中世の築城で墳丘が大きく削り取られ、地図にも単なる草地として描かれるなど当時の人々には大型の前方後円墳だと認識されていなかった為と考えられています。
東側入口より |
そんな中、明治時代末期の神社合祀(神社整理)の動きにより、古墳北側の後円部にあった村社である津堂八幡神社が隣村の産土神社に合祀されることになりました。明治45年(1912年)、津堂村では廃社となった八幡神社が存在していたことの記念として石碑を建てることが決まり、その石材を城山(後円部の墳丘)山頂部から掘り出すことになりました。昔から地元の人々には、この頂上部の土中に石碑に最適な大きな板状の石があることが知られていたらしく、それを神社の記念碑に利用しようとしたのです。
墳丘南西側 |
そして、いざ巨大石を掘り出したところ、その下から大きくて立派な石棺が現れました。実はこの巨大石は、後円部頂にある竪穴式石槨(せっかく)と呼ばれる古墳の埋葬施設の天井石だったのです。石碑を建立する材料とするため、石板を発掘したことがきっかけで竪穴式石室と巨大な長持形石棺が発見され、大ニュースとなり多くの考古学者が集まりました。調査の結果、鏡や鏃などの副葬品が多数出土、また石棺はそれまで知られていた石棺の中で最も大きく、しかも極めて精巧な作りでした。そのため、後に津堂城山古墳は「藤井寺陵墓参考地」に治定されました(後円部頂のみ)。
津堂八幡神社南側にある遊具 |
昭和33年(1958年)1月21日に墳丘と内濠部分が国史跡に指定され、その後、大阪府教育委員会や藤井寺市教育委員会による発掘調査が行われ、二重の周濠や、石葺の外側堤の存在が確認され、さらに円筒埴輪や蓋(きぬがさ)形、盾形、衝立形、家形の埴輪も出土しました。また、周濠内前方部の左右近くの島状遺構(一辺17mの方墳形の祭壇)から出土した3体の水鳥形埴輪は国の重要文化財に指定されています。
奥が後円部の頂上(立ち入り禁止) |
城や農地として利用されてきた津堂城山古墳は明治頃に古墳として再認識され、戦後周辺が宅地化していくと同時に公園のように整備されてきました。現在、後円部頂のみ陵墓参考地として立ち入り禁止となっていますが、八幡神社は元の場所で復社。内濠跡部分には、菖蒲園や草花園がつくられ人々の目を楽しませる他、内濠部北側には「史跡城山古墳ガイダンス棟・まほらしろやま」も造られ古墳について学ぶことも出来ます。
墳丘上で南西方向を望む |
津堂八幡神社
津堂八幡神社(つどうはちまんじんじゃ)は津堂城山古墳後円部頂の西端に鎮座する八幡神社です。社伝によると、この地に建てられたのは享保5年(1720年)とされ、主祭神は品陀別命(ほんだわけのみこと=応神天皇)。本殿向かって右側には津堂稲荷神社があり、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)が祀られています。●津堂八幡神社について詳しくは →http://kininarugou.blogspot.com/2018/08/blog-post.html
津堂八幡神社 |
また、古墳の少し南には小山産土神社もあります。
史跡城山古墳ガイダンス棟・まほらしろやま
後円部の北側には、津堂城山古墳についてわかりやすく学べる展示施設「まほらしろやま」が建てられています。「まほら」とは、すぐれたよい所という意味で「まほろば」の語源ともなっています。館内には津堂城山古墳から出土した埴輪や土器の復元品をはじめ、各種写真パネルなどが展示されています。史跡城山古墳ガイダンス棟・まほらしろやま |
「まほらしろやま」は入館無料で、利用時間は10時から17時までで、休館日は月・火曜日および12月28日から1月4日までとなっています(ただし、トイレは月・火曜日も利用可)。
長持形石棺のレプリカ |
建物に向かって右手に、当古墳で出土した日本最大級の石棺の実物大レプリカが展示されています。これは、実物と同じ兵庫県高砂市産の竜山石(たつやまいし)を使い平成29年(2017年)に完成したものです。なお、オリジナルの石棺は明治時代に発見され、調査後に埋め戻されています。
石材として利用された天井石 |
古墳石槨の板状の天井石は7枚あったとされ、前述のかつて津堂八幡神社の記念碑として利用された天井石は、民家に眠っているのを発見され寄贈された天井石と共に保存処理を経て、現在は「まほらしろやま」の前庭で展示されています。上の写真で、最も右にある石が巨大な長持型石棺発見の契機となった天井石です。
城山古墳完成時の復元図 |
国の重要文化財に指定された、島状遺構から出土した3体の水鳥形埴輪は藤井寺市が所有しており、同市内のアイセルシュラホール(市立生涯学習センター)に展示されていまが、「まほらしろやま」にもレプリカが展示されています。また、他の埴輪では河南町にある大阪府立近つ飛鳥博物館で展示されているものもあります。
出土品についてのパネル |
アクセス
藤井寺市の北部、府道2号線(旧中環)の大和川に架かる大正橋の南詰から西名阪自動車道の下をくぐった少し南、右手に津堂城山古墳があります(大阪前田製菓のすぐ近く)。府道12号(ヤマタカ線)の「小山」交差点からは北に約800m左側にあります。
ふじみ緑地(手前が公園、左奥が駐車場) |
車で行く場合、古墳には駐車場がないので、古墳から府道2号線を200mほど南(藤井寺市中心部方面)にある「ふじみ緑地(公園)」の駐車場を利用してください。ここがいっぱいの時は藤井寺市役所の駐車場が使用できるようです。市役所はここから更に南に進み、「小山」交差点を右折したすぐ先です。
公共交通機関では近鉄藤井寺駅、または近鉄八尾駅、地下鉄八尾南駅から近鉄バスで「大正橋南詰」または「小山」バス停下車。
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