応神天皇陵(羽曳野市) ・八幡神の眠る世界遺産古市古墳群最大の古墳とその周辺

応神天皇陵

2018年7月訪問
応神天皇陵(おうじんてんのうりょう)は大阪府羽曳野市誉田にある前方後円墳で、考古学的には「誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)」または、「誉田山古墳(こんだやまこふん)」とも呼ばれてます。国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産への登録も有力視される百舌鳥・古市古墳群には巨大前方後円墳が多数含まれますが、その中でも応神天皇陵は古市古墳群最大の古墳で、百舌鳥古墳群に属する堺市の仁徳天皇陵(大仙陵古墳)に次ぐ全国第2位の規模を誇ります。

※令和元年(2019年)7月6日午後に百舌鳥・古市古墳群の世界文化遺産登録が決定し、応神天皇陵もそのリストに登録されました。

応神天皇陵(羽曳野市)
応神天皇陵(羽曳野市)

国道170号(外環状線)や近鉄線からも見ることの出来る応神天皇陵の北側には宮内庁書陵部の古市陵墓監区事務所が置かれており、周辺に多数の天皇・皇族の陵墓があるため、歴史ファンにとっても古市古墳群、さらには南河内の古墳、特に天皇陵を巡る旅の起点となる重要な古墳といえます。



歴史と概要

応神天皇陵が築造されたのは古墳時代中期の5世紀前半と考えられており、実際の被葬者は明らかではありませんが、宮内庁により「惠我藻伏崗陵(えがのもふしのおかのみささぎ)」として第15代応神天皇の陵に治定されています(応神天皇の陵としては別に、堺市の御廟山古墳が「百舌鳥陵墓参考地」として治定されています)。


古市古墳群最大の古墳で、その形は前方部を北(厳密には北北西)に向けた前方後円墳となっています。なお、古市古墳郡の中での規模ランキングでは、以下仲姫命陵(仲津山古墳・藤井寺市)仲哀天皇陵(岡ミサンザイ古墳・藤井寺市)允恭天皇陵(市ノ山古墳・藤井寺市)と続きます。

墳丘は三段に積み重ねられ、斜面には一面に石が葺かれていますが、現在は樹木で覆われているため山のようにも見えます。その大きさは墳丘長約425m、後円部直径250m、後円部高さ35m、前方部幅300m、前方部高さ36m、濠や堤も入れた最大長は700m前後あります。当古墳は、墳丘長486mとされた仁徳天皇陵に次いで大きさでは2番目ですが、古墳を築造したときに使用した土の量は約143万立方メートル(ダンプカー17万台相当)にものぼり、大仙古墳を上回り1位とされています。

しかし、平成28年(2016年)度の宮内庁の三次元測量調査で仁徳陵の墳丘長が525mに訂正されたことや、応神陵の規模についても諸説あり、今後この順位も変わるかもしれません。

応神天皇陵(羽曳野市)
応神天皇陵の説明板(陵墓監区事務所前)

地図や航空写真を見るとよくわかりますが、応神天皇陵の形は一般的なイメージの前方後円墳に比べ少し歪に見えます。これには主に二つの理由があって、一つ目は応神陵東側の二ツ塚古墳(ふたつづかこふん)が応神陵より30~50年早く造られていたために、内濠と内堤が、この古墳を避けるよう築造され、外濠も同古墳手前で途切れているためです。
二つ目の理由は応神陵の真下を誉田断層が走っており、この断層のずれが原因と思われる地震により前方部の西側が大きく崩れているためです。

くびれ部の両側には造り出しを備え、テラスと呼ばれる平坦な部分には約2万本の円筒埴輪が立て並べられていたと考えられています。出土遺物には円筒埴輪や盾・靫(ゆぎ)・家・水鳥などの形象埴輪の他に、蓋形(きぬがさがた)木製品やクジラ、イカ、タコなどの特殊な土製品もあります。

墳丘周囲の濠と堤は前述のように、東側では先に造られた二ツ塚古墳があって形が歪んでいますが、西側では幅約50m、高さ約3.5mの内堤の外側に二重目の濠と堤の跡が幅60mに渡り良く残っており、古墳の間際まで建物が密集する他の方角に比べ、応神陵古墳の長大な範囲を確認することができます。
内濠と内堤より内側は宮内庁によって管理されていますが、外濠、外堤は昭和53年(1978年)に国の史跡に指定されました。

応神天皇陵(羽曳野市)
 南側にある史跡応神天皇陵古墳外濠外提の説明板(2018年9月)

応神天皇陵から西に約11kmの距離にあるのが仁徳天皇陵で、応神天皇(略歴は後述)は仁徳天皇の父親にあたります。二つの古墳は向きこそ違いますが、ほぼ同緯度にあり、日本最古の官道といわれる竹内街道もこれらを結ぶように走っています。このラインから数キロ北、現在の大阪府で人口の多いエリアはかつてほとんど湖や低湿地帯だったことを考えると、やはり古墳群のある地域は特別だったと感じられます。

古墳外周と陪塚

全国2位の大きさを誇る古墳ともなると一周するのにもそれなりの距離を歩く分、注目スポットも増えます。応神天皇陵は、陵域をほぼ一周する周遊路が整備された仁徳天皇陵と異なり、隣接する住宅地や地形などによって見る角度が限られるものの、様々な景色を見せてくれます。

応神天皇陵(羽曳野市)
北側にある史跡応神天皇陵古墳外濠外提の説明板

全国第2位、古市古墳群最大の古墳ということで、周辺には多くの陪塚(大型の主墳の近くにあり、それに付属する規模の小さい古墳)とされている古墳が存在しています。これらの中には研究の結果、陪塚とされていながら今は独立した古墳と考えられている古墳がある一方、指定からは外れているが実は陪塚とみられる古墳もあります。また、現在は消滅してしまっているものも複数あります。

応神天皇陵(羽曳野市)
応神陵のかつての姿

応神天皇陵の拝所は前方部のある古墳北側にあります。今回は拝所から時計回りに応神陵を一周してみました。



応神天皇陵(羽曳野市)
拝所入口(左)と陵墓監区事務所入口(右)

道路から拝所へは、良く手入れの行き届いたなだらかなカーブを描く砂利道を歩きますが、途中には宮内庁管理の天皇陵などでお馴染みの看板があります。

応神天皇陵(羽曳野市)
拝所への参道

看板の横を通り過ぎ、少し進むと右手に井戸、手水鉢があります。

応神天皇陵(羽曳野市)
手水鉢と井戸

手水鉢で清めてさらに進むと、いよいよ拝所の鳥居が見えてきます。その奥に広がる墳丘とその上を覆う木々の迫力に圧倒されます。

応神天皇陵(羽曳野市)
拝所

参拝を済ませ、振り返ると左後ろに応神陵の堤の一部にも見える陪塚の誉田丸山古墳(古市丸山古墳)があります。この古墳から出土したとされる金銅装馬具類が近くの誉田八幡宮に所蔵され、現在は国宝に指定されています。

応神天皇陵(羽曳野市)
誉田丸山古墳

拝所から道路に戻ると、正面(北)にも木々で覆われたこんもりとした丘が見えます。

応神天皇陵(羽曳野市) 大鳥塚古墳
大鳥塚古墳

こちらは陪塚ではなく独立した国史跡の大鳥塚古墳です。前方後円墳ですが百舌鳥・古市古墳群では変則的な後円部3段、前方部2段というもので、後円部が著しく高い造りになっています。

応神天皇陵(羽曳野市) 大鳥塚古墳
大鳥塚古墳の説明板

応神天皇陵と大鳥塚古墳の間の道を東に進み、西名阪自動車道の高架をくぐり、最初の交差点を左折し、しばらく進むと左手の公園の真ん中に盾塚(たてづか)古墳があります。これは盾が10枚も埋めてあったことからついた名前だそうです。

盾塚古墳の北北西すぐに鞍塚古墳、西南西に少し離れて朱金塚古墳、さらに西に珠金塚西古墳、狼塚古墳という陪塚とも考えられる古墳がありましたが、高度経済成長期に府営住宅が建設されるなどして姿を消しました。現在は盾塚のみ復元され公園になっています。

応神天皇陵(羽曳野市)
盾塚古墳公園

再び来た道を戻り、西名阪自動車道下の信号を渡り、今度は左手の住宅街の中に入ります。約90m進んで左折し、次に80mほど進み右折。さらに100mほど南に歩くと右手にテニスコートが見えます。

応神天皇陵(羽曳野市)
茶山テニスコート(コインパーキングあり)

こちらは平成28年(2016年)7月にオープンした茶山テニスコートで、コインパーキングやトイレもあります。応神天皇陵東面にあたり、奥のフェンスには「応神天皇陵古墳」の文字が見えます。

応神天皇陵(羽曳野市)
テニスコートと応神陵の間には二ツ塚古墳

フェンスの「応神天皇陵古墳」の看板の右側手前の森は応神陵に先行して築造されたとされる二ツ塚古墳です。こちらは墳丘長約110mの前方後円墳で、応神天皇に近い人物が埋葬された可能性が高そうです。

応神天皇陵(羽曳野市)
東馬塚古墳

さらにテニスコート右(北)側に目をやると、住宅地の手前に高いフェンスで囲われた小高い塚が見えます。こちらは墳丘長約30m、高さ約3.5mの方墳で東馬塚古墳と呼ばれています。石柱には「応神天皇惠我藻伏崗陵陪塚 宮内省」と彫られています。

応神天皇陵(羽曳野市)
栗塚古墳

東馬塚古墳から150mほど南に進むと、東高野街道に出るので左折します。するとすぐ左の工場と民家の間に栗塚古墳が見えます。こちらは築造当初よりひとまわり小さくなっており、元は一辺43m、高さ5mの二段築成の方墳だったようです。東馬塚古墳同様に、宮内省時代に建てられた陪塚指定を示す石柱があります。ちなみに、藤井寺市の古室山古墳もかつては栗塚と呼ばれていました。

東高野街道を南に約450m下ると応神天皇を祀る誉田八幡宮(後述)があり、誉田八幡宮から更に南西に約300mの距離には、古市古墳群の古墳に使用した埴輪を製造していた窯の跡と考えられる史跡誉田白鳥埴輪製作遺跡があります。

八幡宮の南側の道路を南大門から150mほど西に進み右折し、水路を右に見ながら再び古墳に近づきます。誉田保育園前で小さな橋を渡り今度は水路を左に見て道なりに進むと応神陵西側の「史跡 応神天皇陵古墳外濠外提」の南端に出ます。

応神天皇陵(羽曳野市)
応神天皇陵古墳外濠外提の説明板(2018年9月)

「史跡 応神天皇陵古墳外濠外提」は外環状線の「応神陵前」交差点付近から南南東に向けて長さ約500m、幅約50mのエリアで、遊歩道が整備されていますが、南寄りのエリアは羽曳野名産のイチジク畑にもなっています。

応神天皇陵(羽曳野市)
応神陵(奥)とイチジク畑(手前)

イチジク畑を横目に古墳外濠外提を南から北に向かって歩くと、右手に雄大な応神天皇陵が見えますが、左手には少し木々の密集した一角が見えます。それがビッグジョー藤井寺店の駐車場北側にある方墳の東山古墳です。さらにその北側には隣接するようにアリ(蟻)山古墳がありました。アリ山古墳はすでに墳丘が消滅していますが、東西約3m、南北約1.4mの土壙(どこう)からは、2600点近くにも及ぶ大量の鉄器が3層に分かれて出土しています。

応神天皇陵(羽曳野市)
東山古墳

応神天皇陵は西の大阪外環状線と東の旧道という2本の国道170号に挟まれています。また、170号の旧道のさらに東には近鉄南大阪線が通っていて、そのいずれからも姿を見ることが出来ます。そんな応神陵の雄大さを最も感じられるのは、やはり西側の「史跡 応神天皇陵古墳外濠外提」からです。その中でも絶景ポイントは外環状線の「応神陵前」交差点からすぐ東で、拝所からは西に400mほどの外濠外提北端付近からの景色かと思われます。

応神天皇陵(羽曳野市)
外濠外提(道の先に葛城山(左)と金剛山(右))

外濠外提北端から東に向かい、古墳北西を流れる大水川沿いの住宅街の中の道を歩くとスタート地点である、応神陵北側前方部の宮内庁書陵部古市陵墓監区事務所と拝所の前となります。

誉田八幡宮との関係

栗塚古墳から東高野街道に戻り、南に約450m歩くと誉田八幡宮に着きます。当社は応神天皇陵のすぐ南に鎮座している八幡宮で、当然主祭神は応神天皇(誉田別尊(ほむたわけのみこと))です。
応神天皇は清和源氏や桓武平氏をはじめとする全国の武士に武運の神として崇敬された八幡神とされ、全国各地の八幡神社で祀られていますが、その中で当社は最古の八幡宮とされています。

奈良時代には行基により神宮寺(神社に付属する仏教寺院)である長野山護国寺も創建され、平安時代からの神仏習合により、仏教とも結びついていきました。

応神天皇陵(羽曳野市) 誉田八幡宮
誉田八幡宮の奥にある応神陵への参道

享和元年(1801年)に刊行された「河内名所圖會(図会)」の「應神天皇陵」の絵図の中には、応神天皇陵後円部の麓から一直線に陵頂に上る階段と陵上に建てられた六角堂が描かれています。これは誉田八幡宮の奥の院で、階段の左右には桜が植えられていて、石灯籠が20基も建てられていたようです。江戸時代、この六角堂へは神職や社僧など祭祀関係者しか上れなかったようですが、麓にあった宣命場中門までは一般の民衆も入り参拝出来たようです。

応神天皇陵(羽曳野市) 誉田八幡宮
放生橋

この様な神仏習合の信仰の形は、幕末の尊皇思想の高まりを受け「文久の修陵」に始まる陵墓修復事業に合わせた国家祭祀の整備・再編により排除されてしまいます。仏教的なものが一掃され各地の天皇陵には拝所が設けられて、鳥居が建てられました。応神天皇陵でも、陵上の仏堂や階段が撤去され、周濠も渡ることはできなくなりました。拝所は、八幡宮とは反対側となる前方部の北側に造られました。さらに明治時代の初期には、廃仏毀釈により誉田八幡宮の神宮寺であった長野山護国寺も、南大門など一部を残して大半の建物が取り壊されました。

応神天皇陵(羽曳野市) 誉田八幡宮
放生橋の説明板

誉田八幡宮の拝殿から右手の方に進むと、その先は応神天皇陵であることを示す看板があり、突き当りの柵と門扉の向こうには放生川とそこに架かる放生橋という石造りの反り橋があります。この先は内堤、内濠となっていて、江戸時代にはこの辺りから六角堂へ上りました。
拝所は八幡宮とは反対の北側となりましたが、現在も毎年9月15日の秋季大祭で応神天皇の神霊を乗せた御輿が本殿から応神天皇陵まで渡御する神事が執り行われており、かつての八幡宮からの参拝風景を今に伝えています(現在は反り橋ではなく、横に架けられた平橋を利用しています)。

応神御陵前駅跡

宮内庁のホームページによると、現在応神天皇陵拝所への最寄り駅は道明寺駅となっていますが、大正13年(1924年)6月1日から昭和20年(1945年)6月1日(休止)までは「応神御陵前」駅(おうじんごりょうまええき)という駅が応神天皇陵の北にありました(廃止は昭和49年(1974年)7月20日)。

この駅は大阪鉄道の「御陵前」駅として開業、昭和8年(1933年)4月1日に「応神御陵前」駅に改称。鉄道会社も関西急行鉄道、南海鉄道、近畿日本鉄道と変わりました。

応神天皇陵(羽曳野市) 応神御陵前駅跡地(藤井寺市)
応神御陵前駅跡地(藤井寺市)

当駅は近鉄南大阪線「藤井寺」駅と「土師ノ里」駅の間に設置され、所在地は「藤井寺」駅から東に約1.1km。近鉄線が国道170号(外環状線)の高架下をくぐる地点から東に約100mで、現在はポケットパークになってる付近です。



応神天皇陵(羽曳野市)
応神陵方面から応神御陵前駅跡地を望む

「応神御陵前」駅から拝所までは南に約500mで、拝所付近で渡る橋の周辺以外はほぼ一本道です。

アクセス

拝所を目指す場合、公共交通機関では近鉄南大阪線「土師ノ里」駅か、「道明寺」駅が最寄りになります。「土師ノ里」駅からは、駅を出て目の前の国道170号(旧道)を左(南)に歩き、約650m先の「道明寺5丁目北」交差点を目指します。交差点を右折し550mほど道なりに進むと左手に拝所入口があります。

「道明寺」駅からは、駅前の道明寺天神通り商店会を通って西へ約250m、道明寺天満宮の神門前を左折します。南に150mほど進み交差点を右折。さらに250mほど進むと国道170号(旧道)の「道明寺5丁目北」交差点に出るので横断して直進。道なりに約550m進むと左手に拝所入口が見えます。

応神天皇陵(羽曳野市) 仲姫命御陵参拝道の石碑(藤井寺市)
道明寺駅から応神陵への途中にある仲姫命陵の碑

車で行く場合に分かりやすいのは、国道170号(外環状線)の「西古室」交差点を藤井寺・八尾方面からは左折、富田林・河内長野方面からは右折し300mほど先の橋を渡って右側、拝所の手前にある「宮内庁書陵部古市陵墓監区事務所」に入ると少しだけ参拝者用駐車場(無料)があります。ここに停められない場合は、古墳東側の茶山テニスコートのコインパーキングなどが比較的近いです。また、周辺の道路上の「応神天皇陵」の看板には駐車場として羽曳野市役所が案内されています。

応神天皇陵(羽曳野市)
応神天皇陵古墳駐車場の看板

応神天皇陵南の「古市」駅から参拝する場合は誉田八幡宮の記事を参照してください。

 Mausoleum of Emperor Ojin(Ojin-tenno-ryo Kofun)/Habikino City,Osaka Prefecture)

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