誉田八幡宮
2016年10月訪問(2021年9月追記)
誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)は大阪府羽曳野市誉田にある神社で、主祭神として八幡神である第15代応神天皇を祀っています。当社のすぐ北隣には堺市の仁徳天皇陵(大仙陵古墳)に次ぐ全国第2位の規模を誇る巨大古墳で、当社の主祭神である応神天皇の陵墓とされる応神天皇陵(誉田御廟山古墳)があります。
※令和元年(2019年)7月6日午後に、百舌鳥・古市古墳群の世界文化遺産登録が決定しました。
※令和元年(2019年)7月6日午後に、百舌鳥・古市古墳群の世界文化遺産登録が決定しました。
誉田八幡宮(羽曳野市) |
当社周辺は、大和国から河内国に流れ込んだ大和川と南河内から流れてきた石川の合流点に近く、古代からの交通の要衝として歴史の舞台にも度々登場してきます。そんな誉田に鎮座する当社は古墳時代から奈良、平安、鎌倉、室町、戦国、江戸といった各時代の有名人もかかわった歴史ある神社です。
歴史と概要
社伝によると、誉田八幡宮の創建は第29代欽明天皇が応神天皇陵前に神廟を設置した欽明天皇20年(559年)2月15日となっています。聖徳太子をはじめ、役行者、行基、空海、菅原道真なども当社に参拝したと伝えられますが、永承6年(1051年)の後冷泉天皇行幸の際に南へ1町(約109m)離れた現在地に遷座されました。旧案内板 |
御祭神は応神天皇とその両親である第14代仲哀天皇、神功皇后のいわゆる八幡三神が祀られています(八幡三神は他の組合せの場合もあり)。主祭神である応神天皇の諱(いみな)は誉田別命(ほんだわけのみこと。表記は品陀和気命など多数)といわれ、当社の名だけでなくこの辺りの地名(羽曳野市誉田)として現在も残っています。
応神天皇は清和源氏や桓武平氏をはじめとする全国の武士に武運の神として崇敬された八幡神であり、当社は最古の八幡宮とされています。また、八幡神は源氏の氏神でもあるので源頼朝が社伝を造営するなど源氏姓を名乗る歴代将軍の信仰も厚かったようです。
南北朝時代から戦国時代にかけては別当職の誉田三河入道一族によって当社は保護されていましたが、後に河内守護である畠山氏の内輪争いにより社殿や伽藍を焼失。さらに、織田信長が河内国を支配すると社領をすべて奪われました。
信長亡き後の天正11年(1583年)、豊臣秀吉は志紀郡澤田村(現藤井寺市沢田)の内から社領200石を寄進し社殿を再建しましたが、天正14年(1586年)に兵火に罹り再び焼失しました。文禄3年(1594年)には社領を志紀郡古室村(現藤井寺市古室)に転換。豊臣秀頼は片桐且元を普請奉行に任じ社殿再建に乗り出しましたが、拝殿建築中の慶長20年(1615年)の大坂夏の陣により豊臣氏が滅亡し建物内部は未完成のままとなりました。夏の陣の際にはこの辺りで真田信繁(幸村)や伊達政宗らが戦った道明寺・誉田合戦が起こりました。
信長亡き後の天正11年(1583年)、豊臣秀吉は志紀郡澤田村(現藤井寺市沢田)の内から社領200石を寄進し社殿を再建しましたが、天正14年(1586年)に兵火に罹り再び焼失しました。文禄3年(1594年)には社領を志紀郡古室村(現藤井寺市古室)に転換。豊臣秀頼は片桐且元を普請奉行に任じ社殿再建に乗り出しましたが、拝殿建築中の慶長20年(1615年)の大坂夏の陣により豊臣氏が滅亡し建物内部は未完成のままとなりました。夏の陣の際にはこの辺りで真田信繁(幸村)や伊達政宗らが戦った道明寺・誉田合戦が起こりました。
その後、江戸幕府も社領の200石を安堵し社殿の改修を数度に分けて行いました。
なお、当社北方の現在の藤井寺市東部に社領であった澤田村や古室村がありましたが、その周辺には澤田八幡神社、古室八幡神社、土師ノ里八幡神社、国府八幡神社、津堂八幡神社といった八幡神社があり、これらの多くは誉田八幡宮から勧請されたようです(国府八幡神社は羽曳野市の壺井八幡宮から勧請されました。また、津堂八幡神社は松原市の深居神社から分祀されたとも)。
明治に入ると神仏分離、廃仏毀釈によって神宮寺の長野山護国寺の大半は取り壊され、明治5年(1872年)、当時誉田神社と呼ばれていた当社は近代社格制度において府社に列格しました。
明治40年(1907年)11月11日、当時の南河内郡古市村大字軽墓字白鳥(現羽曳野市軽里)の村社天照大神社(現在の軽羽迦神社)、同月13日に同村大字碓井字新屋敷(現羽曳野市碓井)の村社八坂神社、同月16日に同村大字誉田字王水(羽曳野市誉田)の村社當宗神社、翌41年(1908年)4月11日に南河内郡玉手村大字玉手字塚の上(現柏原市玉手町)の村社伯太彦神社を境内に移転合併しました。また、明治40年11月18日に玉手村大字圓明字垣内山(現柏原市円明町)の村社伯太姫神社、翌41年6月3日に玉手村大字片山字夂堂(現柏原市片山町)の村社片山神社、11月2日に南河内郡志紀村大字田井中(現八尾市田井中)の村社神劔神社を本殿に合祀しました。
明治40年(1907年)11月11日、当時の南河内郡古市村大字軽墓字白鳥(現羽曳野市軽里)の村社天照大神社(現在の軽羽迦神社)、同月13日に同村大字碓井字新屋敷(現羽曳野市碓井)の村社八坂神社、同月16日に同村大字誉田字王水(羽曳野市誉田)の村社當宗神社、翌41年(1908年)4月11日に南河内郡玉手村大字玉手字塚の上(現柏原市玉手町)の村社伯太彦神社を境内に移転合併しました。また、明治40年11月18日に玉手村大字圓明字垣内山(現柏原市円明町)の村社伯太姫神社、翌41年6月3日に玉手村大字片山字夂堂(現柏原市片山町)の村社片山神社、11月2日に南河内郡志紀村大字田井中(現八尾市田井中)の村社神劔神社を本殿に合祀しました。
この内、當宗神社は志紀郡の、伯太彦神社と伯太姫神社は安宿郡の式内社です。また、當宗神社以外は大正から昭和にかけて元の氏地に復社しています。
●誉田八幡宮 公式ホームページ →http://konda-hachimanguu.com/
境内
現在の誉田八幡宮の正門とされる東門は、当社のすぐ東を南北に走る東高野街道に面しています。街道からこの門をくぐると左に公園、右に社務所があり、門から鳥居までの間が駐車場になっています。
鳥居の額 |
鳥居の額に書かれた「八幡宮」の「八」が向かい合う鳩になっているのは、鳩が八幡神の使いという理由で、他の八幡神を祀る神社でも見ることが出来ます。
境内案内図 |
鳥居をくぐると綺麗に整備された参道がまっすぐ拝殿に続き、左に手水舎、南大門、絵馬堂などが並び、右手には放生池、恵比寿社、稲荷社などがあります。
美しい参道 |
この内、南大門は前述の神宮寺である長野山護国寺が明治時代の廃仏毀釈により建物の大半が取り壊された後も残されたもので、仏教寺院の建築物から神仏習合の雰囲気を感じられます。
誉田八幡宮にはこの南大門からも入ることが出来ます。こちらには神社南側の道路から地車(だんじり)小屋の横を抜けて行くことになります。
誉田八幡宮は応神天皇陵のすぐ南、つまり後円部に接するように鎮座しており、その拝殿、参道、鳥居などはほぼ東向きに一列に並んでいます。
拝殿屋根の三ツ葉葵紋 |
誉田八幡宮の建物には、豊臣家による社殿の再建が八割方進んだところで放置された後、徳川家によって仕上げられたので、屋根などに三ツ葉葵の紋が付けられているのが見られます。
また、広々とした参道や拝殿の周りには當宗神社(当宗神社・まさむねじんしゃ)、姫待稲荷社(ひめまついなりしゃ)、恵比寿社、安産社といった境内末社があります。
式内社 当宗神社(2018年7月) |
拝殿右手の木々の間に鎮座し、素戔嗚命(すさのおのみこと)を祀っているのが當宗神社(当宗神社)です。こちらは延喜式神名帳に記載のある「河内国志紀群當宗神社三座」に比定されるいわゆる式内社で、その旧社地は誉田八幡宮の正門から北に100mほどの方生川(碓井川)と東高野街道との交差点北東に8㎡ほど残存しています。
恵比寿社 |
参道の右手にある恵比寿社の例祭は1月9日に執り行われ、当日は福よせ・福笹が授与されます。
拝殿向かって左側、絵馬堂の南大門側にあるのが安産社です。すぐ側には御神木である槐(エンジュ)の木「安産木」があります。
姫待稲荷社 |
同じく参道の右側にある姫待稲荷社(ひめまついなりしゃ)の例祭は、4月1日に執り行われます。
安産社(2018年7月) |
拝殿向かって左側、絵馬堂の南大門側にあるのが安産社です。すぐ側には御神木である槐(エンジュ)の木「安産木」があります。
神馬 |
また、恵比寿社と姫待稲荷社の間には立派な神馬像があります。馬といえば、誉田八幡宮には、「日本書紀」雄略天皇の条に記された赤馬伝説の「おうまやの跡」があり、馬形埴輪も見つかっています。また、応神天皇陪塚の誉田丸山古墳から出土した国宝金銅透彫鞍金具や源頼朝寄進の重文鳶松皮菱螺鈿鞍など多くの宝物が社宝として伝えられています。
その他に、末社以外にもいわれのある石碑や石塔、灯籠などが点在しています。
菅原道真公祈座石(見えません)と朝鮮国王奉納灯篭(2018年7月) |
譽田八幡宮の層塔(2018年7月) |
「おうまやの跡」の石碑(2018年7月) |
亀・鯉・鴨・埴輪も見られる放生池 |
前述のように、大坂夏の陣の際にはこの辺りで真田信繁や伊達政宗らが戦った道明寺・誉田合戦が起こるなど、この周辺は度々戦場となったので、境内には「誉田林古戦場址」の石碑がある他、500mほど北東には大坂夏の陣で戦死した薄田隼人正兼相の墓もあります。
誉田林古戦場址の六文銭の幟 |
国宝や重要文化財
誉田八幡宮の国宝として鎌倉時代に源頼朝が寄進したと伝えられる神輿、塵地螺鈿金銅装神輿(ちりじらでんこんどうそうみこし)と江戸時代に応神天皇陵陪塚丸山古墳から発掘された古墳時代のものとされる金銅透彫鞍金具があります。さらに重要文化財としては鎌倉時代から室町時代の武具や巻物などもあります。
誉田八幡宮ではこれらの宝物を拝観できる機会が設けられています。詳しくは誉田八幡宮公式ホームページをご確認ください。
祭礼
誉田八幡宮では様々な年中行事が執り行われていますが、主な祭礼として、5月8日の夏祭は別名「藤祭り」と呼ばれ、舞楽や神楽、武道が奉納されます。神輿が応神陵(左)へ渡る放生橋(現在は奥にある橋) |
9月15日頃には秋季大祭があります。この祭りでは応神天皇陵への神輿渡御をはじめ、神楽や献茶の奉納もあります。また、鍛冶町、王水町、西ノ口町、馬場町の地車(だんじり)も当社に宮入します(これらの町は旧誉田村の字)。
この駅は河南鉄道の「誉田」駅として開業、昭和8年(1933年)4月1日に「誉田八幡」駅に改称。鉄道会社も河南鉄道、大阪鉄道、関西急行鉄道、南海鉄道、近畿日本鉄道などと変わりました。
車の場合は、大阪市内や堺、大阪南部方面からは国道170号(外環状線)又は府道31号堺羽曳野線を使い「野中東」交差点→国道170号の新道(外環)と旧道の交わる「白鳥北」交差点を目指すと分かりやすいです。「白鳥北」交差点を左(北東方向)へ曲がり、「誉田八幡宮」の看板のある一つ目の信号を曲がらず、灯篭と看板のある二つ目の信号を左折し東高野街道に入ると100mほど先の左に正門があり、中の鳥居の手前が駐車場(無料)となっています(他の駐車場もあり)。
誉田八幡駅跡
明治44年(1911年)8月15日から昭和20年(1945年)6月1日(休止)までは「誉田八幡」駅(こんだはちまんえき)という駅が誉田八幡宮の正門から東高野街道を南に250mほど行ったところにありました。(廃止は昭和49年(1974年)7月20日)。誉田八幡駅跡(羽曳野市誉田2丁目・2018年9月) |
この駅は河南鉄道の「誉田」駅として開業、昭和8年(1933年)4月1日に「誉田八幡」駅に改称。鉄道会社も河南鉄道、大阪鉄道、関西急行鉄道、南海鉄道、近畿日本鉄道などと変わりました。
県庁所在地「誉田」?
明治元年(1868年)に和泉国(現大阪府南西部)の旧幕府領・旗本領を管轄するために「堺県(さかいけん)」が設置されました。明治4年(1871年)の廃藩置県より前の話です。その後、堺県は和泉国、河内国(現大阪府東部)、大和国(現奈良県)のそれぞれ全域を管轄する巨大な県となります。しかし県庁は領域の北西端ともいえる現在の堺市のままで、県全体としては甚だ不便でした。
当時の堺県令(知事)であった税所篤(さいしょあつし)は大久保利通、西郷隆盛と並び「薩南の三傑」と称された人物ですが、大久保への書簡に新たに誕生した巨大な堺県について「驚愕千万」かつ「迷惑」と記しているそうです。
そこで税所は、奈良に近く、各方面への交通の便も良いこの誉田の地に県庁を移し、県名も「誉田県」に変えることまで考えていたといわれています。
しかし、明治14年(1881年)に堺県は大阪府へ編入されて廃止となり、「誉田県」誕生は実現しませんでした。そして明治20年(1887年)には奈良県が再設置され現在に至ります。
アクセス
公共交通機関では、近鉄南大阪線・長野線の「古市」駅下車。駅の階段を下りて右(西)に向かい国道170号(旧道)に出ると右折します。近鉄線を右に見て並行する形で「白鳥北」交差点を通過。最初の信号に「誉田八幡宮」の看板があるので左折すると南大門が正面に。そこで曲がらずもう一つ先の信号(灯篭と看板あり)を左に曲がり東高野街道に入って100m少々進むと鳥居のある正門が左手に見えます。
南側道路から見た南大門(2018年7月) |
車の場合は、大阪市内や堺、大阪南部方面からは国道170号(外環状線)又は府道31号堺羽曳野線を使い「野中東」交差点→国道170号の新道(外環)と旧道の交わる「白鳥北」交差点を目指すと分かりやすいです。「白鳥北」交差点を左(北東方向)へ曲がり、「誉田八幡宮」の看板のある一つ目の信号を曲がらず、灯篭と看板のある二つ目の信号を左折し東高野街道に入ると100mほど先の左に正門があり、中の鳥居の手前が駐車場(無料)となっています(他の駐車場もあり)。
国道170号の旧道を使う場合、富田林方面からは「白鳥北」交差点を直進し、2つ目の信号の灯篭と「誉田八幡宮」の看板がある交差点を左折し東高野街道へ。柏原、土師ノ里方面からは西名阪道の下をくぐり、約800m先の灯篭と看板のある交差点を右折してください。
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