仲哀天皇陵
2019年4月訪問
仲哀天皇陵(ちゅうあいてんのうりょう)は大阪府藤井寺市藤井寺にある前方後円墳で、考古学的には「岡ミサンザイ古墳(おかみさんざいこふん)」とも呼ばれています。実際の被葬者は不明とされますが、宮内庁により「恵我長野西陵(えがのながののにしのみささぎ、惠我長野西陵とも)」として第14代仲哀天皇の陵に治定されています。仲哀天皇陵(藤井寺市) |
国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産への登録も有力視される百舌鳥・古市古墳群の内、古市古墳群に属する古墳で、幅の広い濠もあって美しく、駅からも近いことから参拝・見学も容易な古墳といえます。
※令和元年(2019年)7月6日午後に、百舌鳥・古市古墳群の世界文化遺産登録が決定しまし、仲哀天皇陵もそのリストに登録されました。
歴史と概要
仲哀天皇陵(岡ミサンザイ)古墳が築造されたのは、出土した埴輪などから古墳時代中期の5世紀末頃と考えられています。このことから、当古墳は第19代の允恭天皇陵よりも新しく、第24代の仁賢天皇陵(野中ボケ山古墳)よりも古いと考えられます。なお、仲哀天皇は九州で崩御され、後の時代に河内に埋葬されたともいわれていますがその時期は不明です。平成28年(2016年)に設置された説明板などによると、墳丘長は約245m、後円部の直径約150m、高さ約20mで、前方部は幅約180m、高さ16.6mあり、築造当時としては全国で突出する規模とされます。その大きさは、全国では第16位の規模で、古市古墳郡の中では応神天皇陵(誉田御廟山古墳・羽曳野市)、仲姫命陵(仲津山古墳・藤井寺市)に次ぐ3番目となります。ちなみに第4位は允恭天皇陵(市ノ山古墳・藤井寺市)です。また、濠は主軸線上で幅50mもあります。
仲哀天皇陵の説明板 |
古墳としての形は前方後円形で、前方部を南南西方に向けており、拝所もそちらにあります。室町時代には城として利用された他、幕末の修陵の際には元々の3段築成が5段にされるなど、大きく改変を受けていると考えられています。墳丘や濠からは円筒埴輪や形象埴輪が出土した他、周濠の堤の上に円筒埴輪が並べられていたことがわかっています。その一方で、墳丘表面の葺石は認められていません。また、墳丘くびれ部の東側には造出がありますが、西側造出の存在は現時点では不明です。
仲哀天皇
仲哀天皇は第14代の天皇で「日本書紀」の研究者によると、その治世は4世紀頃と考えられているそうです。父は第12代景行天皇の皇子である日本武尊(やまとたけるのみこと)で、母は両道入姫命(ふたじいりひめのみこと)。后は気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)、つまり神功皇后で、その間には 誉田別尊、すなわち第15代応神天皇が誕生しています。言い伝えによると、仲哀天皇は現在の九州南部を本拠地とする熊襲(くまそ)を討つため、皇后とともに筑紫(今の福岡県付近)に行幸した際、神懸りした皇后から「まず新羅を討つべし」という託宣を受けましたが、これに背いて熊襲を攻めたため敗れ、翌年には失意のうちに筑紫で崩御された、とされています。
なお、陵に関して古事記には「御陵は河内の恵賀の長江にあり」とされていますが、日本書紀には「河内国長野陵」とあることから河内長野市小山田付近にあったとの説も。
河内長野市にある「仲哀天皇陵御廟」碑(2019年9月) |
この説により「仲哀天皇陵御廟」と彫られた石柱が、現在も河内長野市野作町の国道170号(旧道)が外環状線に合流する手前(「野作町南」交差点から少し東)に建っています。
古墳外周
仲哀天皇陵の北端までは藤井寺駅から直線距離で500mほどですが、南側前方部にある拝所へは、葛井寺や辛國神社、アイセルシュラホール(藤井寺市立生涯学習センター)前を通過する東側コースで1.3kmほどで、古墳西側からでも距離はそう変わりません。宮内庁書陵部古市監区藤井寺部事務所 |
古墳南東角にある説明板の場所から濠沿いの整備された道を西に進むと、宮内庁書陵部古市監区藤井寺部事務所があります。
仲哀天皇恵我長野西陵 |
事務所を越えると拝所となっています。
拝所 |
綺麗に手入れされた拝所からは古墳が木に覆われた岡のように見えます。ちなみに、「岡ミサンザイ古墳」の「岡」はこの辺りの地名に由来し、現在の住所では藤井寺駅周辺の近鉄線と府道12号(ヤマタカ)線の間を指します。一方の「ミサンザイ」は「ミササギ(陵)」の変化したものとの説があります。
古墳の南西部 |
拝所前から古墳の南西端に向かい、濠に沿って北に少し進むと宮内庁管理の駐車場(使用はできません)に出ます。
西側包みの柵 |
駐車場から北は濠に沿って2車線道路が通っており、右手(東)に古墳を柵越しに見ながらそのまま進むと葛井寺や辛國神社、藤井寺駅へと至ります。
北側の後円部(奥にアイセルシュラホール) |
周濠東面の南側と、南面、西面からはだいたい墳丘が見えますが、北面は少し見えにくくなっています。
古墳西側の濠 |
この濠には毎年マガモなどの渡り鳥が飛来することからバードウォッチングにも人気だそうです。
仲哀天皇陵陪塚など
仲哀天皇陵の周辺には、削平されたものも含めていくつかの古墳があります。鉢塚古墳 |
仲哀天皇陵の北端から100mほど北の住宅地の中に、鉢塚古墳(はちづかこふん)があります。こちらは墳丘長約60m、高さ約6.5mの前方後円墳で、前方部は西方に向いていています。葺石は認められていませんが、周囲にはかつて濠があったことが確認されています。
鉢塚古墳の説明板 |
宮内庁による治定はないものの、仲哀天皇陵の陪塚と推定されていおり、昭和54年(1979年)に国の史跡に指定されました。現在、北側と東側は幼稚園に接しており入れませんが、南側から古墳に登ることが出来ます。
割塚古墳 |
また、仲哀天皇陵南東端から東約60mには、一辺約30mの方墳である割塚古墳(わりづかこふん)があります。こちらは4世紀末から5世紀初めに造られたと考えられており、墳丘からは円筒埴輪が出土。平成26年(2014年)に国の史跡に指定されました。
割塚古墳の説明板 |
その他、開発などのために消滅してしまいましたが、仲哀天皇陵前方部正面には、5世紀末から6世紀初めに築造された、陪塚と考えられる落塚古墳という径約20mの円墳が、東側(割塚古墳より北)には、岡古墳という4世紀末から5世紀初めに造られたと考えられる一辺33mの方墳がありました。
アクセス
近鉄南大阪線「藤井寺」駅南口から東に進み、踏切前を右折して藤井寺一番街の商店街を南下します。アーケードを抜け、葛井寺、辛國神社の前を過ぎると、藤井寺西小学校前の分岐があります。左に進み、アイセルシュラホールを通過して170mほど先で道が左にカーブし始めるところを右に入ります。直進すると割塚古墳、そして仲哀天皇陵に着きます。
小学校前の分岐を右に行くと、すぐ左手に陪塚の鉢塚古墳が見え、さらに200m少々進むと左手に仲哀天皇陵が見えて来ます。
辛國神社前の仲哀天皇陵参詣道の碑 |
車で行く場合は、府道31号堺羽曳野線「野中寺」交差点を北に進み、700mほど行くと信号のある五叉路に出ます。右斜め前方か右に進むとすぐに仲哀天皇陵が見えて来ますが、駐車場がないので、五叉路手前のコインパーキングなどを利用すると近いです。
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