厳嶋神社
2020年7月訪問
厳嶋神社(いつくしまじんじゃ)は大阪府松原市一津屋(ひとつや)にある神社です。東除川の左岸にあり、かつての主要道路であった長尾街道にもほど近い場所に鎮座するこちらの御祭神は、航海・交通安全や金運・財運の向上などの御神徳があるとされる神様です。
厳嶋神社(松原市) |
現在では、閑静な住宅街の中にある木々の生い茂った小山のように見えますが、実際には古墳であり、その上に築かれた城の跡に鎮座する神社ということです。
歴史と概要
「いつくしま」神社は全国各地にあり、一般的には「厳島」の字を当てることが多いと思われます。広島県廿日市市にある安芸国一宮(安芸の宮島)の公式表記や大阪府神社庁ホームページでは旧字体を用いた「嚴島」、当社の社号標では「巌嶋」となっていますが、本記事では境内の縁起(説明板)に合わせ基本的に「厳嶋」で表記します。
厳嶋神社の正確な創建年は不祥ですが、松原市のホームページによると創建は江戸時代中期と考えられているそうです。厳嶋神社ということで御祭神は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)で、一津屋地区の産土神となっています。市杵島姫命は、多岐津姫命(たぎつひめのみこと)、多紀理姫命(たぎりひめのみこと)と合わせて宗像三女神とも呼ばれています。神仏習合の時代には七福神唯一の女神で財宝の神である弁財天と同一視され信仰の対象となり、川や池など水の近くで祀られることが多かったようです。同じ松原市内では後述の阿保(あお)や岡の出岡弁財天(王仁の聖堂跡)も池の側でした。
発掘調査は行われていませんが、当社が鎮座する小さな山は前方後円墳で、その築造時期は5~6世紀と考えられています。境内の一部には濠が残り(境内北東の池?)、鳥居の建っている西側が前方部で、拝殿や本殿の建つ東側が後円部でその長径は約36mを測ります。江戸時代の享保20年(1735年)に並河誠所(なみかわせいしょ)が編纂した「五畿内志」の一つ、「河内志」の丹北郡陵墓の項に「荒墳 一津屋村に在り 御墓と曰う」とあるのが当古墳と考えられています。今では厳嶋神社が鎮座する古墳は一津屋古墳と呼ばれていますが、そのすぐ北側でも埋没していた川ノ上古墳(前方後円墳)が検出されており、こちらから出土した埴輪などの遺物は現在上田7丁目にある郷土資料館に展示されています。
説明板 |
また、境内の「厳嶋神社縁起」によると、南北朝時代には楠木氏の一族である和田氏が砦として守り、一津屋城と呼ばれていたようです。平野部に造られた人工の山である古墳と、すぐ東を流れる東除川がこの地を守りやすくしていたと思われます。さらに、前出の「河内志」には「一津屋城 三好駿河守所保」とあることから、戦国時代には三好氏の城砦とされていたようです。当社から約800m西方の松原市立第七中学校周辺には「城の本(じょうのもと)」という字名があることから、中学校付近に本城があり、現在厳嶋神社のある場所はその出城だったようです。
厳嶋神社の鎮座地は、かつて河内国丹北郡一津屋村でしたが、明治22年(1889年)大堀村、別所村、小川村、若林村と合併して恵我村となります。明治29年(1896年)には所属郡が中河内郡に変更。その当時の鎮座地住所は中河内郡恵我村大字一津屋字弁天となっています。昭和30年(1955年)に松原町、天美町、布忍村、三宅村と合併して松原市が発足します。
当社の縁起にも厳嶋神社の建つ場所は「小字弁天」とありますが、周辺には「山城屋敷」や「鐘付山」「御墓」「鏡付田」「掛樋」といった字名もあるようです。「鐘付山」については、かつては何か事変が起きると直ちに鐘を撞いて城に知らせたことから付けられたとされており、厳嶋神社には現在も「鐘撞山(かねつきさん)」の扁額が残っているそうです(神宮寺の山号?)。
厳嶋神社は明治時代末に近隣の大きな神社に合祀されることなく現在に至ります。
北側から見た神社の森 |
少し離れた場所から厳嶋神社を見ると、南河内の平地の古墳でイメージされる風景と同様に、住宅街の中にこんもりと木が茂った山があるだけのようにも見えます。
厳嶋神社は神職不在神社のように思われましたが、大阪府神社庁のホームページには連絡先がありました。
なお、同じ松原市内の阿保の共同墓地へ向かう参道の右手には弁天池という霊地の跡があったと伝えられています。この阿保の弁天池のそばにも弁財天女を祀る厳島神社があったそうですが、現在は阿保神社の境内に移され祀られています。南河内では、富田林市の東板持や彼方にも厳島神社(春日神社境内社)があります。
祭礼
境内の説明板によると、厳嶋神社の祭礼としては1月の正月(初詣)、小正月(大とんど奉納)の他に、7月の夏祭、10月の秋祭、12月の冬祭が執り行われるようです。
境内
一津屋の厳嶋神社の境内は東西、南北ともに最大で約60mとなっており、周囲はほぼ住宅地となっています。しかし、昭和の初め頃まで周辺はほとんど田畑だったたので、一津屋村集落の“東の外れにある”神社だったようです。
南西側の入口 |
神社への入口は主に南東側と南西側の2ヶ所にありましたが、石灯籠や石畳の参道、鳥居の配置などから見て南西側が正面のようです。
南西側の入口(西側入口)を目指すと、住宅街の中の道路の北端に森が見えますが、その手前には一対の石燈籠があって境内への入口であることがわかります。
境内に足を踏み入れると、正面にさらにもう一対の石燈籠があり、その間から参道が右にカーブを描きながら上っているのが見えます。
入口付近から見た参道(左に説明板) |
境内に足を踏み入れると、正面にさらにもう一対の石燈籠があり、その間から参道が右にカーブを描きながら上っているのが見えます。
古墳の墳丘跡と思われる傾斜地は全体的に鬱蒼とした森になっています。松原市のホームページによると、当社の境内地はマツ、クロガネモチ、アラカシなど樹木の種類が豊富で、市内で唯一、整った森林型を示し生態学上近畿平野特有の形態をなしているそうです。
西側入口から東を見ると、突き当り付近が南東側の入口(東側入口)となっています。
東側入口付近にも少し石灯籠などがあります。
拝殿前の石段を下り右手(北)を向くと、社務所(参集殿?)のような建物がありますが人の気配はありませんでした。トイレはあります。
府道188号と府道12号堺大和高田線(ヤマタカ線)が交わる「恵我之荘」交差点からは北へ約280m進み、交差点を右折し80mほど先を左折します。約30m先の住宅街の先に厳嶋神社があります。
西側入口から東側入口を望む |
西側入口から東を見ると、突き当り付近が南東側の入口(東側入口)となっています。
東側入口から見た厳嶋神社 |
東側入口付近にも少し石灯籠などがあります。
参道 |
西側入口からすぐの説明板前に戻り、再び参道の石畳を進みます。
手水鉢 |
少し進むと右手に手水鉢があります。
鳥居と社号標 |
右にカーブする参道をさらに進むと、石造りの鳥居が見えてきます。その左手には立派な「巌嶋神社」の社号標とその傍らの百度石が建っています。
石段と拝殿 |
鳥居をくぐると、目の前に10段ほどの石段とその先の拝殿が見えます。
拝殿内部 |
拝殿内はしっかりと手入れされており、正面に掲げられた「市杵嶋姫命」の額の奥にある幣殿・本殿を垣間見ることができます。
拝殿奥の本殿 |
拝殿の側面に回ると拝殿の奥にある本殿などの屋根が見えますが、塀があるので建物全体は見えません。地形から、やはりこちらが墳丘(後円部)の頂上のようです。ちなみに、社殿は西南西を向いています。
境内の北寄りにある社務所など |
拝殿前の石段を下り右手(北)を向くと、社務所(参集殿?)のような建物がありますが人の気配はありませんでした。トイレはあります。
境内社の正一位松下大明神 |
参道脇の社号標から左に進むと朱色の鳥居が並んだ境内社があります。こちらは最も手前の鳥居に「正一位 松下大明神」とあることから稲荷社と思われますが詳細は不明です。
住宅街の真ん中にありながら、古墳であり、城(砦)跡であり、神社である厳嶋神社は今も一津屋地区の産土神として大切に信仰されているようです。
アクセス
近鉄南大阪線「恵我ノ荘」駅北口(パティスリーバロンさんの反対側、藤井寺・古市方面行き側)から府道188号郡戸大堀線を北に進み、約650m先の交差点(ワクシマサイクルさんの角)を右折します。さらに80mほど先の交差点を左折すると、約30m先の住宅街の間に厳嶋神社の森と入口が見えます。
住宅街の奥が厳嶋神社 |
府道188号と府道12号堺大和高田線(ヤマタカ線)が交わる「恵我之荘」交差点からは北へ約280m進み、交差点を右折し80mほど先を左折します。約30m先の住宅街の先に厳嶋神社があります。
一津屋の厳嶋神社に駐車場は無いようです。
コメント
コメントを投稿