若林神社
2020年7月訪問
若林神社(わかばやしじんじゃ)は大阪府松原市若林にある神社です。鎮座地は4つの高速道路をつなぐ松原ジャンクションの東側、大和川のすぐ南に広がる旧若林村の集落内にあり、神社の周りはかつての町割りを留める静かな住宅地となっています。
若林神社(松原市) |
現在の松原市北東部に位置する若林地区は長い歴史を持ち、以前は北側にも大きな村域を持つ村でしたが、江戸時代に行われた大和川の付け替えによってその様子は一変したようです。
歴史と概要
若林神社の拝殿には木の板に記された由緒記がありますが、訪問時にはかなり薄れて判読しづらい状況でした。
松原市のホームページなどによると、若林神社の正確な創建年は不祥ですが、鎌倉時代末期から南北朝時代、元号では元弘から建武年間(1331年~1335年頃)に兵乱により衰微した南隣の小川村の深居神社から分祀されたようです。かつての深居神社は、小川だけでなく、川邊(現大阪市平野区長吉川辺)、若林(現松原市若林)、大堀(現松原市大堀)、津堂(現藤井寺市津堂)まで含めた広範な地域の総産土神でしたが、同時期に各村に分祀されたようです(現在の川辺八幡神社、若林神社、大堀八幡神社、津堂八幡神社)。このことから、若林神社の御祭神は深居神社と同じ第15代応神天皇である品陀別命(ほんだわけのみこと)となっています。
若林は室町時代頃から度々史書に登場しますが戦に関する記述が多かったようです。これはかつての若林神社の境内が今よりも広大で、大和川の流路が変更される以前は周辺より僅かに高所であったことから陣を張るのに適していたこと、さらに現在の大阪市内方面と南河内を結ぶ街道の中間という位置から軍事・戦略上の要衝として重要視されていたためと思われます。
室町時代、幕府管領家の畠山氏などの家督争いから起こった応仁の乱は応仁元年(1467年)から足掛け11年にわたって幕府を東西二つに分ける大乱となりましたが、文明9年(1477年)に西軍主戦派の畠山義就(よしひろ/よしなり)の河内国下国や西軍最大勢力を誇った大内政弘の降伏により幕引きとなります。しかし、義就が去ったことで京都での戦闘は集結したものの、義就が占拠した河内国や大和国では戦乱が続きました。
延徳2年12月(1491年1月)に義就が死去し次男の基家(後の義豊)がその跡を継ぐと、明応2年(1493年)、義就の従兄弟で対立関係にあった畠山政長が室町幕府10代将軍足利義材(よしき。後の義稙(よしたね))らと共に河内国高屋城(本丸は安閑天皇陵)に籠る基家を討つために京を出て河内国渋川郡の正覚寺(現大阪市平野区加美正覚寺)に陣を敷きました。この時、正覚寺と高屋城の中間にあったの若林は政長方の前線基地となりました。京都相国寺鹿苑院内の蔭涼軒主の日記「蔭涼軒日録」には「明応2年3月2日、高屋城攻めの畠山播磨守に率いられた数千の軍勢が若林に布陣したと」あります(この際、松原市内の三宅にも500の軍勢が配置されていたようです)。なお、この戦いは高屋城に包囲された基家が窮地に陥りますが、幕府内で起こった「明応の政変」により形勢逆転し政長を自害に追いやりました。
その後、しばし和睦した時期もあったものの両畠山氏の争いは続きました。天文16年(1547年)8月には、政長の孫に当たる畠山政国が籠る高屋城を攻撃するため、三好長慶の軍勢が摂津から河内へ入った際に若林に布陣しています。
さらに永禄3年(1560年)7月、三好長慶らの軍勢は高屋城主となった政国の嫡男、高政を討つため守口から攻め寄せ、太田(現八尾市)、若林を経て、葛井寺(現藤井寺市)に陣取ったそうです。
拝殿の由緒記 |
江戸時代前期、延宝年間(1673年~1681年)の「若林村絵図」では、若林神社は八幡宮とあり、森に囲まれた今とは比べられないほど広大な境内地が描かれています。
明治5年(1872年)、旧社各制度で村社に列せられました。
現在の若林神社は神職不在神社で、大阪市平野区長吉長原にある志紀長吉神社によって管理されています。
若林村
若林神社が鎮座する松原市若林はかつての河内国丹北郡若林村で、鎮座地はその集落の北部に当りますが、若林村の村域は現在の八尾市若林町にある大阪メトロ谷町線「八尾南」駅付近までありました。
松原市若林2丁目の藤井寺市境付近では弥生時代から平安時代にかけての複合遺跡である若林遺跡が発見されており、掘立柱建物跡などの遺構の他、土器などが出土しています。また、旧若林村の北部で大和川を挟んだ八尾市若林町周辺では弥生時代後期から鎌倉時代にかけての複合遺跡である八尾南遺跡が発見されており、当地ではかなり昔から人々が生活していたことがわかります。
室町時代には「若林荘(若林庄)」が存在したとされる当村ですが、江戸時代初期には北を川辺村、木本村、東は大田村や津堂村、南は小川村、西は大堀村に隣接していました。
宝永元年(1704年)2月に始まり10月に終わった大和川の川違え(付け替え)工事により新流路が若林村を東西に貫き、村は南北に分断されました。屋敷地の本村(居村)である川の南側に対し当時の川北は田畑のみで、南の集落に住む住民は大和川を渡って北の田畑で耕作を行うという不便を強いられた結果、北側へ住居を移す者も現れ、若林村出郷が誕生したようです。
松原市の「松原歴史ウォーク256」によると、正徳4年(1714年)の若林村の様子を描いた絵図では、村の氏神である若林神社の鳥居や本殿の他、檀那寺である真宗大谷派の立法寺や日蓮宗の本了寺(後述)が持つ田畑まで描かれています。また、慶応4年(1868年)に描かれた絵図では、今は見られない大和川に架かる「野通橋」が描かれていますが、この橋は船を通すために川幅100間(約181m)の半分ほどの長さだったようで、明治時代頃には「若林小橋(通称:こんにゃく橋)」と呼ばれていたようです。現在は落堀川に架かる「中橋」が「野通橋」の後継と考えられています。
若林村は明治22年(1889年)に丹北郡大堀村、別所村、一津屋村、小川村と合併して恵我村の大字となり、明治29年(1896年)には所属郡が中河内郡に変更。当時の深居神社の住所は中河内郡恵我村大字若林となっています。昭和30年(1955年)に恵我村は松原町、天美町、布忍村、三宅村と合併して松原市が発足しますが、昭和39年(1964年)にかつての若林村の村域の内、大和川右岸(北岸)の北若林地区が八尾市に編入され八尾市若林町となり現在に至ります。
若林付近を通る古市街道と呼ばれる古い道路は摂津国住吉郡の平野と河内国石川郡の古市を結ぶ準幹線道路で「大坂より大和への往還」とも記され、道標から葛井寺や道明寺、さらには大峰山への参詣にも利用されたようです。平野は難波京と斑鳩などを結ぶ古代道路である渋川道(後の竜田越奈良街道)が通り、中高野街道の起点にもなった他、戦国時代には二重の濠と土居を巡らせた環濠都市・自治都市「平野郷」を形成していたことで知られます。一方の古市も丹比道(たじひみち=後の竹内街道)と東高野街道が交わり、石川も流れる交通の要所であり前述の高屋城もありました。
境内
若林神社は大和川の左岸、つまり南側にありますが、厳密には大和川と平行して流れる二次支流の落堀川の南に鎮座しています(落堀川は東除川に合流後、さらに大和川に合流)。鳥居と境内 |
旧若林村集落の北部から、川北の若林出郷へ向かう橋へと続いていた道のやや東に若林神社は鎮座しています。
境内は東西12~13m、南北約40mで、社殿や鳥居は南向きとなっています。
境内の大木 |
南側の道路から石造りの鳥居をくぐると、参道が真っ直ぐ北側の拝殿へと伸びています。ここで目に入るのは境内の広さに比してとても大きな木が数本あることです。注連縄などは無かったものの、幹の太さからしてもかなりの樹齢があるように見受けられました。
手水鉢 |
参道を進むと右側、境内東の玉垣のそばに歴史のありそうな手水鉢がありました。
石垣の上の社殿 |
参道を進むと一対の大きめの石灯籠が並び、その先の石垣の上の一段高くなった場所に社殿が建っています。
石段の上の拝殿 |
石段を上ると古い狛犬と石灯籠が並び、その先に拝殿があります。拝殿に向かって左側には「若林会場」と書かれた参集殿のような建物があります。
拝殿から鳥居の方向を望む |
拝殿前で振り返ると、境内の様子がよくわかります。
拝殿前の灯篭 |
拝殿前に建つ石灯籠には「寛政七年卯八月吉日」とあるようで、江戸時代の寛政7年(1795年)に奉納されたもののようです。
拝殿奥の本殿 |
拝殿の奥には幣殿、本殿もあるようで、本殿前にも狛犬が見えます。
拝殿上部の絵馬など |
若林神社の拝殿内には多数の奉納絵馬が掲げられていますが、かなり古そうなものもあるようです。
拝殿内部左側の様子 |
奉納絵馬の一部や扁額などは色褪せるなどして見えにくくなっているようです。また、奥の本殿寄りにはかつての神社の写真も掲げられているようです。
神社周辺
若林神社の東側には境内に接して民家風外観の日蓮宗寺院稲荷山東池寺がありました。こちらはもともと東池庵といい、常國寺末寺でした。創立は慶長7年(1602年)とも言われている他、元和元年(1615年)に日寛が開基したとする説、正徳2年(1712年)に日空が開基した説など諸説ある寺院です。長年無住の寺院で本了寺住職が兼務していましたが廃寺となったようです。
若林神社の100mほど南西には日蓮宗の永喜山本了寺があります。
松原市のホームページによると、本了寺は若林に館を構えていた長尾氏の菩提寺であり、この長尾氏は越後国(現新潟県)の戦国大名として知られる長尾輝虎(後の上杉謙信)につながる一族と伝えられています。この一族が当地に居住した経緯としては、謙信の死後、養子である上杉景勝が豊臣秀吉に重用されたことから、その流れをくむ長尾氏が現在の枚方市長尾や富田林市喜志、そして松原市若林などにも土地を与えられたためといわれています。若林の長尾氏の初代も輝虎とよばれていたそうで、日蓮宗に深く帰依していたことから日存の講義を受けていたとも。元和3年(1617年)に没した輝虎は正行院了喜日慶とおくりなされました。
その日慶の菩提を弔うため、元和6年(1620年)に創立されたのが本了寺で、開基は日存とされています(大阪府全志では日空)。
落堀川沿いに建つ題目石 |
若林神社の北を流れる落掘川に架かる旧野通橋前に本了寺題目石があります。この題目石には「南無妙法蓮華経」「後五百歳中 廣宣流布」「五百御遠諱 天明元年辛丑年 十月十三日」「宗祖日蓮大菩薩」「本了寺」と彫られています。これは日蓮の500遠忌に建てられた石塔で、天明元年(1781年)頃の本了寺の寺域が広大であったことを物語っています。
アクセス
大和川左岸(南側)の堤防を走る府道186号大阪羽曳野線の松原ジャンクション高架下から東に進み、約150m先の「若林町」の矢印通り側道に下り、200mほど先の中橋で右側を流れる落堀川を渡ります。橋を渡って70mほど南に進んで左折すると約20m先に若林神社があります。
神社周辺は道も狭いところが多く、参拝者用駐車場も無いようです。
鳥居南側の道路 |
公共交通機関では、松原市の市内公共施設循環バスぐるりん号の「南北ルート」で「若林」バス停下車。東に15mほど進んで左(北)に曲がり、100mほど先の突き当りを右折。50mほど先を道なりに左に折れ、すぐに右折。さらに20m進むと左手に若林神社があります。
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