阿保神社
2019年12月訪問
阿保神社(あおじんじゃ)は大阪府松原市阿保にある神社です。歴史ある「阿保」という地名を冠した当社は、今でこそ静かな住宅地の真ん中に鎮座する神社ですが、平安時代の皇族・阿保親王と学問の神として崇められる菅原道真ゆかりの神社でもあります。
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阿保神社(松原市) |
近年では1月の元旦から15日までに松原市内の五社と近隣の一社(阿保神社・
阿麻美許曾神社・
我堂八幡宮・
柴籬神社 ・
布忍神社・
屯倉神社)を参詣し開運を願う行事「
開運松原六社参り」などでも参拝者が多い神社としても知られています。
歴史と概要
阿保神社の正確な創建年は不詳ですが、社伝によれば、御祭神が菅原道真ということで道真が九州の大宰府に左遷され任地に向かう際、
土師寺(道明寺)にいた叔母の覚寿尼(かくじゅに)に暇乞をするため、京から難波(なにわ)を経て阿保の地を通り、ここで休息したことから当社が建てられたとされています。このことから天神を祀る阿保神社は10世紀以降に創建されたと考えられます。
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鳥居横の説明板 |
公式サイトによると、慶長13年(1608年)に本殿が再建され、江戸時代を通じて鳥居をはじめとした様々な石造物などが奉納され今も残っています。
阿保神社の周辺はかつての河内国丹北郡に属し、田坐郷、羽咋荘などとも呼ばれていた地域の阿保村に当たり、阿保神社の鎮座地は旧阿保村集落の中心付近となっています。阿保村は元禄15年(1702年)に東西に分かれましたが、明治8年(1875年)に東阿保村と西阿保村が合併し再び阿保村となりました。明治22年(1889年)には町村制の施行により、丹北郡上田村、新堂村、岡村、立部村、西大塚村、田井城村、高見村、そして阿保村の区域をもって松原村が誕生し、明治29年(1896年)に所属郡が中河内郡に変更。昭和17年(1942年)に松原村が町制施行して松原町となりますが、松原町は昭和30年(1955年)に中河内郡天美町、布忍村、恵我村、三宅村と合併して松原市となります。
集落の南には親王池、海泉池(かいずみいけ)があり、さらにその南には長尾街道が東西に通っています。
阿保親王
阿保神社が鎮座し、松原市役所も所在する阿保という地名は「あお」と読みます。この地名の由来は、平安時代初期に第51代平城(へいぜい)天皇の第1皇子である阿保(あぼ)親王の別荘地がこの地にあったことに由来していると言われています。
松原市のホームページなどによると、阿保親王は菅原道真がこの地を訪れたとされる約100年前の弘仁元年(810年)に発生した薬子の変により出家した父である平城上皇と、皇太子を廃された弟の高岳親王に連座して大宰権帥に左遷されていますが、後に入京を許されています。
親王は承和元年(834年)に河内国丹比郡田坐に別荘を造営したと伝えられていますが、この田坐の地は現在の松原市阿保から田井城の辺りと考えられており、
田坐神社という式内社もあります。この辺りは水利に難があったので、親王は農民の為に邸宅の中庭の池を灌漑用水としました。この池は親王池、または稚児ヶ池と呼ばれ、さらに阿保親王の住居跡には親王社が建てられ、周辺の村は阿保村と呼ばれるようになったそうです。
阿保親王の墓所に関しては築造年代が違いますが、1km少々南東にある
河内大塚山古墳であるという説や、兵庫県芦屋市の阿保親王塚古墳であるという伝説もあるようです。
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拝殿前の説明板 |
ちなみに、阿保親王の祖父は平安京に遷都した桓武天皇で、子には六歌仙・三十六歌仙の一人である在原業平もいます。 さらに、親王の母である葛井宿禰藤子は河内国志紀郡長野郷(現藤井寺市)出身で、葛井氏の氏寺が葛井寺でした。
松原市のホームページによると、阿保の墓地には後述の「阿保神社」の扁額を奉納した地元の豪農である保田氏の墓所がありますが、他にも大江氏や在原氏の名、あるいは長州藩主として知られる毛利氏の家紋が見られます。これは各氏が、祖を阿保親王であると伝えているからだそうです。
祭礼
1月は歳旦祭と元旦から15日までの松原市開運六社参り、2月の節分祭、7月の夏祭、10月の秋祭などがあります。正月は「書き初め」を行っており、開運六社参りもあることから参拝者も多いそうです。
●阿保神社 公式サイト →
https://ao-shrine.com/
境内
河内松原駅の北、長尾街道と中高野街道が交わる「阿保茶屋(あおんちゃや)」周辺からさらに北の古くからの街並みの中に阿保神社はあります。
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鳥居 |
阿保神社の本殿、拝殿、参道、鳥居などは東に向いており、境内は幅約20mで、奥行きは30mほどとなっています。
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社号標と手水舎 |
参道は真っ直ぐ拝殿に向かっていますが、鳥居をくぐるとすぐ右手に「阿保神社」と彫られた社号標と手水舎があります。手水舎の奥には社務所などがあります。
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手水鉢 |
手水鉢の手前にある石版には「奉納」、「大正八年九月」と刻まれています。
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絵馬掛けと遥拝所 |
鳥居をくぐってすぐ左手、境内の東側には「おみくじ 絵馬納め所」があり、その右手に伊勢の神宮を拝む「遥拝所」の碑が立っています。
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拝殿 |
拝殿・本殿は西側の少し高い場所に建っています。
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狛犬と燈籠と説明板 |
拝殿手前のには真新しい狛犬と玉垣、手前には古い石燈篭があり、右側の石灯籠の奥には木製の説明板や大きな御神木があります。
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史跡阿保親王住居址(中央) |
拝殿に向かって左手前には「史跡 阿保親王住居址」の石碑があります。
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拝殿 |
拝殿は開放的な印象で、天井や奥の御祭神までよく見えます。
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扁額と奥の本殿 |
社殿の中には歴史を感じられる「阿保神社」の額が掲げられていますが、こちらの扁額は阿保親王の子孫とされ、源姓を名乗った西阿保村の保田氏が江戸時代末期に書いたものです。
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拝殿内の天井 |
拝殿の天井には、丸い縁取りの中に様々な植物を描いた48枚の絵があります。
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境内社の鳥居 |
拝殿の右側には鳥居があり、その奥に境内社の阿保親王社と厳島姫命社(厳島神社)があります。
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阿保親王社(左)と厳島姫命社(右) |
阿保親王社と厳島姫命社の社殿は同じ大きさで、並んで建っています。
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厳島姫命社由緒 |
厳島神社の由緒として、もともとは親王池の東の宇蛭半戎の弁天山にあった厳島神社を明治6年(1873年)にこの地に移したこと、厳島姫命は弁財天とも呼ばれており、音楽や財福を司る女神で、琵琶や武器を持つこと、弁財天は元々インドの河神で学問や芸術の守護神でしたが、日本では潅漑用水の神で農作を約束する農神である蛇とも考えられていることが記されています。
なお、同じ松原市内では一津屋の産土神である
厳嶋神社もあります。
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阿保親王社由緒 |
阿保親王社の由緒としては、平城天皇の第一皇子である阿保親王を祀り、平城上皇崩御の後に母である葛井宿弥藤子を頼りこの地に住み、親王池を築いて善政を敷いたこと、承和の変を防ぎ51歳で没したこと、伊都内親王との間に第五子の在原業平がいたこと、この親王社が親王池西の宇公垣内(まきがいと)にあった親王殿跡から移されたことが記されています。
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神社南西から見た本殿・拝殿裏と御神木 |
拝殿から続く本殿は、屋根が銅版で葺かれた特徴的な一間社流造りで、その側にそびえ立つ御神木のクスノキは樹齢1000年以上で高さ約16m、幹周り約4.5m、特徴的な根株張は約6mにも及び、松原市内有数の巨木となっています。
アクセス
近鉄南大阪線「河内松原」駅西側の松原駅前商店街から阿保商店会へ続く道(中高野街道)を北に600mほど進み、交差点を右折すると海泉池が見えるので、池や市民道夢館、阿保公民館前を右に見ながら200mほど進み、地蔵堂の前を左折し約70m進むと左手に鎮座しています。
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中高野街道(阿保商店会)から海泉池方面を望む |
国道309号「阿保1丁目」交差点からは東に進み、約350m先の交差点を右折。そこから南に80mほど進み左折、または、府道187号大堀堺線「阿保5丁目」交差点から南に約400m進み左折すると前述の海泉池が見えます。
神社周辺には矢印の付いた「阿保神社」の看板があります。
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地蔵堂の前を左折 |
阿保神社には参拝者用の駐車場が無いようなので、車で行く場合は海泉池西の阿保商店会沿いか、河内松原駅周辺のコインパーキングを利用するのが良いと思われます。
Ao Shrine(Matsubara City,Osaka Prefecture)
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