河内大塚山古墳(松原市・羽曳野市) ・かつて村があった全国5位の前方後円墳

河内大塚山古墳

2019年10月訪問
河内大塚山古墳(かわちおおつかやまこふん)は大阪府松原市西大塚から羽曳野市南恵我之荘に跨る古墳です。全国で第5位の規模を誇る巨大古墳で、形状は前方後円墳となっています。実際の被葬者は不明ですが、その大きさから大王の陵とも考えられるものの、宮内庁により天皇陵としては治定されず、被葬候補者を第21代雄略天皇とする「大塚陵墓参考地」に治定されています。

河内大塚山古墳(松原市・羽曳野市)
河内大塚山古墳(松原市・羽曳野市)

現在では付近を幹線道路や高速道路が通り、周りを住宅地で囲まれた古墳ですが、幅の広い水壕と緑の墳丘が美しい古墳として知られています。また、西の松原市と東の羽曳野市の境界線が通っており、かつては集落も墳丘上にあったという少し変わった古墳ともいえます。



歴史と概要

現地の新しい説明板(松原ライオンズクラブ設置)などによると、河内大塚山古墳は6世紀後半に築造されたと考えられる前方後円墳で前方部をほぼ北に向けています。その大きさは墳丘長約335m、前方部の幅約230m、高さ約4m、後円部の直系約185m、高さ約20mとなっていて、全国で5番目の大きさの古墳となっています。なお、後円部頂上は松原市の最高峰です。

その立地から、古市古墳群の一つともされますが、最も西寄りの離れた場所にあり、百舌鳥古墳群と古市古墳群の間ともいえることから、学術的には古市古墳群に含めないという見方もあります。このため、令和元年(2019年)に世界文化遺産となった両古墳群のリストには含まれていません。なお、大塚山古墳から3km圏内の大きな古墳としては、雄略天皇陵仲哀天皇陵津堂城山古墳黒姫山古墳などがあります。

ちなみに、河内大塚山古墳を古市古墳群に含めた場合、応神天皇陵(誉田御廟山古墳)の約425mに次ぐ大きさとなります(本来の2位は仲姫命陵(仲ツ山古墳)の約290m)。

河内大塚山古墳(松原市・羽曳野市)
松原側の説明板

規模から見ても大王の陵、つまり天皇陵である可能性が高いと考えられているようですが、この様な巨大古墳が6世紀後半に築造された例も他になく、被葬者に関しても学術的発掘調査が行われていないため特定できていません。

雄略天皇陵という伝承や敏達天皇が磯長陵から改葬されたという説、さらには来目皇子や阿保親王が葬られているなど、生きていた時代も様々な被葬候補者が挙げられていますが、宮内庁は被葬候補者を雄略天皇とした「大塚陵墓参考地」として治定しており、現在は立入禁止となっています(雄略天皇陵は1.6kmほど東の羽曳野市島泉にあります)。



河内大塚山古墳(松原市・羽曳野市)
羽曳野側の説明板

中世、大塚山古墳を利用する形で丹下(たんげ)氏が丹下城を築きました。四天王寺大学紀要第57号などによると、丹下氏がここに城を築いたのは南北時代の初め頃のようです。この丹下氏は近江国守護の佐々木氏の一族だったようで、佐々木高綱の子孫ともいわれています。丹下氏は、当初河内国南部に本拠地を持つ楠木氏が属する南朝方についていましたが、延元期以降は北朝方に属しのたで丹下城はたびたび南朝方の攻撃を受けました。

建武4年(1337年)には丹下三郎入道西念の軍が南朝方の軍勢を攻め、野中寺(現羽曳野市野々上)付近で合戦となりますが、岸和田治氏(きしわだ(きしみきた)はるうじ)に追われてこの丹下城に逃げ込むこということもあったようです。その後も丹下城はしばしば襲撃を受けたことから、丹下氏はすぐ西側の松原荘(現松原市上田・新堂・岡地区)にも松原城を築いたようですがこちらはすぐに落城しています。

丹下城は戦国期まで残り、丹下氏からは丹下盛賢などの武将も出ましたが、織田信長による河内攻めにより天正3年(1575年)に破却され、丹下氏も島泉村(現羽曳野市島泉)に帰農して、姓を吉村に改めたとされます。なお、島泉村の吉村氏は近世において代官格の大庄屋を勤め、その邸宅は「吉村家住宅」として国の重要文化財に指定されています。また、丹下氏の配下など一部は城址に残って帰農し、江戸時代には古墳の前方部に大塚村の集落を形成したとされます。当時の後円部には天満宮が祀られていたそうで、明治時代の地図でも古墳内の集落と周辺は4本ほどの道でつながっていたことがわかります。これらのことから、古墳はかなり改変を受けていると考えられます。

その後、大正14年(1925年)に宮内省(当時)により陵墓参考地とされたことから土地は買い取られ、集落は昭和の初めまでに墳丘の外に移転し、古墳内は立入禁止となりました。

古墳の現状

今回の見学は、河内大塚山古墳の北西部からスタートしました。河内大塚山古墳の北側と西側は水濠と道路が隣接していて見学しやすいですが、南側と東側は住宅が建っているのでその隙間からしか古墳が見えません。

河内大塚山古墳(松原市・羽曳野市)
北西側の土手道

濠の北西と北東には、かつての古墳内の村との行き来に使われたであろう土手道があります。

河内大塚山古墳(松原市・羽曳野市)
河内大塚山古墳(松原市・羽曳野市)

北西側の土手道の入口にはゲートが設置され、その前には松原市側の説明板や石碑があります。

河内大塚山古墳(松原市・羽曳野市)
陵墓参考地を示す石碑

石碑は昭和7年(1932年)10月に設置されたもので「大塚陵墓参考地 宮内省」、「猥ニ入ルベカラス(みだりにはいるべからず)」と彫られています。

河内大塚山古墳(松原市・羽曳野市)
補強された土手道

また、土手道はしっかりとコンクリートで補強されていて車の通行もできそうです。

河内大塚山古墳(松原市・羽曳野市)
西側の水濠

古墳西側は松原市西大塚で、こちらの道路からは水濠の幅の広さもわかりやすくなっています。

河内大塚山古墳(松原市・羽曳野市)
古墳南側

周濠は丹下村(現羽曳野市)や西川村(現羽曳野市。八幡神社あり)、一津屋村(現松原市)などの灌漑共有池として機能していましたが、古墳の南側の濠は浚渫した土砂が堆積し、一部で墳丘と陸続きとなっているようです。

河内大塚山古墳(松原市・羽曳野市)
東側建物の隙間から

前述の様に、南側(後円部)と東側は道路と濠の間に住宅が建っているためほとんど古墳が見えません。

河内大塚山古墳(松原市・羽曳野市)
北西側の土手道

水濠の北東端から80mほど南に古墳東側の道路から住宅の間を抜けて濠の傍まで行ける小路があります。この小路の入口に、恵我ノ荘駅から徒歩で来た場合に目にする羽曳野市の説明板があります。

河内大塚山古墳(松原市・羽曳野市)
北西側の土手道

小路の先には北東側の土手道があります。

河内大塚山古墳(松原市・羽曳野市)
北西より

北東端まで来ると水濠の中に再び古墳の前方部がよく見えます。河内大塚山古墳の前方部は、中央がやや外側に突き出すように角ばった「剣菱形」と呼ばれる特異な形状をしていますが、これは前方後円墳の中でも古墳時代後期の一部に見られる珍しい形です(以前は今城塚古墳も剣菱形とされていました)。

東大塚の集落

前述の様に、江戸時代から大正時代頃まで河内大塚山古墳の墳丘東側には集落がありました。

河内大塚山古墳(松原市・羽曳野市)
旧東大塚(南恵我之荘)

この古墳内の集落は東大塚村と呼ばれていましたが、大正14年(1925年)9月21日に陵墓参考地に指定されると、順次購入が進み、昭和2年(1927年)1月23日より昭和3年(1928年)11月25日までに、東側の濠の外、周濠東堤に沿うように東大塚村集落を移転したそうです。

河内大塚山古墳(松原市・羽曳野市)
燈篭など

現在は、古墳東側の道路に沿って旧東大塚村(現羽曳野市南恵我之荘)の街並みが続いていますが、東大塚地車庫の少し北に、小さなお堂や石燈籠が置かれた一角があります。

河内大塚山古墳(松原市・羽曳野市)
柴籬神社方向を向く遥拝所

石燈籠の手前には百度石があり、燈篭の間には「遥拝所」と彫られた石があることから、これらはかつての東大塚村の氏神であった「天満宮」関連のものと思われます。

松原市ホームページによると、東大塚の天満宮(菅原神社)は明治41年(1908年)10月7日に約900m西にある柴籬神社に合祀されました(「遥拝所」の石碑も西を向いています)。この際、天満宮のご神体とともに手洗鉢も柴籬神社に移され今は参集殿前に置かれています。この手水鉢はもともと大塚山古墳に葬られた人の石室の一部を転用したもののようで、表面には「天満宮享和元年九月東大塚村氏子」と刻まれています。

現在、東大塚の天満宮は羽曳野市高鷲に鎮座する大津神社に合祀されているそうです。

河内大塚山古墳(松原市・羽曳野市)
東大塚のお堂

また、河内大塚山古墳にある石には様々な伝説も語りつがれているようで、市のホームページでも紹介されています。

松原市ホームページ「歴史ウォーク」 →https://www.city.matsubara.lg.jp/bunka/work/index.html

アクセス

最寄り駅は近鉄南大阪線「恵我ノ荘」駅で、南口から出て線路沿いを北西(阿部野橋駅方面)に150mほど歩いて道なりに左に折れ、さらに道なりに200mほど進むと羽曳野市側の説明板の前に出ます。

準急停車駅である「河内松原」駅からは、南口を出て府道12号大和高田線(ヤマタカ線)を東(古市方面)に進み、約800m先の「西大塚1丁目」交差点を右(南)に曲がり100mほど進むと大塚山古墳が見えてきます。

河内大塚山古墳には駐車場が無いので、車で行く場合は両駅周辺か、古墳東側の住宅街の中のコインパーキングを利用するのが良いと思われます。

Kawachi Otsukayama Tomb(Matsubara CIty/Habikino City,Osaka Prefecture)


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