王仁の聖堂址(松原市) ・池の中に鎮座する出岡弁財天と「学問の祖」の伝承

王仁の聖堂跡 

2019年5月訪問

王仁の聖堂址(わにのせいどうあと)は大阪府松原市岡にある史跡です。松原市南部の国道309号の東側、市立松原第六中学校の北側に位置する池の中に浮かぶ伝承の地は、現在神社として祀られています。


王仁の聖堂跡(松原市)
王仁の聖堂跡(松原市)

応神天皇の御代に大陸から招かれたとされる学者の王仁は、この地に聖堂を建てて学問を広めたとされ、我が国の学問発祥の地ともいわれているようです。


歴史と概要

王仁の聖堂址は、第15代応神天皇の時代に朝鮮半島南西部にあって日本(大和朝廷)とも関係の深かった百済(くだら)から招かれたとされる人物、王仁が多くの人々に学問を広めた聖堂が建てられていたと伝承されている場所です。現在は池に突き出した岬(出島)に出岡弁財天が祀られています。

現地の説明板には「王仁の聖堂址は、この清堂池の出島付近であると古くから伝承されている。」とあります。また、松原市のホームページにはさらに詳しく記述があります。それによると、江戸時代の享保20年(1735年)、儒学者で地理学者でもあった並河誠所(なみかわせいしょ)は旧跡を踏査して畿内五カ国の地誌「五畿内志」を編纂しましたが、その中の一つ、「河内志」の丹北郡の項に「聖堂池は新堂村にある。父老が言うには、池の傍らにかつて聖堂があったので池名となった。いま宗像を安置した祠が祀られている」と書かれています。ちなみに、ここでいう聖堂とは孔子を祀る堂のことです。


王仁(わに)という人物は伝承上の人物とされますが、古事記や日本書紀、続日本紀といった我が国の歴史書に登場する渡来人として知られていました。王仁について最も詳しく書かれた日本書紀などでは「王仁」となっていますが、古事記では「和邇吉師(わにきし)」と表記されています。

応神天皇の御代ということで、王仁の渡来は4世紀後半頃と考えられています。古事記では和邇吉師によって「論語」10巻と「千字文(せんじもん)」1巻が応神天皇に献上されたと記されています。「論語」は儒家の始祖である孔子とその高弟の言行を孔子の死後に弟子達が記録した書物です。一方の「千字文」とは、漢字を教えたり、書の手本として使うために用いられた教科書のようなもので、全て違った文字で一字も重複していない1000の文字が使われた漢文の長詩です。しかし、この「千字文」が書かれたのは6世紀前半とされています。

日本書紀には百済から学者の王仁が招かれ、応神天皇の太子である菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の師となって、太子に典籍を教えたとあります。菟道稚郎子は第16代仁徳天皇の異母弟にあたります。

また、古事記、日本書紀ともに王仁が西文氏(かわちのふみうじ)の祖であると伝えています。西文氏は文筆専門の氏族として5世紀から6世紀半ばにかけて大和朝廷に仕えて活躍し、その本拠地は現在の羽曳野市古市周辺で、現存する西琳寺を氏寺としていました。

なお、王仁は百済から渡来しましたが、朝鮮半島の歴史書「三国史記」などには王仁、あるいは王仁に比定される人物の記述がなく、伝承されていなかったようです。王仁の姓である「王」は、中国風の一字姓であることから高句麗に滅ぼされた楽浪郡(漢朝が設置した郡)に多かった王氏(おうし、わんし)と考えられているそうです。

王仁の聖堂跡(松原市)
説明板

江戸時代になり儒学が盛んになってくると、王仁はわが国学問の祖として崇められるようになりました。特に大阪にはこの松原以外にも王仁に関する伝承が多く、枚方市藤阪東町には「(伝)博士王仁之墓」が建てられています。また、大阪市北区大淀中には王仁ゆかりの八阪神社が、大淀南の素盞烏尊神社(浦江八坂神社)境内には王仁臣(王仁博士)を御祭神とする王仁神社が鎮座しています。さらに、堺市北区の方違神社(ほうちがいじんじゃ)には大鷦鷯天皇(仁徳天皇)、菟道稚郎子命などと共に、百済王仁が合祀されている他、高石市の高石神社(たかしのじんじゃ)も元来は王仁を祀っていたとも言われています。

古今和歌集の仮名序には「難波津に  咲くやこの花  冬ごもり  今は春べと  咲くやこの花」という王仁の作とされる「難波津の歌」が紹介されています。この歌は小倉百人一首には含まれていませんが、全日本かるた協会が競技かるたの際の序歌に指定していることから大会では一首目に読まれます(決まり字の「いまは」との混同を避けるために四句は「今を春べと」に変えて歌われるそうです)。また、大阪市の浪速区と此花区は、どちらもこの「難波津の歌」から区名を引用して誕生しました。


出岡弁財天としての創建年や御祭神の詳細は不明ですが、七福神唯一の女神で財宝の神である弁財天は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)と同一視され、川や池など水の近くで祀られることが多かったようです。同じ松原市内では阿保神社(あおじんじゃ)の境内社や一津屋の厳嶋神社も池や川の側にあって「弁天様」として祀られていました。

王仁の聖堂跡(出岡弁財天)周辺を見ると、300mほど東には中高野街道が、400mほど南には竹内街道が通っていました。また、約400m東に正井殿、500mほど北東に十二社権現宮、約800m南に丹南天満宮、800m少々西に河合神社といった神社があります。

現地の様子

王仁の聖堂址は、国道309号から少し東、松原市立第六中学校北側の池にあります。説明板にあった「聖堂池」ですが、今では「清堂池」と書き、所在地は松原市岡1丁目となっていますが、同池は北隣の新堂地区の水田灌漑用として活用されています(「河内志」には「聖堂池は新堂村」とあります)。

この池を詳しく見ると中堤で東西に分けられており、西側が清堂池、東側が宮ノ池と呼ばれているそうです。なお、清堂池から南西にかけての一帯は清堂遺跡と呼ばれる旧石器時代から近世に至る複合遺跡となっています。

王仁の聖堂跡(松原市)
清堂池(宮ノ池)南側の中学校と岬

宮ノ池の北側の道路から見ると、池の南側は埋めたてられて前述の第六中学校が建っていますが、その手前には池の東岸から突き出た岬(出島)のようになっている部分が見えます。

王仁の聖堂跡(松原市)
出岡弁財天(聖堂址)

池の北側の道路から池の東岸沿いの道を南下すると、中学校手前の出島への入口に当たる部分に鳥居や説明板があります。ここがかつて「王仁の聖堂」があったとされている場所のようです。

王仁の聖堂跡(松原市)
一の鳥居

鳥居に向かって右側に「王仁の聖堂址」の説明板、左側に「出岡弁財天」の社号標が建っています。弁財天の境内としては、道路から社殿裏の出島の奥までは約30m、最も狭い参道部分の幅は4m前後といったところで、社殿や鳥居は東向きに一直線に並んでいます。

王仁の聖堂跡(松原市)
厳重な柵と門扉

池の東側の道路から西に向けて石畳の参道が続き、石造りの一の鳥居、二の鳥居があるのがわかりますが、二の鳥居の手前に厳重な金属製の柵と門扉があり、施錠されているために先には進めませんでした。なお、門扉の左手に賽銭投入口があります。

王仁の聖堂跡(松原市)
二の鳥居と参道・社殿

二の鳥居には「弁財天」の額が架けられており、参道の先には少なくとも2対の石燈籠が建っています。燈篭の先に社殿が見えますが、内部の様子までは詳しくわかりませんでした。

この出岡弁財天については、「河内志」に登場する祠が出岡弁財天を指すと考えられており、この祠は慶長年間に消失したものの江戸時代に再建され、さらに明治3年(1870年)、昭和43年(1968年)に建て直されて現在に至っているそうです。

松原市のホームページによると、清堂池の所在地付近の字(小字?)名を出岡というようで、出岡はかつての河内国丹北郡岡村の分村だったようです。また、現地説明板には、付近に宮地、宮の谷、宮の内、馬渕、大門下などの小字名が残っていると書かれています。ちなみに、岡村の鎮守(氏神)は400mほど東にある神社、正井殿(まさいでん)となっています。

王仁の聖堂跡(松原市)
岡のマスコット「王仁」?


なお、こちらの聖堂とは孔子を祀る堂のことですが、我が国で孔子を祀ることが始まったのは大宝元年(701年)なので、4世紀後半に渡来したとされる王仁自身が聖堂を建てたという事は確実ではありません。しかし、「ここに聖堂があったと」という伝承が古くから残されているのは、我が国の学問の祖ともいわれた「博士王仁」を顕彰することで学問の大切さを伝えたい、という当地の人々の思いがあったのかもしれません。


今も岡地区を散策すると、王仁(わに)とワニをかけた(と思われる)同地のマスコットキャラクター?を見かけます。


アクセス

国道309号「尻ノ池前」交差点から東に約230m進み、市立松原第六中学校に続く右(南)への道に入ります。そこから池(宮ノ池)沿いに100mほど進むと右手に弁才天の鳥居と聖堂址の説明板などがあります。専用駐車場はないようです。


公共交通機関の場合、近鉄南大阪線「河内松原」駅などから近鉄バスに乗り「松原市民運動広場前」バス停で下車し、100m少々北に歩くと前述の「尻ノ池前」交差点です。また、「岡北口」バス停で下車し、約130m北に歩き交差点を左折。350mほど西に進み、左に入ると宮ノ池沿いの道なのでそのまま約100m歩くと右手に王仁の聖堂址があります。


Remains of a Wani's temple(Matsubara City,Osaka Prefecture)


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