金峰神社(南河内郡千早赤阪村) ・山上の城跡に鎮座する吉年の産土神

金峰神社

2021年3月訪問
金峰神社(きんぷじんじゃ)は大阪府南河内郡千早赤阪村吉年(よどし)にある神社です。大阪府唯一の村である千早赤阪村の西部、吉年地区の産土神であった金峰神社は山の上に鎮座し、修験道と関わりの深い神を祀っています。

金峰神社(千早赤阪村)
金峰神社(千早赤阪村)

大楠公こと楠木正成が活躍した地として知られる千早赤阪村らしく、金峰神社の鎮座地はかつての山城跡であり、そこからは大阪平野を一望できるともいわれていたそうです。



歴史と概要

金峰神社の正確な創建年は不祥です。金峰神社境内には説明板がありますが、それによると御祭神は勾大兄廣國押建金日命(まがりのおおえのひろくにおしたけかなひのみこと)、つまり第27代安閑天皇となっています。また、千早赤阪村のポータルサイトによると歓喜天、熊野権現、菅原道真公も祀られているようです。

安閑天皇の諱は勾大兄皇子で、和風諡号は広国押建金日命、あるいは広国押武金日天皇と呼ばれていますが、神仏習合では蔵王権現と同一視されていました。その御陵は同じ南河内の羽曳野市にあります。説明板には他に、安閑天皇が大倭国(大和国)の勾金橋宮(まがりのかなはしのみや。現奈良県橿原市曲川町と推定)を都とし、九州から関東にかけて大量の屯倉(みやけ)を設置したことも記されています。


「金峰」というと、役小角(役行者)を開基と伝え、蔵王権現を本尊とする奈良県吉野郡吉野町にある寺院、金峯山寺(きんぷせんじ)が連想されます。蔵王権現を祀った神社は全国各地にあり「御嶽神社(みたけじんじゃ)」と呼ばれることが多いようですが、社名を「金峰神社」あるいは「金峯神社」とし、その読みも「きんぷ」、「きんぶ」、「きんぽう」、「みたけ」などとする神社もあるようです。これらの総本社は吉野の金峰山寺にある蔵王権現堂となっています。なお、木曽御嶽信仰に基づく神社はこれらとは別に「御嶽神社」と書いて「おんたけじんじゃ」と呼ばれるようです。

修験道の神である蔵王権現は、神道においては安閑天皇(広国押建金日命)の他、金山毘古命、大己貴命、少彦名命、国常立尊などと習合し、同一視されたため、明治時代の神仏分離の際に蔵王権現を祀る神社はそれらの神々を御祭神とするようになりました。

例としては、奈良県吉野郡吉野町吉野山の式内社(名神大)である金峯神社や、新潟県長岡市西蔵王にある金峯神社はいずれも金山毘古命(金山彦命・かなやまひこのみこと)を祀っています。また、南河内で蔵王権現を祀っていた神社としては羽曳野市軽里の軽羽迦神社や堺市美原区大保の広国神社などがあります。

蔵王権現を本尊とする吉野の金峰山寺を開いた役小角が修行したとされるのが当金峰神社のある金剛山系だったこともあってか、千早赤阪村ではこの金峰神社以外にも建水分神社の末社に「金峯神社」(御祭神は天照大御神他)がある他、不本見神社境内などにも蔵王権現の灯篭などがあります。また、南北朝時代には、吉野の南朝方武将として戦った楠木正行などの地盤も富田林市や千早赤阪村周辺であったことからも吉野と当地の縁を感じられます。

金峰神社(千早赤阪村)
説明板

鎮座地周辺は、明治の初めまで河内国石川郡吉年村でしたが、明治22年(1889年)の町村制施行により中津原村、小吹村、東阪村、千早村と合併して新たに千早村となり、明治29年(1896年)に所属郡が南河内郡となります。この当時の金峰神社は旧社格制度で村社に列し、鎮座地は南河内郡千早村大字吉年字宮尾となっています。明治40年(1907年)10月7日に金峰神社は千早村大字千早(現千早赤阪村千早)の千早神社に合祀され、その後復社したようです。なお、千早村は昭和31年(1956年)に赤阪村と合併して千早赤阪村となっています。

金峰神社(千早赤阪村)
北北東から見た高塚山

現在の金峰神社は吉年地区北端の高塚山の山頂に鎮座していますが、もともとは麓にあり、墓地を造った際に山頂に遷座したそうです。その高塚山頂には、元弘2年(1332年)に楠木正成が築いた城の一つである高塚山塞(吉年塞)があったと伝えられています。高塚山塞の1km少々北には下赤坂城があり尾根続きとなっていました。かつては山頂付近に木がなく摂津、河内、和泉の三ヶ国を一望できる風光明媚な山だったようですが、現在は周囲を木々に覆われており展望が限られています。大正時代に描かれた「郷土史の研究」には高塚山塞址に由緒沿革不明の小祠があったと記されており、これが現在の金峰神社と思われます。

説明板によると、当社は霊験あらたかと評判で、第二次大戦中には近隣の町村からの参拝客も多かったようです。

なお、現在の千早赤阪村内には旧府社の建水分神社、千早神社、旧村社の不本見神社、中津神社、小吹八坂神社などといった神社があります。


境内には三等三角点「吉年(295.5m)」が設置されています。

金峰神社は神職不在神社で、羽曳野市高鷲にある大津神社の兼務社となっています。


境内

金峰神社は吉年集落の北にある高塚山の山頂にありますが、集落からそこに至る参道は少なくとも東西二つの道があるようです。

金峰神社(千早赤阪村)
東側からの参道

一つは吉年集落の中央やや東寄りから上る道で、こちらの方が少し距離があるようでしたがバス停には近いです。

金峰神社(千早赤阪村)
西側からの参道入口(左の坂・標識あり)

もう一つは集落の北西側から上る道です。こちらは距離が近い分、傾斜が急な印象です。

いずれの参道も民家の敷地を通るようですが「金峰神社」の標識(案内看板)を頼りに進むと辿り着けると思います。また、集落の東西どちらの参道からでも直線距離では100mもありませんが、車の通行は出来ません。

金峰神社(千早赤阪村)
石段と鳥居

鬱蒼とした木々の間の坂道を上り切ると畑などのある開けた場所に出ます。そしてその北側の少し高い所には鳥居があり、そこへ至る石段も見えます。

金峰神社(千早赤阪村)
鳥居と灯篭

石段の先には石造りの鳥居があり、その両側に石灯篭もあります。

なお、今回の訪問時は神社の境内全体をイノシシ除けと思われるフェンスで囲ってありましたので、鳥居から先には進めず、外からの参拝と撮影になりました。

金峰神社(千早赤阪村)
手水舎

鳥居をくぐると左手(西側)に手水舎がありました。その先にも古そうな石灯篭が見えます。

金峰神社(千早赤阪村)
本殿の大宮と左の小宮

鳥居をくぐった先は広場となっていて、さらにその先に玉垣で囲われた一段高い場所が見えます。その入口にある1対の狛犬の間の短い石段を上ると社殿があります。

中央の社殿が主祭神である勾大兄廣國押建金日命を祀った大宮で、左手に見える小宮に歓喜天、熊野権現、菅原道真公が祀られているようです。

金峰神社(千早赤阪村)
境内東側の建物

鳥居をくぐった右手(東側)には社務所か参集所のような建物があります。三等三角点「吉年」は、神社の東側、つまりこの建物の奥にある畑の隅に設置されているようです。

金峰神社(千早赤阪村)
境内西側の様子

そして左手(西側)には先ほどの手水舎や灯篭の他、奥の玉垣の手前に説明板が見えます。

金峰神社(千早赤阪村)
木々の間からの眺望

境内西側の木々の間からは大阪平野が良く見えるようで、かつて摂津、河内、和泉が見渡せたという眺望が広がっているようです。説明板には、北に下赤坂城跡・生駒山が、東に上赤坂城跡・葛城山が、南東に千早城跡・金剛山が、北西に嶽山城跡・六甲山が見えるとあります。


金峰神社周辺を見ると、尾根伝いの1km少々北に下赤坂城跡、1km少々東の尾根に上赤坂城跡、1.5kmほど東南東に不本見神社、そして1.5kmほど南には中津神社や小吹八坂神社、西恩寺などがあります。また、富田林市となりますが1km少々西には楠妣庵観音寺(途中に楠母神社跡も)が、さらに当社から南西の河内長野市に入ると観心寺延命寺などの神社仏閣、城跡があります。


アクセス

千早赤阪村の入口ともいえる旧国道309号の「森屋」交差点から府道705号富田林五條線を南に進み、約2.7km先の「東阪」交差点を目指します(途中で村役場前を通過し、消防署分署や下赤阪の棚田駐車場の先の分岐を右に進みます)。「東阪」交差点からは北西方面へ延びる坂を上って府道209号東阪三日市線に入り200mほど進むと金剛バスの「吉年」バス停があります。

この「吉年」バス停へは近鉄長野線「富田林」駅などから金剛バスに乗り「吉年」バス停で下車します。「吉年」バス停前の分岐から府道209号を離れ西に進み吉年集落へ向かい、250mほど進むと下の写真の「吉年」の標識が見えてくるので分岐を右に入ります。その後は「金峰神社」の案内看板の矢印通りに山道を上ります。こちらが東側参道となります。

「吉年」の標識(神社は右上へ)

上記の東阪方面から以外にも、千早赤阪村民運動場や富田林市のサバーファーム方面から西側参道を上るコースもありますが、いずれの場合も吉年の集落内には矢印の描かれた「金峰神社」の案内看板が多数あるので基本的にはそれに従って歩くと神社に着きます。

なお、金峰神社に参拝者用駐車場は無く、最も近い観光用駐車場は消防署の千早赤阪分署前にある「棚田駐車場」となるようで、神社までは約1kmの行程となります。

Kinpu Shrine(Chihayaakasaka Village,Osaka Prefecture)


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