建水分神社
2016年3月訪問
建水分神社(たけみくまりじんじゃ)は大阪府南河内郡千早赤阪村水分にある神社です。大阪府下で唯一の村として知られる千早赤阪村は大阪府の南東部に位置し、「大楠公」こと楠木正成ゆかりの地としても知られています。近くには大楠公誕生地や産湯の井戸、資料館などの楠木正成関連史跡や施設があり、更にその周辺の山々には下赤坂城、上赤坂城、千早城といった太平記にも登場する戦跡などがあります。
建水分神社(南河内郡千早赤阪村) |
地元では「水分神社(すいぶんじんじゃ)」とも呼ばれ親しまれる建水分神社は、主祭神として天御中主神、天水分神、国水分神、罔象女神、瀬織津媛神を祀っています。また、当社は霊峰金剛山の総鎮守であり、楠木正成で有名な楠木氏の氏神でもあります。
歴史と概要
社伝によると、建水分神社の創建は第10代崇神天皇5年(紀元前92年)とされ、勅命により金剛葛城山麓に水の神として祀られたのが始まりです。延喜元年(901年)の「日本三代実録」には叙位累進の記録があり、延長5年(927年)にまとめられた「延喜式神名帳」に河内国石川郡9座の内の1つ、小社と記載される式内社です。御祭神として本殿では、天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)を中殿に、天水分神(あめのみくまりのかみ)を左殿右室に、国水分神(くにのみくまりのかみ)を右殿左室に、罔象女神(みつはのめのかみ)を左殿左室に、瀬織津媛神(せおりつひめのかみ)を右殿右室に祀っています。天御中主神は日本神話の天地開闢において登場する神で、その名は天の真中を領する神を意味していますが、他の四柱の神は全て水に関する神となっています。
旧説明板 |
もともと現在地の100mほど北の水越川のほとりに鎮座していましたが、南北朝時代に兵火にかかり荒廃。建武元年(1334年)に第96代後醍醐天皇の勅令を受けた楠木正成により現在地に遷座し、本殿、拝殿、鐘楼等も再建。延元2年(1337年)には神階正一位の極位を授けられました。
新説明板(2021年4月) |
中世、織田信長の河内国攻略の際に建水分神社の境内は焼かれ、社領も没収されて一時衰退しましたが、後に豊臣秀吉が社領を寄進し復旧されました。
明治6年(1873年)の近代社格制定の際に付近18ヶ村の総鎮守、産土神の故をもって郷社に列格されました。更に明治40年(1907年)に神饌幣帛料共進社に指定され、同時期に氏子区域内17の神社を合祀した後、大正2年(1913年)に府社に昇格しました。
大阪府全史巻之四によると、明治末の合祀についての詳細は以下のようになります。括弧内は御祭神。
明治40年9月12日に当時の南河内郡赤阪村大字森屋字垣外の村社森谷神社(素盞鳴命)、同村大字川野辺字宮山の村社八幡神社(応神天皇・天照大御神・田心姫命)、同村大字桐山字築山の村社桐山神社(伊弉諾命・伊弉冊命)を合祀。
同年10月19日に大伴村大字板持字宮山の村社厳島神社(市杵島姫命)、同村大字別井字松葉の村社別井神社(素盞鳴命)、同村大字別井字イカノ内の村社別井神社(素盞鳴命)、中村大字中字宮の浦の村社中村神社(天児屋根命・斎主神・思兼命)、同村大字馬谷字長峯の村社馬谷神社(国常立命)、同村大字芹生谷字藤山の村社奥谷神社(伊弉那美命・天水分神)、同村大字寛弘寺字水汲の村社水汲神社(天水分神・地水分神)を合祀。
10月21日に河内村大字弘川字龍池の村社弘川神社(国常立命・伊弉諾命・中筒男命・伊弉冊命)を合祀。
10月26日に同村大字上河内字石見町の村社立岩神社(天照大神・天児屋根命・八幡大神)を合祀。
10月30日に白木村大字白木字北の山の白木神社(素盞鳴命)、同村大字寺田字権現山の村社八阪神社(素盞鳴命)を合祀。
11月9日に河内村大字下河内字神山の村社河内神社(神日本磐余彦命)を合祀。
11月11日に白木村大字加納字戸立の村社加納神社(罔象女命)を合祀。
11月13日に彼方村大字板持字尾の上の村社板茂神社(素盞鳴命・大己貴命・応神天皇・安閑天皇)を合祀しています。
現在の行政区画では、赤阪村は南河内郡千早赤阪村、中村、河内村、白木村は南河内郡河南町、大伴村、別井村、彼方村は富田林市となり、かなり広範囲の旧村の村社が建水分神社に合祀されたことがわかります。なお、合祀された各村社には、旧社地に復社したものや鳥居や灯篭、石碑などが残されているものもあります。
なお、現在の千早赤阪村内には旧府社の千早神社をはじめ、旧村社の不本見神社、金峰神社、中津神社、小吹八坂神社などがあります(管理しているのは不本見神社と金峰神社が大津神社、中津神社は長野神社、小吹八坂神社は建水分神社となっています)。
現在の行政区画では、赤阪村は南河内郡千早赤阪村、中村、河内村、白木村は南河内郡河南町、大伴村、別井村、彼方村は富田林市となり、かなり広範囲の旧村の村社が建水分神社に合祀されたことがわかります。なお、合祀された各村社には、旧社地に復社したものや鳥居や灯篭、石碑などが残されているものもあります。
なお、現在の千早赤阪村内には旧府社の千早神社をはじめ、旧村社の不本見神社、金峰神社、中津神社、小吹八坂神社などがあります(管理しているのは不本見神社と金峰神社が大津神社、中津神社は長野神社、小吹八坂神社は建水分神社となっています)。
社頭(参道入口)の様子 |
建水分神社は、古来より別名「水分大明神(みくまりだいみょうじん)」の他「上水分宮(かみのみくまりのみや)」などとも呼ばれていました。この「上水分宮」という名称は、富田林市宮町に鎮座する美具久留御魂神社の別名「下水分宮」の呼称に対応しています。また、美具久留御魂神社を「中水分宮」とし、八尾市恩智中町にある恩智神社を「下水分宮」とする呼び方もあります。
建水分神社を「たけみくまりじんじゃ」と読むのは難しく珍しいようにも思えますが、水分神社(みくまりじんじゃ)の「くまり」は「配り(くばり)」の意味であり、水分神(みくまりのかみ)とは水の分配を司る神として水源地や水路の分水点などでよく祀られています(当社も水越川のほとりに鎮座していました)。南河内周辺での例としては、現在の奈良県で「大和水分四所」と呼ばれる吉野水分神社、宇太水分神社、都祁水分神社、葛木水分神社が知られている他、東北から九州まで各地に「みくまりじんじゃ」が存在しています。ちなみに、建水分神社の鎮座地の地名は水分「すいぶん」と読んでいます。
建水分神社の境内には戦前教育において史上随一の忠臣として日本国民の模範とされた楠木正成公を御祭神とする南木神社がある他、建水分神社そのものが楠木氏の氏神であることから当社には多くの人々が参詣しました。当神社近くには楠木氏に関連する楠木正成公誕生地の碑や産湯の井戸、奉建塔(現在はスイセンの丘としても有名)などもあります。
●建水分神社公式ホームページ →http://www.takemikumari.com/
祭礼
楠木正成の誕生日と伝えられる4月25日は「くすのきさん」と呼ばれる春祭りがあります。これは、3月25日の道明寺天満宮(藤井寺市)の「菜種御供大祭」、4月11・12日の叡福寺(太子町)の「大乗会」と共に「南河内の三大春事」として、古くより親しまれてきました。
毎年10月には、秋の収穫を建水分大神の恩恵として感謝祝慶する秋祭があります。この秋祭では、御神霊が神輿で神社から1km弱下にある通称「比叡前(ひえのまえ)」と呼ばれる御旅所へ神幸し、そこに千早赤阪村、河南町、富田林市の氏子地区から20台近くのだんじりが集まり宮入するので、その景観は南河内随一といわれています。また、だんじりの舞台上では、上方芸能の原点とも云われる「河内にわか」と呼ばれる即興の寸劇が奉納上演されます。
比叡前には御旅所古墳と御旅所北古墳という古墳があります。
戦艦金剛と「艦これ」
第二次世界大戦時の日本海軍の戦艦金剛の艦内神社には建水分神社の御祭神が勧請されていたので、金剛が大阪に寄港した際は艦長以下多くの乗組員が当社に参拝したといわれています。
また、戦艦金剛を擬人化しキャラクターも登場するゲーム「艦隊これくしょん(艦これ)」人気によりブログやSNSなどで建水分神社に触れられることもあるようです。ちなみに海上自衛隊の護衛艦こんごうの艦内神社には金剛山山頂に鎮座する葛木神社が祀られています。
境内
建水分神社は金剛山と葛城山の間にある水越峠を通る国道309号(旧道)沿いに入口があります。参道入口(2021年4月) |
入口はバス停からも近いですが、そこには鳥居が無いので道路標識と石灯篭などの石造物が入口の目印となっています。
社号標 |
社頭の大きな社号標には本来「府社 建水分神社」とありましたが、戦前戦中と軍部との関係が深かった当社に対する進駐軍(GHQ)の干渉を懸念し、第二次大戦後に「府社」の部分がセメントで埋められたとか。
社号標の裏に最初の駐車場があります。
参道の坂道を少し上り始めると右手に社務所があります。御朱印や御守りなどはこちらで。
参道の坂道は30mほど上って右に折れ、さらに30mほど進んで左に折れ、旧絵馬堂を改装した休憩所前に出ます。
現在は休憩所になっている旧絵馬堂 |
参道の坂道は30mほど上って右に折れ、さらに30mほど進んで左に折れ、旧絵馬堂を改装した休憩所前に出ます。
休憩所(休絵馬堂)の内部 |
なお、休憩所(休絵馬堂)の裏手(写真左側)も駐車場になっているようです。
トイレと灯篭(2021年4月) |
休憩所の北側にトイレがありますが、その周辺にも興味深い石灯篭などがあります。ちなみに、写真右側の灯籠は「愛宕山」と彫られたいわゆる「愛宕灯篭」のようです。伊邪那美命(伊弉冉尊)を垂迹神として地蔵菩薩を本地仏とする愛宕権現は、火防せ(火伏)・防火の神として全国的に信仰されていました。
左の鳥居が建水分神社、右の鳥居が南木神社 |
旧絵馬堂の前は広場になっていて、2つの鳥居が目に入ります。左奥が建水分神社の鳥居でその先には拝殿への石段があります。右は摂社で大楠公を祀る南木神社の鳥居です。
建水分神社の鳥居 |
鳥居と鳥居の間にある手水舎 |
建水分神社の鳥居手前右手に手水舎があります。名所図会によると、当社の境内には閼伽井と亀井という二つの井戸があったようですが、手洗所右の閼伽井は涸れ、亀井は所在不明とのこと。
百度石(2021年4月) |
また、鳥居の手前右側には歴史を感じさせる大きな百度石があります。
本殿の屋根(2021年4月) |
拝殿付近からかすかに見える現在の本殿は、建武元年に後醍醐天皇の勅命により楠木正成が造営したのもで、三殿から構成されています。中殿に一間社の春日造、左殿と右殿に二間社の流造を配し、中殿と左右両殿を渡廊で連結するという、他に例を見ない全国唯一の貴重な様式となっています。
本殿は明治33年(1900年)に大阪府の神社建築として初めて特別保護建造物(国宝)に指定され、昭和25年(1950年)には改めて重要文化財の指定を受けました。
御守りと御札(2021年4月) |
藁人形土鈴の由来(2021年4月) |
拝殿内には様々な御守りや御札、そして「藁人形土鈴」の案内もありました。
金峯神社(2021年4月) |
また、拝殿に向かって左側には末社である金峯神社(きんぷじんじゃ)が鎮座しています。こちらの創建や由緒など詳細は不明ですが、御祭神は皇室の御祖神であり、日本人の総氏神でもある伊勢の神宮の御祭神、天照大御神を奉斎しています。
同じ千早赤阪村内の吉年地区には金峰神社がありますが、こちらの御祭神は蔵王権現と同一視された勾大兄廣國押建金日命(まがりのおおえのひろくにおしたけかなひのみこと。第27代安閑天皇)となっています。
鐘楼(2021年4月) |
なお、石段下の鳥居が建つ広場周辺には古い石灯篭などが点在している他、鳥居に向かって左手の少し奥には、祭器庫や神仏混淆時代の貴重な遺物である鐘楼があります。
鐘楼にある梵鐘は無銘ですが南北朝時代の鋳造と鑑定されているそうで、第二次大戦中には多くの寺院の鐘が金属回収統制によりその存在を無にしましたが、建水分神社の梵鐘は回収を免れました。このため、現在では南河内で最古の梵鐘とされているそうです。
摂社 南木神社
広場に建つ建水分神社の大鳥居前に向かって右手の方には、摂社である南木神社(なぎじんじゃ)があります。南木神社の鳥居 |
こちらは、大楠公と呼ばれる楠木正成公を御祭神とする神社で、正成公を祀る神社としては最古のものです。
延元元年(1336年)に楠木正成が湊川で戦死すると、後醍醐天皇は哀惜の念から翌年建水分神社の境内に楠木正成を祀り、次代の後村上天皇は「南木神社」の神号を贈りました。
元禄10年(1697年)、当時この辺りを治めた石川総茂が傾頽した南木神社社殿を再建しましたが、この社殿は昭和9年(1934年)の室戸台風で老木が倒れたことにより崩壊しました。
南木神社鳥居横にある石碑 |
元禄10年(1697年)、当時この辺りを治めた石川総茂が傾頽した南木神社社殿を再建しましたが、この社殿は昭和9年(1934年)の室戸台風で老木が倒れたことにより崩壊しました。
南木神社の社殿は拝殿、幣殿、本殿と続くとても立派なもので、摂社としては破格の官幣社建築に準じた設計となっています。
拝殿内部(2021年4月) |
東側から見た南木神社側面(2021年4月) |
平成16年(2004年)11月に建水分神社御創祀2100年記念事業の一環として南木神社の社殿改修工事が行われており、全体的に比較的新しく見えます。
アクセス
車の場合、大阪方面からは国道309号を奈良県御所市方面に向かい、道の駅かなんを越えて「神山南」交差点を右折し、道なりに約2km進むと右手にあります。御所市方面からは国道309号で水越峠を越え大阪方面へ。グロワールゴルフ倶楽部入口を過ぎて500mほど下ると府道27号線との分岐の標識が見えるので国道309号(旧道)の森屋方面へ斜め左に折れると左手に神社入口があります。
駐車場は、入口から少し坂を上った左側や、休憩所(旧絵馬堂)の裏、南木神社横などにあります。
休憩所(旧絵馬堂)裏の駐車場 |
公共交通機関の場合、近鉄長野線「富田林」駅から金剛バスを利用し、「水分神社口」バス停が最寄となります。また「水分」バス停からも国道309号(旧道)を大阪方面に下る(三叉路を北西方向に進む)と左手に神社入口が見えます。
なお、タクシーや地元の人に尋ねる場合は「すいぶんじんじゃ」と言った方が伝わりやすいようです。
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