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奉建塔(南河内郡千早赤阪村) ・寄付金によって建てられた「楠公六百年祭記念塔」

奉建塔

2018年12月訪問
奉建塔(ほうけんとう)は大阪府南河内郡千早赤阪村大字二河原邊(にがらべ)にある記念塔です。これは人々の寄付により建てられた石造りの塔で、大楠公こと楠木正成ゆかりの千早赤阪村の中でも春はサクラ、冬はスイセンの名所としても知られる小高い丘の上にあります。

奉建塔(南河内郡千早赤阪村)
奉建塔(南河内郡千早赤阪村・2016年3月)

周辺は楠木氏関連史跡の多い千早赤阪村でも特に中心的な楠公誕生地楠公産湯の井戸建水分神社があるエリアです。


歴史と概要

奉建塔は、徳島県の画家である森下白石氏が発起人となり、全国の児童、生徒、教師等より寄せられた寄付金で建てられました。「楠公六百年祭記念塔」とも呼ばれているこの塔は、楠公没後600年である昭和10年(1935年)11月に着工し、昭和15年(1940年)5月15日に竣工しました。

塔の高さは43尺(約13m)ありますが、これは湊川で戦死した時の楠木正成の年齢が43才であったことを表しています。また、菊水の家紋の下に刻まれた「非理法権天(ひりほうけんてん)」という文字には「非は理に勝たず、理は法に勝たず、法は権に勝たず、権は天に勝たず」という意味があり、正成が旗印として用いたという伝承があります。

奉建塔(南河内郡千早赤阪村)
奉建塔の説明板

奉建塔の塔柱、及び基礎は鉄筋コンクリート造りで、その表面に花崗石(花崗岩を切り出したもので、御影石とも)を積み上げています。その重さは最大1300貫(約4876kg)あり、建設された当時の技術では相当の難工事だったと考えられています。

●千早赤阪村ホームページ 奉建塔とスイセン →http://www.vill.chihayaakasaka.osaka.jp/sangyo_bijinesu/kanko_annai/2819.html

現地の様子

奉建塔は道の駅ちはやあかさかや、くすのきホールから300mほど南にあるスイセンの丘の上にあります。

奉建塔(南河内郡千早赤阪村)
バス停付近の案内板

道の駅からスイセンの丘、奉建塔一帯は千早赤阪村でも登山や観光で訪れる人も多く、近年案内板やバス停も整備されています。

奉建塔(南河内郡千早赤阪村)
北西側登り口

奉建塔に上る道は主に北西からと南西からになりますが、通常は道の駅などに近い北西側から向かいます。奉建塔はスイセンの丘のさらに上にあるので、まずはスイセンの丘に登ります。

奉建塔(南河内郡千早赤阪村)
スイセンの丘

約5万本のニホンスイセンが咲くスイセンの丘は千早赤阪村有数の観光スポットで、毎年12月下旬ごろから2月中旬ごろにかけて咲き誇り、辺り一帯に甘い香りを漂わせます。

奉建塔(南河内郡千早赤阪村)
奉建塔周辺の桜(2020年4月)

また、少し上の奉建塔周辺は桜の名所としても知られています。

奉建塔(南河内郡千早赤阪村)
南西側登り口

一方の南西側の登り口は、北西側登り口と同じ道に面してますが150mほど上赤坂城寄りにあります。

奉建塔(南河内郡千早赤阪村)
まさしげくんの案内板

奉建塔周辺でも楠木正成をモチーフにした村の公式イメージキャラクター「まさしげくん」の案内看板がいくつか見られます。

奉建塔(南河内郡千早赤阪村)
奉建塔への大きな階段

スイセンの丘とは違い、奉建塔にはきちんとした階段が設けられています。

奉建塔(南河内郡千早赤阪村)
塔の前の広場

階段を上りきると、奉建塔前の広場に出ます。こちらにはちょっとした休憩施設や展望台があり、公園のようになっています。

奉建塔(南河内郡千早赤阪村)
広場から見た奉建塔

広場からは左右にある階段で塔のもとに上れます。

奉建塔(南河内郡千早赤阪村)
菊水の紋と「非理法権天」

広場からの階段を上ると、さらに塔の基壇に上る階段が現れます。基壇に上ると塔の真下から見上げることができます。「非理法権天」の下には昭和11年(1936年)の陸軍大臣林銑十郎揮毫による「大楠公於笠置奉答後醍醐天皇之辞」が埋め込まれています。この林銑十郎は昭和12年(1937年)2月2日~6月4日まで第33代内閣総理大臣を務めた人物です。

奉建塔(南河内郡千早赤阪村)
「大楠公六百年記念塔」の標

また、基壇にも昭和54年(1979年)5月25に日に千早赤阪村楠公史跡保存会により取り付けられた銅標があり、そちらには奉建塔の建つこの場所が、楠公ゆかりの浄心寺塞址という砦の跡だということも記されています。

奉建塔(南河内郡千早赤阪村)
塔の裏側下部

また、塔裏側には起工・完成した年月などが彫られています。

奉建塔(南河内郡千早赤阪村)
閉鎖中の展望台

広場の端には展望台があり、大阪市内方面を中心とした大阪平野、あるいは金剛・葛城の山々の一部などを見渡せますが、平成30年(2018年)秋の台風の影響か、訪問時は使用禁止でした。

なお、奉建塔から直線距離で700mほど西には下赤坂城跡が、1.4kmほど南には上赤坂城跡があり、城跡以外では約1.2km北西に寄手塚・身方塚があります。

奉建塔(南河内郡千早赤阪村)
階段からの景色

冬場には広場から階段を下る時に楠公誕生地や郷土資料館、くすのきホール方面が見えます。

奉建塔(南河内郡千早赤阪村)
奉建塔下のスイセンの丘より

奉建塔は、鎌倉時代末期から南北朝時代のものが多い楠公関連史跡とは異なり、幕末から昭和にかけて大いに広まった“楠公精神”の高揚を目的として建てられたものですが、今でも地元の人々から「楠公さん」と親しまれている楠木正成に対する人々の思いについて知るうえで重要な施設の一つといえます。

アクセス

車の場合、奉建塔に駐車場は無いので村の観光案内にあるように道の駅ちはやあかさかを利用します。駐車場・見学無料。

道の駅ちはやあかさかへは、大阪、富田林方面からは国道309号を奈良(御所)方面へ進み道の駅かなんを越え「神山南」交差点を右折します。2kmほど道なりに進むと大きく右にカーブしているので、その先を右折(看板あり)。約200m先を右折すると少し先の左側に道の駅があります。

奈良県御所市方面からは、国道309号で水越峠を越え大阪方面へ。府道27号との分岐(府道の方が本線扱いのようですので注意)を左に入り、建水分神社の前を通って300m弱で再び分岐があるので左に。約200m先を右折すると少し先に道の駅があります。

道の駅からは南に約250mでスイセンの丘登り口となります。

奉建塔(南河内郡千早赤阪村)
「奉建塔前」バス停

公共交通機関では、近鉄長野線「富田林」駅より金剛バスで「奉建塔前」バス停下車すぐです。なお、道の駅には隣の「楠公誕生地前」バス停が便利です。

Hokento(Chihayaakasaka Village,Osaka Prefecture)


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