寄手塚・身方塚(南河内郡千早赤阪村) ・大楠公が敵味方の戦没者を供養したと伝わる五輪塔

寄手塚・身方塚

2019年10月訪問
寄手塚・身方塚(よせてづか・みかたづか)は大阪府南河内郡千早赤阪村大字森屋にある、鎌倉時代末期の千早赤阪での戦いで亡くなった人を弔ったとされる2基の五輪塔から成る供養塔です。

寄手塚・身方塚(南河内郡千早赤阪村)
寄手塚・身方塚(南河内郡千早赤阪村)

金剛山を望む高台の上にある寄手塚・身方塚は、当時この辺りを根拠地としていた武将、大楠公こと楠木正成によって建てられたと伝えられており、敵味方分け隔てなく弔ったとされる大楠公の人となりを感じることが出来る史跡です。

なお、トップの写真の中央にある寄手塚五輪塔の右奥が金剛山、左奥が葛城山となります。



概要

寄手塚・身方塚はそれぞれが独立した五輪塔で、この場合の「塚」は古墳のようなマウンドというよりは供養塔としての五輪塔を指しています。これらの塔は、周辺で言うと富田林の墓地の中に建つ板持十三重塔のように、森屋集落の西側にある墓地の中で一般の墓石と一緒に並んでいます。この墓地は千早川から300mほど西の丘の上にあり、鎌倉時代末期に幕府が大軍をもって攻め込むも翻弄された赤坂城(下赤坂城)跡の碑から真北に約1kmの距離にあります。



楠木正成は、元弘元年(1331年)と元弘3年/正慶2年(1333年)に現在の千早赤阪村を中心に鎌倉幕府の大軍と戦いましたが、これらの合戦で亡くなった人々の霊を弔うために建てたのが寄手塚と身方塚と伝わっています。
地元では、これらの塚が「敵」という字を用いず「寄手」としていること、また味方を弔ったとされる「身方塚」より「寄手塚」の方が大きく造られていることなどから、大楠公楠木正成が戦の名人というだけでなく、情に厚く奥ゆかしい人物であった証とされています。

●下赤坂城跡や戦いの経緯についてはこちら →下赤坂城跡(南河内郡千早赤阪村) ・楠木正成が幕府軍を翻弄した山城「国史跡赤阪城跡」

現地の様子

寄手塚・身方塚がある森屋地区や隣の水分地区の集落周辺には、楠公誕生地をはじめ、楠公産湯の井戸建水分神社出会戎藤野森神社といった楠木正成ゆかりの旧跡が多数あります。また、千早赤阪村の村役場や道の駅ちはやあかさかも森屋・水分地区にあり、村の行政や観光の中心地ともいえます。

寄手塚・身方塚(南河内郡千早赤阪村)
墓地入口(北東側)

千早赤阪村の役場から少し北にある西楽寺から西に向かってしばらく坂を上ると赤坂地区の墓地に着きます。

寄手塚・身方塚(南河内郡千早赤阪村)
「寄手塚・身方塚」の看板

一般の墓地ですが入口には村のマスコットキャラクター「まさしげくん」のイラストの入った「寄手塚・身方塚」の看板や楠公史跡保存会の設置した標識などがあるのでわかりやすいです。

寄手塚・身方塚(南河内郡千早赤阪村)
航空写真を使った見取り図

墓地は傾斜地にあり南北に細長くなっていて下にある入口から全体を見渡すのは難しいですが、入口には航空写真を使った案内地図があるので凡その位置がわかります。

寄手塚・身方塚(南河内郡千早赤阪村)
寄手塚

まずは北側にある寄手塚に向かいます。寄手塚の周囲は生垣になっており、その内側に歴史を感じさせる五輪塔が見えます。

寄手塚・身方塚(南河内郡千早赤阪村)
寄手塚五輪塔の説明板

こちらには「寄手塚五輪塔」の説明板があり、それによると、寄手塚五輪塔は葛城山付近から産出される角閃石黒雲母石英閃緑岩(かくせんせきくろうんもせきえいせんりょくがん)で造られており、総高182.0cm。塔身(水輪)には阿閦如来(あしゅくにょらい)を表す「ウーン」、宝生如来(ほうしょうにょらい)を表す「タラーク」、阿弥陀如来を表す「キリーク」、不空成就如来を表す「アク」といった「金剛界の四仏」を表す梵字(種字)が彫られています。造立時期は鎌倉後期と考えられており大阪府文化財保護条例による有形文化財の指定を受けています。

寄手塚・身方塚(南河内郡千早赤阪村)
下から2番目の水輪に梵字

寄手塚前にある「←身方塚」の矢印に従いもう一つの五輪塔、身方塚に向かいます。

寄手塚・身方塚(南河内郡千早赤阪村)
身方塚

寄手塚から南に40mほど歩くと身方塚があります。

寄手塚・身方塚(南河内郡千早赤阪村)
身方塚五輪塔の説明板

こちらにも「身方塚五輪塔」の説明板があります。それによると、身方塚五輪塔は赤く小さな石榴石(ざくろいし)を含んだ黒雲母花崗岩(くろうんもかこうがん)を石材として使用しています。総高は137.3cmとなっており、182.0cmの寄手塚より小さな五輪塔となっています。五輪塔の下には反花基壇が設けられており、造立時期は南北朝時代の前半と考えられ、大阪府古文化紀念物等保存顕彰規則で重要美術品に指定されています。

寄手塚・身方塚(南河内郡千早赤阪村)
こちらは梵字無し

寄手塚・身方塚は鎌倉時代から南北朝時代にかけて建てられた供養塔ですが、今も花が供えられ周辺も綺麗に整えられており、地元の人々に大切にされていることが伝わってきました。

アクセス

寄手塚・身方塚は千早赤阪村のほぼ北西端にあります。

寄手塚・身方塚(南河内郡千早赤阪村)
周辺にいくつかある看板

河南町の「道の駅かなん」から国道309号を300mほど東にある府道705号富田林五條線と交わる「神山南」交差点から南(奈良県・千早赤阪村方面)に向かいます。約700m先に「西楽寺前」交差点があるので右折し、カーブしている坂道(府道202号森屋狭山線)を上ります。

寄手塚・身方塚(南河内郡千早赤阪村)
府道202号上の標識(東側から)

「西楽寺前」から400mほど進むと道路上に「寄手塚・身方塚」と「自然休養村管理センター」の大きな標識があるので左折します。

寄手塚・身方塚(南河内郡千早赤阪村)
この分岐を左へ

府道202号から100mほど南に進むと分岐があるので左に入り、道なりに約60m進むと右手に墓地があります。


また、富田林市南部の国道170号(旧道)「錦織(高橋)」交差点から府道202号を東に進み(滝谷不動尊前を通過し)約3.8km進むと前述の「寄手塚・身方塚」と「自然休養村管理センター」の大きな標識のある交差点に着きますので右折し、次の分岐を左折するコースも。

なお、墓地の専用駐車場は確認できず、入口付近に少し駐車出来そうなスペースがあるのみのようでした。


公共交通機関の場合、近鉄長野線「富田林」駅から金剛バスに乗り、「森屋西口」バス停で下車すると「西楽寺前」交差点のすぐ南側なので、上記のコースを参考に歩くと約600mの行程となります。

Yosetezuka Mikatazuka(Chihayaakasaka Village,Osaka Prefecture)

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