出合戎藤野森神社(南河内郡千早赤阪村) ・村役場近くのえべっさん

出合戎藤野森神社

2017年12月訪問
出合戎藤野森神社(であいえびすふじのもりじんじゃ)は大阪府南河内郡千早赤阪村水分にある神社です。千早赤阪村で唯一の戎神社ということで、毎年1月の大祭には商売繁盛を願う地元の人々で賑わうそうです。

出合戎藤野森神社(南河内郡千早赤阪村)
出合戎藤野森神社(南河内郡千早赤阪村)

「出合」は周辺の字名?、「藤野森」も当地の古くからの地名のようで、当ブログでの名称は「出合戎藤野森神社」としましたが、神額には「藤野森神社」とあり、由緒記には「出合藤森戎神社」や「藤森戎神社」との記述も見受けられました。



歴史と概要

由緒記によると、出合戎藤野森神社の社殿は元弘元年(1331年)8月、楠木正成により創建されました。楠木正成秘蔵のご神体が祀られているようですが、御祭神が「えびす」なのか「ヒルコ」なのか「事代主」なのか正確なことはわかりませんでした。

出合戎藤野森神社(南河内郡千早赤阪村)
出合戎藤野森神社の由緒記

造営当時は拝殿や瑞垣、その他神社としての付属建物を新築して荘厳だったようですが、正平14年(1359年)春に、足利義詮が畠山国清とともに大挙して赤阪城を攻めた際に兵火にかかり焼失してしまったようです。

出合戎藤野森神社(南河内郡千早赤阪村)
少し東の千早川に架かる出合橋

当戎神社の鎮座する地は古くから「藤ノ森」と呼ばれ、社殿の周囲や背後の山は老松、雑樹が鬱蒼と生い茂る深い森だったようで、豊臣政権時と徳川幕府初期の検地の際も金剛山の一部として記録されているそうです。これは、この霊域を尊重し、付近の他の一私人の山林とは異にしたためと考えられています。

ちなみに、楠木正成が鎌倉幕府軍と戦った赤坂城(下赤坂城)もこの裏山付近にあったとされている他、楠木氏の氏神である建水分神社も南東に1kmほどの距離にあります。

楠木氏没落後は復旧営繕することもままならず、漸く有志が相談し拠金して仮の社を建て、以前のご神体を奉安し、今日に至っているそうです。現在の社は大正13年(1924年)12月に再建されたものです。同時代に発行された「郷土史の研究」には大将軍祠の神鏡も合祀されているとあります。

なお、水分地区の鎮守は前出の建水分神社で、現在千早赤阪村内には他に千早神社、不本見神社金峰神社、中津神社、小吹八坂神社などの神社があります。

周辺の史蹟としては当社の600mほど北西に寄手塚・身方塚があります。また、字出合には屏風塚という古墳のようなものもあったとも伝えられています。


境内

千早川に架かる出合橋から府道を挟んで向かいにある石材店の左手から神社に向かいます。

出合戎藤野森神社(南河内郡千早赤阪村)
戎神社(地区集会所)への道(右が石材店)

府道からは20mほどコンクリート舗装の参道となっています。

出合戎藤野森神社(南河内郡千早赤阪村)
出合戎藤野森神社

参道を上ると程なく正面に出合戎藤野森神社の社殿が見えてきます。社殿の右手には山ノ井地区集会所(公民館)があります。

出合戎藤野森神社(南河内郡千早赤阪村)
藤野森神社の神額

大阪をはじめ、関西ではお馴染みの商売の神様「えべっさん」ということで、毎年1月には「出合戎」と呼ばれる大祭が今も行われています。かつては遠方からの参詣者や露店香具師が集まったそうです。


アクセス

国道309号線(旧)の「森屋」交差点を金剛山ロープウェー、千早赤阪村役場方面へ府道705号富田林五條線に入り約350m進むと左に「郷土資料館」「楠公誕生地」「道の駅ちはやあかさか」への道、右手に石材店が見えるので、石材店の向こう側の道に入り30mほど上った所にあります。千早赤阪村役場と山ノ井地区集会所(公民館)の間になります。

出合戎藤野森神社(南河内郡千早赤阪村)
石材店の向かいに建てられた看板

出合戎藤野森神社の前が山ノ井地区集会所となっていて府道から車でも入れそうですが、途中の民家前から奥の道が狭く敷地も狭いため、祭礼や集会の時は入れそうにありません。

公共交通機関では近鉄長野線「富田林」駅から金剛バスに乗車し「千早赤阪役場前」バス停下車。少し下り、石材店の手前を左に入るとすぐに神社が見えます。

Deaiebisu-Fujinomori Shrine(Chihayaakasaka Village,Osaka Prefecture)


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