旧中村
2018年2月訪問
大阪府南河内郡河南町の中(なか)地区は、河南町の中心からやや南西に位置し、かつては河内国石川郡中村と呼ばれていました。明治時代に周辺の村々と合併した際は中心的な村となっていたようです。
旧中村(南河内郡河南町) |
河南町の中地区の歴史を簡単に振り返ると、当地区は前述のように明治時代の初め頃まで河内国石川郡中村と呼ばれており、江戸時代の寛文元年(1661年)に伊勢国神戸藩(かんべはん。現三重県鈴鹿市神戸の神戸城が藩庁)初代藩主である石川播磨守総長(ふさなが)の領地となりました。石川家は南河内でもいくつかの村を所領としていましたが、それらの統治のために中村の北隣にある白木村(現河南町大字白木)に白木陣屋を設けています。
ちなみに、石川総長は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将で徳川家康に仕えた大久保忠隣の次男でしたが外祖父である石川家成の養子となり石川家を継ぎました。家成は石川数正の叔父に当たる人物です。この石川数正・家成を輩出した三河国(現愛知県東部)の石川氏は、平安時代後期の河内源氏の棟梁であり八幡太郎義家と呼ばれた源義家の流れを汲む氏族で、中村神社から6kmほど北にある古市郡壺井(現羽曳野市壺井)を本拠地としていました。今も壺井には河内源氏ゆかりの壺井八幡宮や源氏三代の墓があります。また、当社跡から約3km北の石川郡一須賀村(現河南町一須賀)に鎮座する式内社壹須何神社(一須賀神社)も義家の子孫である石川源氏にゆかりがあるようです。
石川総長の子孫は常陸国下館藩(現茨城県筑西市)に移封されたことから、中村は明治の初めには下館藩、下館県の管轄となり、後に堺県、明治14年(1881年)に大阪府の管轄となりました。
明治22年(1889年)、町村制の施行により、石川郡中村は馬谷村、芹生谷村、神山村、寛弘寺村と合併して新たに中村が発足。明治29年(1896年)には所属郡が南河内郡に変更となり、昭和31年(1956年)に南河内郡石川村、白木村、河内村と合併して南河内郡河南町が発足しています。
中村神社跡
旧中村の集落は東の馬谷川と西の天満川の間にあったようですが、その中心付近に村の鎮守である中村神社がありました。
中村神社跡のある広場 |
中地区を南北に走る府道27号柏原駒ヶ谷千早赤阪線にある金剛バスの「中村」バス停付近から1本西の道路を少し南に進むと、左手に広場が見えて来ます。
鐘楼 |
広場の北西角の石垣の上に建つ鐘楼が目印で、その南側が広場の入口となっています。
広場内から見た鐘楼と遊具 |
この広場には遊具もあって公園のようですが、左奥(北東)に中地区の集会所がある他、正面(東)に消防団の倉庫、右奥(南東)に地車(だんじり)小屋も見えます。また、右(南)側にはかつての中村神社の鳥居などが残されていることから、この地が古くから地区の中心であったことがわかります。
なお、広場の東側と南側は崖のようになっていて、鳥居は南側の崖の縁に建っているように見えます。
中村神社跡 |
「郷土史の研究」によると、中村神社はもともと真言宗の寺院である正楽寺の境内にあり春日大明神と呼ばれていたようですが、この寺は既に廃寺となっています。広場入口の鐘楼は正楽寺のものだったのかもしれません。
明治に入ると春日大明神は中村神社と改称し近代社格制度で村社に列しました。明治の終わり頃の鎮座地は南河内郡中村大字中字宮の浦となっています。
中村神社の御祭神は天児屋根命(春日神)、斎主神、思兼命で、境内は1反9畝15歩(585坪?)の広さがありました。また、末社に住吉神社、大神神社、天神神社、厳島神社が祀られていました。
明治40年(1907年)10月19日に、当時の南河内郡赤阪村大字水分字宮山(現千早赤阪村水分)にある建水分神社の左殿に合祀されました。
征清軍人紀念碑 |
周辺には石碑が多く、鳥居に向かって右手には明治30年(1897年)6月に建てられた「征清軍人紀念碑」があります。これは明治27年(1894年)から翌年にかけて行われた日清戦争にて戦没した中村出身の軍人を顕彰したもののようです。
鳥居の左側の石碑 |
また、鳥居に向かって左手にも石碑があります。
長澤賴三氏紀念碑 |
さらに、広場から西側の道路に出て左(南)側にも石碑がありますが、こちらは石垣・石段の上にあります(広場の外側から上ります)。この石碑は「長澤賴三氏紀念碑」のようです。
玉垣のある石碑(慰霊碑?) |
また、神社跡の広場から10m少々南の右手(西)には「義侠福岡文兵衛氏碑(?)」もあります。
百田の観音寺
中地区にはいくつか寺院があったようですが、多くが廃寺となっているようです。
福聚山観音寺 |
現存する寺院としては、中村神社跡から西側の道を北に150mほど行くと右手(東)に観音寺という寺院があります。
山門 |
観音寺は融通念仏宗の寺院で山号は福聚山。所在地の字名から「百田(ももだ)の観音寺」と呼ばれているそうです。
観音寺の説明板 |
門前の説明板によると、百田の観音寺はもともと真言宗の古寺でしたが中世(鎌倉・室町時代)になって衰えました。元和3年(1617年)に融通念仏宗に改宗し、延宝元年(1673年)からは旧河内国石川郡三十三所観音霊場の第27番札所として庶民の信仰を集めました。
明治時代に入ると観音堂だけを残して廃寺となりますが、杉田義教師の多年の努力によって昭和16年(1941年)に寺号を復興し現在に至っているそうです。
なお、河内国石川郡三十三所観音霊場としては東隣の馬谷村に28番札所の観音寺があります。
アクセス
国道309号の「石塚」交差点から東に進み、約250m先の突き当りを左折し府道27号に入ります。550mほど北に進んで信号のある交差点を左折し、さらに50mほど先の交差点を左折。あとは約30m進むと左手に中村神社跡のある広場があります。
公共交通機関では、近鉄長野線「富田林」駅から金剛バスに乗り「中村」バス停下車。すぐ南の信号のある交差点を右(西)に入り約50m先を左折するとほどなく中村神社跡のある広場となります。
百田の観音寺は神社跡から北に約200m。「中村北口」バス停からは府道27号ではなく西側に斜めにのびるの細い道路に入り南に220m少々です。
なお、中村神社跡周辺に一般用の駐車場は無いようです。
コメント
コメントを投稿