八王神神社
2020年9月訪問
八王神神社(はちおうじんじんじゃ)は大阪府羽曳野市樫山にある神社です。近年、百舌鳥・古市古墳群として世界文化遺産に登録された両古墳群をつなぐ東西の幹線道路、府道31号堺羽曳野線から少し南の静かな住宅地の中に鎮座しています。
八王神神社(羽曳野市) |
歴史的な観点から見ると、その鎮座地は羽曳野市の西部を南の狭山池から北に流れ、重要な河川だった東除川の近く(左岸)であり、大和国と河内国を結んだ日本最古の官道として知られる竹内街道沿いとなっています。
歴史と概要
境内に由緒記や説明板は無く、八王神神社の正確な創建年や御祭神は不祥です。
「八王神」という社名からは東京都八王子市のように「八王子」という地名が連想されますが、この名は全国に分布しているようです。八王子市のホームページなどによると、これは牛頭天王(ごずてんのう)の8人の王子神である「八王子」を祀る信仰の広がりの中で、八王子神社や八王子権現社が建立されて地域の信仰を集めるとともに、地名として定着していったことによります。八王子市の場合、北条氏照が深沢山に築いた山城に八王子権現を祀り(八王子神社)、八王子城と名付けたことなどが由来となっているそうです。
「八王子神社」も全国にあり、大阪府下では大阪市東成区中本などに、また奈良県にも多数あります。
仏教の守護神である牛頭天王には頗梨采女との間に七男一女の8人の子がいるとされており、これを祀ったのが八王子神社です。八王子は八方位の暦神に比定され「八将神」とも呼ばれています。明治時代に入ると、神仏分離の際に牛頭天王を祀っていた各地の天王社は須佐之男命を御祭神とする八坂神社などに変わりましたが、八王子も須佐之男命と天照大神との誓約(うけい)で化生した五男三女神などに置き換えられることも多く、「八柱神社」と改称した神社もありました。なお、現在全国にある八王子神社でも八柱の神を主祭神としていない神社が結構あるようです。
このように「八王子神社」は全国的にみられる社名ですが、当社の「八王神神社」という社名は珍しいようで、御祭神を含め詳しい関係は不明です。なお、京都府京都市南区には上鳥羽八王神町という地名があります。
八王神神社鳥居の額 |
八王神神社の鎮座地はかつて河内国丹南郡樫山村でしたが、明治22年(1889年)に郡戸村、河原城村、野村、多治井村と合併して丹南郡丹比村(たんぴむら)となり、明治29年(1896年)には所属郡が南河内郡に変更されます。昭和31年(1956年)に古市町、高鷲町、埴生村、西浦村、駒ヶ谷村と合併して南大阪町が発足しますが、翌年には旧丹比村の一部(多治井)が美原町(現堺市美原区)に編入され、昭和34年(1959年)、南河内郡南大阪町が市制施行し南大阪市となり、即日改称して羽曳野市が誕生しました。
旧丹比村では、多治井のみが現在の堺市美原区に編入され、樫山、野、河原城、郡戸が現在の羽曳野市となっていますが、神社の氏子地区で見ると、樫山以外の多治井、野、河原城、郡戸が美原区多治井の式内社である丹比神社(たんぴじんじゃ)の氏子地となっています。大正時代に記された「大阪府全誌」によると、当時の丹比村大字樫山は埴生村と並んで現在の羽曳野市高鷲にある式内社、大津神社の氏地となっていることから、樫山の氏神は明治の頃に大津神社に合祀されていたのかもしれません。
現在は八王神神社に地車(だんじり)が宮入するなど単独で例祭が行われているようなので、後に復社したと思われます。
八王神神社は神職不在神社のようです。
祭礼
案内板などが無かったので年間行事などの詳細は不明ですが、秋祭りには樫山地区のだんじりが出て八王神神社に宮入するようです。
「樫山だんじり」のレリーフ |
現在の樫山地区のだんじりは、江戸末期~明治初期に造られた堺型と呼ばれるものだそうです。これは元々、堺市西区草部地区馬場の先代だんじりで、平成18年(2006年)に樫山が購入したものです。だんじり小屋は神社の北西約130mにあります。
八王子神社の境内南東の壁には、「樫山だんじり」の精細なレリーフがあります。
境内
八王神神社は羽曳野市を東西に横切る通る日本最古の官道、竹内街道の南側に接する形で鎮座しています。この付近は旧樫山村集落の北東端でした。
竹内街道から見た神社 |
神社の北側に当たる街道側から見ると、八王神神社は高さ2~3mの石垣の上にあることがわかります。石垣の上の玉垣と手前の大きなパネル(掲示板?)があることから境内の様子は、大きな木があること以外わかりません。
北側出入口の坂 |
街道側の西端まで来ると「八王神神社」の社号標があって、そこから左(東)に向かって上る坂道が見えます。ここが神社の北側の出入口です。
北側から見た境内 |
坂道を上りきって右(南)を向くと、玉垣で囲われた境内の広場になっており、すぐ右手には社殿が、そしてずっと奥の方に鳥居が建っていることから、こちらが裏手だとわかります。
広場の玉垣に沿ってプランターやベンチが整然と並べられています。
南側の神社正面 |
神社の正面出入口は、鳥居のある南側です。こちらから参拝するには竹内街道沿いの神社北側から少し東の路地を南に入って回り込む必要があります。
なお、鳥居の右側には「祭倉庫」と消防団の倉庫があります。
鳥居 |
正面から鳥居までも少し坂を上ることになります。比較的新しい石造りの鳥居には「八王神神社」の額が架けられています。
鳥居手前の左手には「寄贈宮跡敷地」の碑が、鳥居奥の左手には百度石があります。また、鳥居手前右側の突き当りには前出のだんじりレリーフがはめ込まれています。
南側から見た境内 |
鳥居をくぐると、左手に手水舎があり、その先に社殿が見えます。社殿の右側奥が街道との出入口の坂です。境内には数本の木がありますが、本殿の裏にあるのは桜の木で春には見事な花をつけるようです。
手水鉢 |
手水鉢も比較的新しいもののようです。
石燈籠と本殿への参道 |
手水舎前からさらに先(北)に進むと一対の石燈籠があり、その奥のにまた玉垣で囲われた本殿のある区域があります。ここは境内北西に当たり、入口に「八王神神社」と彫られた石柱が建っています。
本殿 |
本殿は瓦葺で、少し寺院のお堂のような感じもしますが、きっちりと祀られています。
奉納絵馬 |
本殿の正面外側には、歴史のありそうな武者絵の奉納絵馬が掲げられています。
左は源平合戦における屋島の戦いで、藤原景清(平景清)が源氏方の美尾谷(みおのや)十郎国俊と格闘し錣(しころ=兜の左右・後方に下げて首筋を守る部分)を引きちぎったという「錣引き」の場面で、右は一ノ谷の戦いで熊谷直実(熊谷次郎直実)が平敦盛を呼び止める場面、といずれも平家物語の一場面のように見えますが詳細は不明です(だんじりでも良く用いられるモチーフのようです)。
歴史を感じさせる狛犬 |
本殿のある区域内には、本殿から見て向こう側に石燈籠、手前に狛犬がありますが、これらは外の石燈籠や鳥居と比べるとかなり歴史があるように見えます。
境内にある古い防災無線の拡声器? |
八王神神社の境内は南北約22m、東西で最大12mほどとそれほど広くありませんが、掃除が行き届いていて樫山の人々によってしっかり手入れされている印象の神社でした。
アクセス
公共交通機関では、近鉄南大阪線「河内松原」駅などから近鉄バスに乗り、「野村」バス停(野の日吉神社隣です)下車。バス停前から竹内街道を東に約550m進むと神社があります。
府道31号からは、東除川に架かる新伊勢橋西詰を南に入り、東除川の左岸(西岸)を約350m南下すると竹内街道の(旧)伊勢橋があるので右折し街道へ。70mほど先の左手に八王神神社があります。
伊勢橋東詰 |
竹内街道に架かる(旧)伊勢橋は、かつてこの街道を東に進みお伊勢参りをしたことに因む名前です。この伊勢橋の東詰南側には、架け替え前の橋に使われていた親柱が並べられています。
この伊勢橋の東詰めに羽曳野市の公共施設循環福祉バス(コミュニティバス)の「樫山伊勢橋」バス停があります。
八王神神社に駐車場は無いようです。
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