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旧杉山家住宅(富田林市) ・富田林寺内町最古の古民家で歌人石上露子の生家

旧杉山家住宅

2018年10月訪問
旧杉山家住宅(きゅうすぎやまけじゅうたく)は大阪府富田林市富田林町にある古民家です。大阪府で唯一、国の「重要伝統的建造物群保存地区」として選定されている富田林寺内町の中にあり、国の重要文化財にも指定されています。また、現在では市のマンホールの蓋の図案にも取り入れられるなど、富田林を代表する建造物となっています。

旧杉山家住宅(富田林市)
旧杉山家住宅(富田林市)

江戸時代から昭和初期の町並みが残ることで知られる富田林寺内町でも最古級の町屋建築として、建物にまつわる歴史や文化はもちろん、その大きさや広さ、造りも含めて見どころの多い古民家といえます。


富田林寺内町

旧杉山家住宅のある富田林寺内町は、富田林市の中心部にあり、東西約400m、南北約350m、面積約13.3haの範囲内に楕円形に広がっています。内部は東西に7本、南北に6本の街路で区画された近世の町割りを残しており、現在は少しわかりにくくなっていますが周辺よりも一段高い台地上に築かれた町です。

富田林寺内町の歴史は、戦国時代の永禄3年(1560年)に、本願寺一家衆で現在の京都市下京区にある興正寺(こうしょうじ)の第16世・証秀上人が、石川西側の河岸段丘上の荒芝地を銭百貫文で購入し、一向宗(今の浄土真宗)興正寺別院の御堂を建立したことに始まります。上人の指導のもと近隣4ヶ村(中野村・新堂村・毛人谷(えびたに)村・山中田(やまちゅうだ)村)の庄屋株、いわゆる「八人衆」の協力で、芝地の開発、御堂の建立等を行い、町全体を仏法の及ぶ空間、寺院の境内と見なして信者らが生活をともにする宗教自治都市「寺内町」として発展して行きました。

これにより、「富田の芝」や「富田が芝」と呼ばれていた場所は「富田林」と改められたそうです。ちなみに、「寺内町」の読みは一般的に「じないちょう」、「じないまち」のどちらもあるようですが、富田林の場合、市や観光案内などでは「じないまち」と呼んでいるようです。

なお、戦国時代の貨幣で1貫とは1000文、つまり「永楽通宝(明の貨幣)」などの銅製銭貨1000枚のことで、今の貨幣価値では10万円から15万円程度のようです(諸説あり)。富田荒芝地は銭百貫文ということで、現代風に言うと1000万円から1500万円で購入された、といったところでしょうか。

旧杉山家住宅(富田林市)
案内のリーフレット

杉山家

旧杉山家住宅という名称からわかるように、この住宅にはかつて杉山家の人々が住んでいました。富田林市の観光案内などによると、杉山家は富田林寺内町の創設以来の旧家で、当主は代々「杉山長左衛門」の名跡を継いできたそうです。寺内町創立にもかかわった富田林八人衆の筆頭年寄であった杉山家は江戸時代を通じて町の経営に携わってきました。

当初は「わたや」という屋号で木綿問屋を営んでいた杉山家は、貞享2年(1685年)に酒造株を取得し酒造業を始めました。初めは30石だった酒造石高は、元禄10年(1697年)には104石、天明5年(1785年)には1103石と成長し、河内酒造業の肝煎役(代表者)を務める大商家となりました。

江戸時代の屋敷図をみると、その敷地は広大で寺内町町割りの一画を占めていました。その中には主屋をはじめ酒蔵、釜屋、土蔵など十数軒が軒を連ねて建てられており、その繁栄ぶりがうかがえます。

昭和58年(1983年)に富田林市が購入し、現在は市が管理しています。同年12月26日に国の重要文化財に指定されました。

石上露子

杉山家は明治時代の中頃に酒造業を廃業しましたが、明治15年(1882年)には与謝野晶子らとともに活躍した明星派の女流歌人・石上露子(いそのかみつゆこ)が誕生しました。露子の本名は杉山孝(たか)で、旧家の長女として伝統的なたしなみを身につける一方、ミッションスクールに学ぶなど新しい文化や思想にも影響を受けたようです。21歳の時に与謝野鉄幹が主宰する新詩社の社友となり、その後は代表作である「小板橋」をはじめ、多くの短歌、詩、小説などを発表しました。「小板橋」は当時の文学青年や詩人に広く愛読されていたようです。

旧杉山家住宅(富田林市)
石上露子のパネル

明治40年(1907年)、家の後継の道を選択した露子は結婚し、不本意ながらしばらく執筆活動を中断しますが、昭和6年(1931年)から再び短歌の寄稿などを始めました。しかし、夫や二人の子供を亡くすなど波乱の人生を送り、晩年は生家で過ごしました。昭和34年(1959年)に77歳で生涯を閉じた露子の墓所は南河内郡河南町平石の高貴寺にあります。高貴寺には他に歌碑や二人の子供の墓もあります。

住宅内の様子

旧杉山家住宅は昭和58年に富田林市が購入し、3年近い工期を要した解体修理を経て、現在は一般公開されています。

旧杉山家住宅(富田林市)
土間

入口から土間に入り、受付で参観料(大人400円、15歳以下200円)を払います。現存する主屋の中ではこの土間部分が最も古く、17世紀中頃に造られたと考えられています。

旧杉山家住宅(富田林市)
釜屋

土間の奥には釜屋(カマヤ)があります。ここには煙を遮断するために架けられた「煙返し梁」があり、農家的な技法も用いられていたことがわかります。

旧杉山家住宅(富田林市)
竈(おくどさん)

釜屋の中央付近には大中小3つの竈があります。杉山家の最盛期には、この屋敷の中で働いていた者は使用人だけでも70人という記録があるそうです。

旧杉山家住宅(富田林市)
格子の間と台所

釜屋の反対側には格子の間(コウシノマ)や台所(ダイドコ)があります。

旧杉山家住宅(富田林市)
仏間

その奥には店奥(ミセオク)と仏間(ブツマ)があります。

旧杉山家住宅(富田林市)
大床ノ間

さらに奥に進むと能舞台を模したともいわれる大床ノ間(オオドコノマ)となっていて、文化・文政の頃に描かれた狩野散人杏山の障壁画や見事な襖絵を見ることができます。

大床ノ間の北側には座敷があり、座敷の西側には奥座敷があります。

旧杉山家住宅(富田林市)
茶屋

奥座敷の南側、大床ノ間の裏手には石上露子が好んだとされる茶室がありますが、こちらは立入禁止となっています。

旧杉山家住宅(富田林市)
角屋

主屋の北端に突き出た角屋(ツノヤ)にはタンスや衣装が展示されていました。10月に雛人形が飾ってあるのは「後の雛祭り(のちのひなまつり)」のため。

旧杉山家住宅(富田林市)
南西側の塀と庭

旧杉山家住宅では、主屋の屋内だけではなく屋外にも見どころがあります。まず、南西側では忍び返しのある外塀を内側から見ることができます。

旧杉山家住宅(富田林市)
北側から見た主屋

土間の奥からは主屋北側の庭に出ることができます。

旧杉山家住宅(富田林市)
主屋と井戸

旧杉山家住宅は寺内町最古・最大の南河内農家風建築様式の平面構成をもつ建築物で、現在その敷地は約430坪ですが、江戸時代の最盛期には更に広く、その面積は一区画(約1000坪)という広大なものでした。

旧杉山家住宅(富田林市)
庭から見た階段や角屋(右)など

庭からは主屋の2階部分がよく見えます。当屋敷は江戸時代中期に座敷や2階が増築されるなど大きく拡張され、延享4年(1747年)頃にほぼ現在の形となったそうです。

旧杉山家住宅(富田林市)
螺旋階段

角屋と座敷の間(ダイドコの北)には、アールヌーボー調のモダンな螺旋階段がありますが、これは明治時代の女流歌人・石上露子が改築して設けたそうです。なお、2階にも様々な展示物がありました。

旧杉山家住宅(富田林市)
枯山水の庭園

敷地の北西には多くの木々が植えられた庭園があります。石上露子はこの庭園が良く見える奥座敷を好んでいたそうです。

旧杉山家住宅(富田林市)
旧酒蔵

庭園の奥、敷地の北側にも建物が見えますが、こちらはかつての酒蔵だそうで、酒造業で栄えた杉山家の歴史を感じることができます。

旧杉山家住宅(富田林市)
資料館(米蔵)内部

また、敷地の北西隅には米蔵が残っていますが、こちらは内部が資料館として公開されています。

旧杉山家住宅(富田林市)
展示品の駕籠

資料館には杉山家や石上露子に関するものなど貴重な品が展示されています。

●富田林市公式サイト 旧杉山家住宅 →https://www.city.tondabayashi.lg.jp/site/bunkazai/2482.html

アクセス

近鉄長野線「富田林」駅の南口を出て国道170号(旧道)を渡り、観光交流施設「きらめきファクトリー」の横の「じないまち 本町通り」に入り南に500mほど進みます(富田林コロッケ寺内町店前通過)。道なりに進むと左側に富田林寺内町の地図と「市場筋」の石碑があるので次の交差点を左折すると左手が旧杉山家住宅です。向かいには寺内町センターがあります。

旧杉山家住宅には駐車場はありません。寺内町内にも駐車場がほとんど無いので、車で行く場合は「富田林」駅か「富田林西口」駅周辺のコインパーキング、または市役所近くの市営東駐車場(有料)などをご利用ください。

The Old House of the Sugiyamas(Tondabayashi City,Osaka Prefecture)


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歴史と概要境内にある説明板によると、高須神社の創建は大坂冬の陣後の元和元年(1615年)に鉄砲鍛冶の芝辻理右衛門(しばつじりえもん)が徳川家康から高須(当神社付近)の地を授けられたことに始まります。
芝辻理右衛門は、紀州根来出身の刀鍛冶で日本最初の火縄銃の製作者ともいわれる芝辻清右衛門(妙西)の孫で、名は助延(すけのぶ)、号は道逸。堺の鉄砲鍛冶であった理右衛門は、慶長14年(1609年)に徳川家康から鉄張の大砲を作ることを命ぜられ、砲身一丈(約3m)、口径一尺三寸(約39cm)、砲弾重量一貫五百匁(約5.6kg)の鍛造砲を作りました。
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣の際には、急遽1000挺(丁)の火縄銃を製造するように命ぜられますが、これにも応えた理右衛門は家康から高須の地を授けられます。その後 、芝辻家は自らと堺の鉄砲鍛冶の繁栄を願ってこの地に稲荷明神を勧請し当社を創建しました。
明治の末には周辺のいくつかの神社を合祀したようです。

「高須のお稲荷さん」とも呼ばれる高須神社の御祭神は豊受大神、猿田彦命、大宮姫命、大物主命となっていますが、他に多数の境内社も祀られています。