五六七稲荷大明神
2018年8月訪問(2022年4月更新)
五六七稲荷大明神(いむないなりだいみょうじん)は大阪府富田林市本町にある神社です。富田林駅の南側には、大阪府下唯一の重要伝統的建造物郡保存地区に指定され、江戸時代の風情を今に伝える美しい町並みの寺内町(じないまち)と呼ばれる地域があります。五六七稲荷大明神(富田林市) |
五六七大明神は、近年観光スポットとしても整備されつつある「寺内町エリア」にありますが、その鎮座地は厳密には昔の富田林寺内町の内側ではなかったようです。
歴史と概要
観光スポットというわけではないので由緒記や説明板も見当たらず、五六七稲荷大明神の創建年は不明です。「正一位 五六七大明神」と書かれていることから稲荷神が祀られているのは確かかと思われますが、正確な主祭神はわかりません。また、「五六七」と書いて「いむな」と呼ぶ謂れも不明です。五六七稲荷大明神の鎮座地は、明治の初めまで河内国石川郡毛人谷村(えびたにむら)と呼ばれていました。「郷土史の研究」によると、毛人谷村の郷蔵のそばにあり「御蔵の稲荷」と呼ばれた神社が現在の五六七稲荷大明神と思われます。かつて毛人谷村には三十八神社という三十八神を祀る氏神があったようですが、明治6年(1873年)に一旦廃社となり、與九郎稲荷大明神という稲荷社と共に旧毛人谷村の西方寺境内に鎮座しています。現在、旧毛人谷村村域の氏神は同じ富田林市の北部にある美具久留御魂神社となっています。
毛人谷村は明治22年(1889年)に富田林村と合併して改めて富田林村が発足。明治29年(1896年)4月1日に新たに誕生した南河内郡の所属となり、同年8月1日には南河内郡富田林村が町制施行して富田林町となります。この頃の「御蔵の稲荷」鎮座地は南河内郡富田林町大字毛人谷425番地となっています。
昭和17年(1942年)に富田林町は、新堂村、喜志村、大伴村、川西村、錦郡村、彼方村と合併し改めて富田林町となります。その後、昭和25年(1950年)に市制施行して富田林市となり、昭和32年(1957年)に東条村を編入して現在の富田林市となりました。
境内
かつての寺内町の北西に位置し、国登録有形文化財である旧田中家住宅前の通りを少し東に行くと北側に鎮座しています。右手に手水鉢がある参道 |
社殿、参道は南向きで、最も南の道路に面した側に石造りの鳥居があり、そこから奥に向かっていくつかの赤い鳥居があります。
参道奥の社殿 |
民家の間の参道を十数m行くと朱色に塗られた社殿がありますが、その右手も住宅の門になっています。
「五六七大明神」や「毛人谷」と書かれた燈篭 |
社殿には狐や赤い鳥居といった「お稲荷さん」と一目でわかるものが色々とあります。ちなみに、提灯や鳥居に書かれている「毛人谷」はこの辺りの旧村名に見られる地名で「えびたに」と読みます。
稲荷神社である五六七大明神では現在も旧暦2月の最初の午の日には初午祭が執り行われているそうです。
創立百年記念碑と役行者像 |
前の道路からは見えませんが、参道を進むと社殿の手前右側に修験道(しゅげんどう)の開祖、役行者(えんのぎょうじゃ)像と、「創立百年記念碑」と「毛榮組(けいえいくみ)」と彫られた石碑があります。
毛榮組と彫られた役行者像 |
役行者像と石碑のどちらにも刻まれている「毛榮組」とは毛人谷村で大峰山に参詣する人々の集まり、いわゆる大峰講のようです。
愛宕山夜燈 |
また、石の鳥居の手前右側には「愛宕山夜燈」と彫られた燈篭がありますが、これは京都にある火伏せ・防火に霊験のある神社として知られる愛宕神社の神にあやかったもので、こちらも神仏習合において修験道の道場として信仰を集めていました。
普通の民家と民家の間の路地の奥に鎮座している小さなお社といった印象の当社ですが、今も周囲の住民の方々から大切に祀られているようです。
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