西方寺
2022年3月訪問
西方寺(さいほうじ)は大阪府富田林市富田林町にある寺院です。宗派は浄土宗で山号は天正山。富田林駅の南側に広がる寺内町(じないまち)は、大阪府下唯一の重要伝統的建造物郡保存地区に指定され歴史ある美しい街並みが残されていることで有名ですが、当寺はそのすぐ南西にあります。
西方寺(富田林市) |
浄土宗は京都市東山区林下町にある知恩院(鎮西派)を総本山とする宗派で、富田林の西方寺もその末寺のようです。浄土宗は徳川将軍家とのつながりが深く、西方寺所在地や隣接する寺内町が江戸時代を通じて江戸幕府の直轄地(天領)である期間が長かったことから、西方寺と徳川家の関係が窺われます。
歴史と概要
西方寺の正確な開山年は不祥ですが、かつての本堂は大坂城築城の際に余った材木を使って建てられたとの言い伝えがあるそうです。
本尊は本堂に安置された阿弥陀如来坐像ですが、この仏像は天和3年(1683年)に尾州名古屋の伊藤治郎左衛門という人物から寄進されたもので、像高は143cmあり、寄木造の堂々とした姿は藤原時代の様式で、鎌倉時代末期に造られたものと推定されています。
三つ葉葵の紋 |
富田林市のホームページに紹介されている寺伝によると、以前の本堂は前述のように大坂城築城で残った材木を使用して建てられたとされ、正面向拝(こうはい・ごはい)を支える柱の特徴や腰高障子を使用している点などから、建築年代は江戸時代初期を下らないものとみられ、浄土宗の在郷寺院建築としては大阪府下で最古の一つに数えられていました。江戸時代には、西方寺が河内国の浄土宗寺院の中で代表的な寺院であったこと、浄土宗が将軍徳川家に結びついていたことなど考え合わせると、この言い伝えにはかなり信憑性があると考えられているそうです。なお、境内南東にある鉄筋コンクリート造の堂宇には三つ葉葵の紋があしらわれています。
また元禄9年(1696年)6月8日に、当時の住職である宣譽玄澄が知恩院役者に差出した寺伝によると、堂宇は天正15年(1587年)に寂蓮社光譽長山(光譽上人長山和尚)によって再建されたとあるようで、山号はこの時の元号に由来するとも。ちなみに、院号は神宮院とする資料がありました。
西方寺の所在地は、明治の初めまで河内国石川郡毛人谷村(えびたにむら)と呼ばれていました。
当地には與九郎(よくろう。与九郎・餘九郎・余九郎とも)狐の伝説があり、昔から碁の好きな住職のところへ毎晩、碁の相手に通っていた與九郎狐を祀った稲荷社が境内にあることから北側の寺号標の側面には「鎮守與九郎稲荷大明神」と彫られています。
また、「郷土史の研究」によると、境内には三十八神社という三十八神を祀る毛人谷村の氏神がありましたが明治6年(1873年)に廃社となったようです。三十八神社はその後信仰者により保存され、氏神からこちらに神輿の渡御もあったそうですが現在は不明です(現在旧毛人谷村に当たる地域の氏神は同じ富田林市市内にある美具久留御魂神社となっています)。ちなみに、毛人谷村には「御蔵の稲荷」もあったようですが、これは現在の五六七稲荷大明神と思われます。
なお、毛人谷村は明治22年(1889年)に富田林村と合併して改めて富田林村が発足。明治29年(1896年)4月1日に新たに誕生した南河内郡の所属となり、同年8月1日には南河内郡富田林村が町制施行して富田林町となります。この頃の西方寺所在地は南河内郡富田林町大字毛人谷字谷川堂の坂となっています。
昭和17年(1942年)に富田林町は、新堂村、喜志村、大伴村、川西村、錦郡村、彼方村と合併し改めて富田林町となります。その後、昭和25年(1950年)に市制施行して富田林市となり、昭和32年(1957年)に東条村を編入して現在の富田林市となりました。
前出の資料によると、寺宝として慧信(平安時代後期の僧)の筆と伝わる阿弥陀三尊の書幅(文字を書いた掛け物)、聖徳太子作と伝わる阿弥陀仏像が所蔵されていたようです。
遠くからでも目立つ境内のいちょうの大木は富田林市の保存指定樹木となっています。
周辺と境内
西方寺は富田林寺内町の中でも有名な旧杉山家住宅の100mほど西にありますが、寺内町には含まれていません。
今回は富田林西口駅や市役所方面から西方寺に向かいます。
寺院の北西より |
駅や市役所方面から向かうと西方寺の北西角に至ります。
南西の東高野街道より |
一旦南の谷川町、府立富田林高校方面に向かい、東高野街道に出て左折し北東方面に向かうと正面に鉄筋コンクリート造りのお堂が見えます。
南東の堂宇 |
東高野街道を北東から東方向に進むと西方寺の南東角となります。外から見ると、境内の南東角に建つこちらのお堂をはじめ、周囲の塀もかなり近代的な造りの寺院という印象です。
東側の門 |
東側にあるのが山門と思われます。この門から入ると正面に本堂が見えますが通常は閉じられているようです。この少し右手に通用門があり、墓参の場合などはこちらを利用する人が多いようです。
北門 |
山門や通用門のある通りを北に進むと丁字路となり、右に進むと旧杉山家住宅、左に曲がると西方寺の北門があります。
北門から見た境内 |
北門から境内に入ると古い石灯篭などもある参道のようになっています。
北向子安地蔵尊・北向願掛地蔵尊 |
南に向かって進むと正面の突き当たりに北向子安地蔵尊・北向願掛地蔵尊があります。ここで左(東)を向くと山門方面、右(西)を向くと本堂などが見えます。
本堂前の風景 |
地蔵尊前から右手に向かうと正面に本堂が見えます。
鐘楼 |
本堂前に向かうには短い石段を上りますが、上ってすぐ左手には鐘楼があります。
本堂 |
前述のように、かつての本堂は大坂城築城の頃に建てられたものでしたが、現在は比較的新しい印象の美しい本堂が東向きに建っています。
境内南側の様子 |
本堂前に向かって左、つまり南側を向くと、様々な石造物や赤い鳥居などが見えるので、鳥居に向かって進みます。
境内南部から東を望む |
途中、左手(東側)には先ほどの鐘楼や墓地などが見えます。
境内南部から西を望む |
反対に右手(西側)を見ると様々な石像物が並んでいますが、その先は一段高くなっており門柱に「護国之英霊」、「富田林霊場」とあることから戦没者墓地とわかります。なお、手前の石像物には五重石塔や大峰講の記念碑などがありました。
赤い鳥居 |
そして、正面である南側には鉄製と思われる赤い(朱色)鳥居が縦に3基並んでいるのがわかります。
稲荷神の使いである狐 |
鉄製の鳥居をくぐると参道は右に折れますが、すぐに奥行きのある覆屋があり、その奥に本殿が見えます。
覆屋の神額には「正一位 稲荷大明神」とあり、参道脇には石造りの狐が大小一対ずつ置かれています。
與九郎稲荷大明神 |
こちらは寺号標にもあった鎮守の與九郎稲荷大明神と思われます。
地元に伝わる悲しい民話に登場する與九郎狐を祀る神社ということで稲荷社となったのかもしれません。
「御鬮」 |
覆屋内の右手には「御鬮」と彫られた大きな木の板が掲げられていますが、よく見ると「一番大吉」、「二番半吉」などとあることから、こちらは古い(江戸時代頃?)の御神籤の内容を記したものと思われます。かなり興味深いものなのでしっかり保存して説明板などを設置していただけると有難いです。隣の札によると、御神籤は寺に申し込んでくださいとのことです。
與九郎稲荷右手の小祠 |
與九郎稲荷の右手(北)に詳細不明の小祠がありますが、こちらは毛人谷村の氏神であった三十八神社が明治時代に廃社となった後に保存された名残でしょうか。なお、郷土史によるとかつては三十八神社の北隣に與九郎稲荷があったと記されています。
富田林寺内町や周辺の神社仏閣としては、興正寺別院、妙慶寺、浄谷寺、富栄戎神社、五六七稲荷大明神などがあります。
アクセス
近鉄長野線「富田林西口」駅の東、国道170号(旧道)「西口駅前」交差点から南(市役所方面)に約70m進み左折します。さらに240mほど先を右折し約80m進むと左前方に西方寺があるので、交差点を左(東)に曲がると70mほどで北門前に到着します。
駐車場は寺院東側の通用門を入ったところに数台分あるようです。
コメント
コメントを投稿