烏帽子形八幡神社(河内長野市) ・高野街道と集落を見守るかつての烏帽子形城鎮守

烏帽子形八幡神社

2022年1月訪問
烏帽子形八幡神社(えぼしがたはちまんじんじゃ)は大阪府河内長野市喜多町にある神社です。その鎮座地は河内長野市の中心地ともいえる河内長野駅から1kmほどの距離にある烏帽子形山の東麓ですが、烏帽子形山には城跡や古墳があり、周辺はありのまま自然が残された烏帽子形公園となっています。

烏帽子形八幡神社(河内長野市)
烏帽子形八幡神社(河内長野市)

烏帽子形八幡神社のある烏帽子形山は大楠公こと楠木正成が烏帽子形城を築いた他、かつて高野山への参詣道として賑わった高野街道が山の東縁を通るなど歴史的に重要な位置にあったと考えられます。


歴史と概要

烏帽子形八幡神社の正確な創建年は不祥ですが、本殿は室町時代の文明12年(1480年)に建立されたことがわかっています(後述)。現在の御祭神は素盞鳴命と足仲彦命、神功皇后、応神天皇が祀られています。八幡神社ということで、八幡神である第15代応神天皇とその両親である足仲彦命(第14代仲哀天皇)、神功皇后が一緒に祀られることはよくありますが、どの資料も最初に素盞鳴命が記されています。社名については江戸時代頃には烏帽子形八幡宮や上田八幡宮とも呼ばれていたようです(現在の上田には金刀比羅神社が残されています)。


烏帽子形八幡神社が鎮座する烏帽子形山には、第96代後醍醐天皇の呼び掛けに応じて挙兵した楠木正成が鎌倉幕府軍を迎え撃つため、現在の南河内郡千早赤阪村から富田林市、河内長野市にかけて築城した城砦群、いわゆる「楠木七城(河内七城)」の一つとされる烏帽子形城がありました。この城は元弘2年(北朝の正慶元年。1332年)に楠木正成が上赤坂城の支城として築城したとの伝承があり、楠木小二郎がここに入ると城の鎮護として社を創祀したのが烏帽子形八幡神社の始まりとされています。

当社には神宮寺である天台宗の高福寺(徳壽院高福寺。御本尊は釈迦如来と聖観音)が創建されるなどしましたがやがて荒廃しました。第97代(南朝第2代))後村上天皇は吉野へ賊難を避ける際に、高福寺の梵鐘を移し、鐘は今も奈良県五條市(旧吉野郡西吉野村)賀名生(あのう)の堀家にあるとされますが、その梵鐘には「河内國高福寺鐘康永元年八月楠氏奉獻」と由来が刻まれているとの伝承もあるそうです。ちなみに、賀名生は丹生川の下流沿いにあり南北朝時代には南朝(吉野朝廷)の首都となった地域の一つです。


室町時代の文明12年、河内源氏の末裔とされる石川八郎左衛門尉が新たに入母屋造りの社殿を建立したことが、昭和40年(1965年)の解体修理の際に発見された棟札・棟束から判明しました。しかし、その後は室町時代の末に一度修理されたのみでまたも荒廃したようです。

戦国時代には織田信長配下のキリシタン武将である伊智地文太夫(パウロ)らが一時、烏帽子形城の城代となったことで城下には聖堂が建てられ、元畠山家家臣で楠木氏の後裔といわれる甲斐庄正治(かいのしょうまさはる)もキリスト教に改宗し、当地は河内のキリスト教信仰の拠点となっていたようです。また、宣教師のフロイスや巡察師ヴァリニャーノがこの地を訪れた記録があり、烏帽子形城の名はイエズス会の日本年報を通じて海外にも知られていたそうです。

烏帽子形八幡神社(河内長野市)
高野街道沿いの説明板

元禄5年(1692年)の「河州烏帽子形八幡宮覚書」によると、江戸時代初期の元和3年(1617年)、甲斐庄の子の正房(正保とする資料も)は大阪四天王寺の塔の普請奉行を勤めますが、その竣工後に自身の居城である烏帽子形城の鎮守が荒廃しているのを嘆き、四天王寺の塔普請の余材で修繕し、元和8年(1622年)8月に上棟されました。

甲斐庄正房はこの辺りを治めていた旗本です。父正治と共に徳川家康に仕え、河内国の地理に詳しいことから慶長19年(1614年)と翌年の大坂の陣両陣に従軍して活躍し、甲斐庄氏の出自の地である河内国錦部郡に2000石の領地と半ば放棄されていた烏帽子形城を賜りました。しかし、大規模なこの城の維持は困難で、元和3年に廃城処分にしたとされています。

維新後の明治元年(1868年)、神仏分離により神宮寺は廃寺となる一方、烏帽子形八幡神社は明治5年(1872年)に近代社格制度で村社に列格。明治40年(1907年)10月19日に当時の南河内郡三日市村大字小鹽(小塩)字宮山の村社八幡神社(御祭神:応神天皇)を合祀し、翌41年12月に神饌幣帛料供進神社に指定されました。

当社の本殿は、昭和15年(1940年)古文書「河州烏帽子形八幡宮伝記覚」を添付して国宝申請され、5月14日に国宝(現行法の重要文化財に相当)の指定を受けました。その後、文化財保護法が施行されると昭和25年(1950年)8月29日に国の重要文化財に指定されました。昭和41年(1966年)には本殿の解体修理が行われ、建立当時の姿に復元されました。

烏帽子形八幡神社(河内長野市)
本殿右手の説明板

烏帽子形八幡神社の現在の氏子地区は上田、喜多、小塩、楠ヶ丘、大師町の5地区となっています。なお、小塩町の自治会館付近には旧村社である八幡神社、あるいはかつてあった小塩阿弥陀寺のものと思われる石造物などが残されています。

また、現在境内社として白山社、平野社(比良野社)、烏帽子形稲荷社、恵比須社の名がありますが、大正時代に刊行された大阪府全志などによると、末社として高良神社、白山神社、平野神社、稲荷神社があったと記されています。


烏帽子形八幡神社は現在神職不在神社のようで、社頭窓口業務は基本的に毎月1日と日曜日の9:00~12:00の間のみ行なわれているようです。また、大阪府神社庁のホームページによると問い合わせ先は当社から1kmほど北の河内長野市西代町にある西代神社となっています。

烏帽子形八幡神社(河内長野市)
国史跡烏帽子形城跡の案内板

祭礼

毎年10月の秋祭りでは喜多、上田、小塩の各地区から地車(だんじり)が出て宮入するようです。また、12月には境内にて、湯立ての神事が執り行われます。

●烏帽子形八幡神社 Facebook →こちら


地名について

烏帽子形八幡神社の鎮座地周辺は明治の初めまで河内国錦部郡喜多村と呼ばれていました。江戸時代の享保年間(1716年~1736年)に編纂された五畿内志の一つ「河内志」には喜多村の名は無く「烏帽子形城は北村の上にあり」と記され、享和元年(1801年)の「河内名所圖會(図会)」には「烏帽子形城は上田北村の上方にあり」とあることから、喜多村は上田村から独立した北村が字を改めたものという説があるようです。なお、江戸時代後期の国絵図などには喜多村が登場しています。

明治22年(1889年)の町村制施行により喜多村は三日市村、片添村、上田村、小塩村(小鹽村)と合併して改めて三日市村が発足。明治29年(1896年)に所属郡が南河内郡に変更となります。昭和29年(1954年)に三日市村は長野町、高向村、天見村、加賀田村、川上村と合併し、河内長野市が誕生しました。

なお、標高182mの烏帽子形山は文字通りその山容が烏帽子に似ていたことから付けられた名前のようです。


参道と境内

烏帽子形八幡神社の鳥居は高野街道沿いにあり、通常はこちらから参拝される方が多いと思われますが、鳥居からは東に真っ直ぐの道路が300mほど延びています。

烏帽子形八幡神社(河内長野市)
南海線付近から参道の先の鳥居を望む

この直線の“参道”は国道371号を越えてさらに東の南海高野線の手前まで続いています。その起点となるのが線路の西側を平行して南北に延びる道ですが、これは国道371号が出来るまでの高野街道のバイパスのような道路だったと思われます。烏帽子形山の麓を通る旧道が坂の多い曲がりくねった道だったのに対し、こちらは長野から三日市の間をかなり直線的に結んでいます。

烏帽子形八幡神社(河内長野市)
高野街道沿いに建つ鳥居

南海高野線西側の道路から西に向かって“参道”を進むと、河内長野郵便局の横を通って国道371号を渡ります。さらに進むと正面に石造りの一の鳥居や灯篭、石垣などが見えてきます。

烏帽子形八幡神社(河内長野市)
長く真っ直ぐな石段

ここまでの“参道”に続いて石段も直線となっています。

高野街道からの参道(石段)入口付近には注連柱?、鳥居、狛犬、灯篭などの石造物が多数配置されていますが歴史のありそうなものが多いようで、古い社号標には「烏帽子形神社」とあります。

また、当社では石段ごとに左右の袖石に奉納された年月などが刻まれているようです。

烏帽子形八幡神社(河内長野市)
「黒谷翁之碑」

高野街道沿いに建つ鳥居の周辺には様々な石碑もあります。その中の一つが「黒谷翁之碑」です。黒谷翁は幕末から明治にかけての人物で、中津藩士の剣士から烏帽子形祠官(社掌)となって当時の三日市村で暮らし、村人に尊敬されていたそうです。

烏帽子形八幡神社(河内長野市)
右は古墳への道

短い石段を上って鳥居をくぐると右手に分かれ道がありますが、こちらを進むと烏帽子形恵比須社の裏、トイレ横を通って烏帽子形古墳へと至ります。

烏帽子形八幡神社(河内長野市)
烏帽子形恵比須社

分岐からさらに石段を上ると、右側に烏帽子形恵比須社が鎮座しています。

烏帽子形八幡神社(河内長野市)
烏帽子形恵比須社の社殿

烏帽子形恵比須社では他の神社で見られる「十日戎」よりも早く、1月6日、7日頃に「えべっさん」が執り行われていたようです。

烏帽子形八幡神社(河内長野市)
恵比須社向かいの建物

恵比須社の向かい、参道左側の建物はえべっさんの時などに使われるようです。

烏帽子形八幡神社(河内長野市)
石段の先の拝殿

恵比須社から先の石段は最も長く、その先に割り拝殿が見えます。

烏帽子形八幡神社(河内長野市)
拝殿内から見た本殿

石段を上りきると割り拝殿の内部となっていて、正面に賽銭箱があり、さらにその先に二の鳥居や本殿が見えているのでここで参拝します。

烏帽子形八幡神社(河内長野市)
拝殿から見た石段と参道

拝殿で振り返ると、長い石段とその先に延びる道が一直線になっていることがわかります。

烏帽子形八幡神社(河内長野市)
二の鳥居と本殿

拝殿から先に進むと、本殿に近づけます。

烏帽子形八幡神社(河内長野市)
右(北)側の境内

ここで右を向くと、社務所などが見えます。

烏帽子形八幡神社(河内長野市)
左(南)側の境内

反対の左(南)側には境内社や南側の鳥居から続く参道が見え、境内が南北に細長い印象を受けます。

烏帽子形八幡神社(河内長野市)
南側の鳥居

なお、南側の参道入口は本殿から150mほど南にあり、鳥居と看板が設置されています。この南側の鳥居前の道路を200mほど西に行くと烏帽子形公園の駐車場があります。

烏帽子形八幡神社(河内長野市)
国指定重要文化財である本殿の説明

本殿手前左側に「国指定重要文化財 烏帽子形八幡神社本殿」の立札があります。

烏帽子形八幡神社(河内長野市)
手水鉢

さらに立札の左側に手水鉢があります。

烏帽子形八幡神社(河内長野市)
石段と神門

本殿の周囲には透塀や神門が設けられており、さらに一段高い場所にあるため、神門前に短い石段があります。

烏帽子形八幡神社(河内長野市)
重要文化財の本殿

国指定重要文化財に指定されている本殿は白い壁と朱色の柱が美しい桁行(けたゆき)三間、梁間(はりま)二間の入母屋造で、屋根は檜皮葺となっています。また、正面中央に擬宝珠(ぎぼし)を付けた五段の階段があります。

本殿の右隣にも小社があるのが見えます(白山社?)。また、本殿横には南朝皇子とされる忠尊王が戦勝祈願に参拝した際に腰を掛けたと伝わる御座石がある他、皇子の奉納した「八幡宮」の額も当社にあったとも伝えられています。

烏帽子形八幡神社(河内長野市)
祓戸大神の碑

本殿手前右側には灯篭や木々に隠れるように「祓戸大神」と彫られた石標があります。祓戸大神(はらえどのおおかみ)とは、罪や穢れ、災い(天津罪・国津罪)などを除き払う「祓」を司どる神のことで、延喜式には瀬織津比売神(せおりつひめ)、速開都比売神(はやあきつひめ)、気吹戸主神(いぶきどぬし)、速佐須良比売神(はやさすらひめ)の祓戸四神が記されています。

烏帽子形八幡神社(河内長野市)
拝殿の北側

割り拝殿から本殿前へ進み右(北)側を見ると、拝殿が長く延びていることがわかります。

烏帽子形八幡神社(河内長野市)
烏帽子形八幡神社のお札と御守り

こちらは正月など参拝者の多い時期に開けられ、お札や御守りの授与がなされると思われます。また、餅まきはこの前で行なわれるようです。

烏帽子形八幡神社(河内長野市)
本殿左手の石垣上への石段

次に、本殿に向かって左(南)側に進むと、本殿と同じく一段高い石垣の上にいくつかの建物が見えます。

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比良野社

烏帽子形八幡神社本殿の左隣に鎮座するのが一間社流造の比良野社(平野社)です。

烏帽子形八幡神社(河内長野市)
「放生池(通称亀池)の由来」

比良野社には「放生池(通称亀池)の由来」の説明板があります。それによると、平安時代の延久年間(1069年~1074年)の頃、この辺りに当地の産土神である比良明神の社が鎮座し、その横には放生池という池があったそうです。ここで飼っていた魚を京都府八幡市八幡高坊にある石清水八幡宮の川に放ちに行ったという故事が現在の石清水八幡宮の放生会神事(勅祭 石清水祭)の元となったのではないかと推測されている、とあります。

また、この池は明治の初めまで「石清水井」と呼ばれており、かつては旅の安全を祈願した他、戦時中は出征兵士の武運を祈ってこの池に魚や亀が放流されていた、とのことです。

ちなみに、河内名所図会では本殿と左の小社の間に池が描かれています。

烏帽子形八幡神社(河内長野市)
左側から見た本殿

なお、比良野社付近からは本殿がよく見えます。

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烏帽子形稲荷社

比良野社付近の左に少し大きめの蔵のような建物がありますが、さらにその左側に朱色の鳥居が並んでいます。

烏帽子形八幡神社(河内長野市)
稲荷社の社殿

こちらが烏帽子形稲荷社で、御神灯(提灯)には稲荷神である宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)の名があります。

烏帽子形八幡神社(河内長野市)
古い百度石と平たい石

烏帽子形稲荷社の向かい、石段の下には古い百度石があります(割り拝殿内の石段を上った所にまだ新しい百度石もあります)。

烏帽子形八幡神社(河内長野市)
「楠公武威の松」跡

比良野社の向かい付近(拝殿の南側)には、かつて楠木正成が湊川の戦いに出陣の折に武運を祈願して植えたとされる松の巨木「楠公武威の松」がありましたが、昭和9年(1934年)9月の室戸台風で倒れ、樹齢約600年の命を全うしたそうです。

烏帽子形八幡神社(河内長野市)
展示された武威の松の一部

現在は「楠公武威の松」の石碑が建てられ、その後ろのガラス張りの建物に輪切りにされた松の幹が納められています(センサーライト付き)。


烏帽子形古墳

烏帽子形山には、烏帽子形八幡神社の北方に烏帽子形古墳という古墳時代後期(6世紀代)に築造されたと考えられる直径約16m、高さ約3mの円墳があります。

烏帽子形八幡神社(河内長野市)
烏帽子形古墳

こちらでは過去の調査で自然石で構成された横穴式石室の存在が確認されており、現在その周辺は公園として整備され展望台も設けられています。

史跡 烏帽子形城跡

かつて烏帽子形山には楠木正成によって築かれたとされる烏帽子形城があり、その鎮守として祀られたのが烏帽子形八幡神社の始まりとされています。

烏帽子形八幡神社(河内長野市)
烏帽子形城跡

別名「押子形城」とも呼ばれた烏帽子形城は西を石川沿いの急峻な崖に守られ、東に高野街道、南に和泉路を見下ろす要衝の地にありました。堀切や曲輪の跡がよくわかる城跡は現在国の史跡に指定されている他、日本遺産「中世に出逢えるまち 〜千年にわたり護られてきた中世文化遺産の宝庫〜」の構成文化財の一つとなっています。また、城跡、神社、古墳を含めた山のほぼ全域が烏帽子形公園となっています。

●烏帽子形城について詳しくは →https://kininarugou.blogspot.com/2022/05/eboshigatacastleruins.html


アクセス

公共交通機関を利用する場合、南海高野線・近鉄長野線「河内長野」駅、あるいは南海高野線「三日市町」駅で下車し、いずれも駅の西側を通る高野街道を徒歩で約1km(15分)ほどの距離にあります。

以下に「河内長野」駅からの道順を簡単に説明します。

「河内長野」駅前ロータリーの出入口の交差点(ノバティながの南館の河内長野観光案内所前)から南西方向に進み高野街道に入ります。以後烏帽子形八幡神社まで「高野街道」の標識や看板が要所要所に設置されています。

烏帽子形八幡神社(河内長野市)
舊西條橋

高野街道は長野神社手前の「吉年邸のくすのき」前付近から斜め右に坂を下り、140mほど進んで右折し「天野酒」でお馴染みの西條合資会社前を通過。約60m先を左折して石川に架かる「舊西條橋(旧西條橋)」を渡り坂を上ります。

烏帽子形八幡神社(河内長野市)
国道と斜めに交わる高野街道

程なく国道371号に出ますが、高野街道の旧道とは斜めに交わっているので横断歩道を渡り「本現寺」の看板の矢印方向に進みます。この交差点近くの標識にあるように、橋を渡ってから続くこの坂道は「別久坂(びっくざか)」と呼ばれる高野街道の難所の一つだったようです。別久坂を上り切った辺りで右に本現寺、左に大日寺という交差点がありますがそのまま直進すると400mほど先に烏帽子形八幡神社の鳥居と石段が右手に現れます。

烏帽子形八幡神社(河内長野市)
石段下・街道沿いの駐車場

車の場合は、「河内長野」駅西側にある、国道170号(旧道)、国道310号などが交わる「本町(七つ辻)」交差点から南(南西)の国道371号に入ります。そのまま国道371号を約900m南下すると左手に河内長野郵便局が見えてくるので、その前にある押ボタン式信号の交差点を右折して西に入ります。200mほど進むと正面に烏帽子形八幡神社の鳥居や石段が見えてくるので、鳥居前の高野街道を左折するとすぐに参拝者用の駐車場兼休憩所があります。

駐車料金は無料ですが駐車可能台数は4台ほどとなっています。なお、ここが使用できない場合は烏帽子形山南側の公園駐車場などを利用すと良いかもしれません(南側にも鳥居と参道があります)。

Eboshigata-hachiman Shrine(Kawachinagano CIty,Osaka Prefecture)


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