旧錦部郡上田村
2022年1月訪問
大阪府河内長野市の上田町と楠ケ丘(くすがおか)は河内長野市の中部に位置し、かつては河内国錦部郡(にしきべのこおり・にしごりぐん)上田村と呼ばれていました。河内長野市発足以前は南河内郡三日市村の一部だったことから周辺は現在も三日市地域とも呼ばれています。
旧上田村(河内長野市) |
上田村には、京や大坂から高野山へ至る参詣道として用いられた高野街道が通っており、東隣の三日市村と共に高野参詣の宿場町として栄えてきた歴史があります。
上田村は慶長17年(1612年)より甲斐庄喜右衛門正房の采地(領地)となり、江戸時代を通じて甲斐庄氏が領主として世襲していました。甲斐庄正房はこの辺りを治めていた旗本で、父の正治と共に徳川家康に仕えていましたが、甲斐庄氏は楠木正成で知られる楠木氏の後裔とされ河内国の地理に詳しいことから慶長19年(1614年)と翌年の大坂の陣に従軍して活躍しました。その結果、甲斐庄氏の出自の地とされる河内国錦部郡に2000石の領地と半ば放棄されていた烏帽子形城を賜りました。しかし、烏帽子形城の維持は困難で、元和3年(1617年)に廃城処分にしたとされています。
高札場跡近くにある歴史案内 |
現地説明板などによると、江戸時代、徳川幕府は上田村と三日市村に宿継御用「三日市宿」の形成を命じ、堺及び紀伊見峠(紀見峠)の宿場伝馬人足の役務を行っていたそうです(三日市宿の内、三分の二を三日市村、三分の一を上田村が分担)。最盛期の三日市宿には2村合計で30軒の旅籠があって賑わい、馬25匹、人足25人を常備し宿駅継立も行っていました。
また、三日市村には江戸時代に開業したとされる油屋旅館があって錦渓温泉(三日市温泉)として知られており、明治以降は郡役所所在地の富田林町(現在の富田林市)を凌駕するほどの賑わいだったともいわれていますが、高野登山鉄道(現在の南海電気鉄道)が高野山方面まで延伸され、三日市駅が通過駅となると徐々に観光業は衰退していったそうです。
歴史案内の左側 |
明治22年(1889年)の町村制施行により上田村は三日市村、片添村、喜多村、小塩村(小鹽村)と合併して改めて三日市村が発足。明治29年(1896年)に所属郡が南河内郡に変更となります。昭和29年(1954年)に三日市村は長野町、高向村、天見村、加賀田村、川上村と合併し、河内長野市が誕生しました。ちなみに、喜多村は上田北村の「北村」を「喜多村」に改めたとも考えられているそうです。
第二次大戦後は、この周辺で大阪市のベッドタウンともいえるニュータウン開発や道路整備も行われ人口が急増した一方、高野街道沿線を中心に点在する様々な歴史的価値のある建造物などの保存活動も行われています。
なお、現在の南河内エリアに当地の旧錦部郡上田村の他に、旧丹北郡にも上田村(現松原市上田)がありました。
上田金刀比羅宮
国道371号「上田町北」から直線距離で150mほど南西の高野街道がほぼ直角に折れる辺りに、上田金刀比羅宮、増福寺、上田駅高札場跡があり、増福寺前の公園に「上田町文化財・社寺等の歴史案内」と題した案内板が設置されています。
上田金刀比羅宮 |
まず、高野街道の曲がり角の内側(北東側)にある公園の東側に鎮座しているのが上田金刀比羅宮です。ちなみに、高野街道は4つのルートが知られていますが、これらは1km少々北の長野神社周辺で一つになった後、南の当地を通過します。
金刀比羅宮といえば、讃岐国(現香川県)の「金比羅さん(こんぴらさん)」と呼ばれる金刀比羅宮(香川県仲多度郡琴平町)が有名ですが、「ことひら(琴平、事比羅、金比羅など)」と名の付く神社は全国に600社ほどあるとされています。これら「ことひら」神社の主祭神は大物主神であることから、こちら上田の金刀比羅宮も御祭神は大物主神と思われます。
前出の案内板によると、江戸時代、上田村及びその近隣には竹林が多く、石川を利用して竹で竹筏を組んで大坂や堺に運ぶ竹商が盛んでした。竹は当時の建築などの必需品で、大坂や堺で使用する竹材の多くは河内石川流域より川を使って運び出されたものだったようです。その竹商を中心に竹筏の河川安全運行のために船舶安全・水運の神である「こんぴらさん」を信仰する金刀比羅講がこの地にも組織されました。
かつての村々には「講(こう)」と呼ばれる集団が多数組織され、旅に出るのも大変な時代に、構成員から集めた積立金を旅費に充てて数人を代参者として聖地に順次派遣するなどしていました。海の無い南河内でも、同じ河内長野市の小山田金刀比羅宮や羽曳野市の金刀比羅大神宮など講によって勧請されたこんぴらさんが多数あるようです(富田林市嬉の金刀比羅神社は他の理由)。
江戸時代には泉州のさらに南、紀伊国の加太(現和歌山県和歌山市加太)から阿波国の撫養(むや。現徳島県鳴門市撫養町)に船で渡るルートが出来たこともあって講でのこんぴら参りが盛んになったようです(三日市宿の旅客減少にも影響)。
上田金刀比羅宮は高野街道から少し高い石垣の上にあります。まだ新しい感じの玉垣で囲われた境内は東西5~6m、南北10mほどの広さです。
烏帽子形八幡神社などと同じく、当社でも石段左右の袖石に奉納された年月などが刻まれています。
出入口は南側の高野街道に面しており、社殿や参道も(ほぼ)南向きとなっています。鳥居は木製の神明鳥居のようです。
神額には「金刀比羅大権現」とあります。
正面から見た金刀比羅宮 |
上田金刀比羅宮は高野街道から少し高い石垣の上にあります。まだ新しい感じの玉垣で囲われた境内は東西5~6m、南北10mほどの広さです。
石段 |
烏帽子形八幡神社などと同じく、当社でも石段左右の袖石に奉納された年月などが刻まれています。
鳥居と参道 |
出入口は南側の高野街道に面しており、社殿や参道も(ほぼ)南向きとなっています。鳥居は木製の神明鳥居のようです。
社殿の扉 |
神額には「金刀比羅大権現」とあります。
上田の金刀比羅宮は、江戸時代の中期に金刀比羅講が讃岐よりお札を持ち帰り、増福寺境内にて祀ったのが始まりと伝えられています。
現在の社殿はもともと700mほど南にあった旧小塩村(現河内長野市小塩町)の村社のもので、小塩村の村社八幡神社が明治40年(1907年)に烏帽子形八幡神社に合祀された後、大正6年(1917年)に譲り受けたのものだそうです。これは、明治時代には上田金刀比羅宮の祠が大破していたためで、現在も綺麗に管理されているようです。
当社の石造物としては鳥居の右手に手水鉢があります。
増福寺は応永年間(1394年~1428年)創建ともいわれる元真言宗の寺院で山号は野耀山(やようざん)。明治5年(1872年)に廃寺となっています。
案内板などによると、畠山氏は平安時代末期、武蔵国秩父郡畠山荘の荘司となって平氏に従いました。室町時代の戦乱期になると畠山義深(はたけやまよしふか)が河内一円の守護職に就任し河内畠山氏の祖となりました。元弘元年(1331年)生まれの義深は40歳代で息子である基国に河内守護職を譲り、自身はここ上田の小字名七寶庵(七宝庵)に庵を結び隠居。地域村民のために貢献しましたが康暦元年(1379年)10月12日(案内板では康暦元年(1380年)1月12日)に49歳の若さで亡くなりました。
手水鉢 |
当社の石造物としては鳥居の右手に手水鉢があります。
皇紀二千六百年記念碑 |
また、社殿手前の左側には「皇紀二千六百年記念碑」が残されています。なお、皇紀2600年は昭和15年(1940年)に当たります。
野耀山増福寺
前述のように、上田金刀比羅宮の左手(西側)の高野街道の曲がり角には公園がありますが、こちらは増福寺の境内の様に見えます。
増福寺前は公園 |
増福寺は応永年間(1394年~1428年)創建ともいわれる元真言宗の寺院で山号は野耀山(やようざん)。明治5年(1872年)に廃寺となっています。
増福寺前の石段 |
案内板などによると、畠山氏は平安時代末期、武蔵国秩父郡畠山荘の荘司となって平氏に従いました。室町時代の戦乱期になると畠山義深(はたけやまよしふか)が河内一円の守護職に就任し河内畠山氏の祖となりました。元弘元年(1331年)生まれの義深は40歳代で息子である基国に河内守護職を譲り、自身はここ上田の小字名七寶庵(七宝庵)に庵を結び隠居。地域村民のために貢献しましたが康暦元年(1379年)10月12日(案内板では康暦元年(1380年)1月12日)に49歳の若さで亡くなりました。
義深の死を悲しんだ上田村の住人は、その追善供養のため逆修講(逆修供養:生前に自分の死後の供養をすること)を取り結びました。義深は尾張守三郎といい、法名(号)を増福寺殿「わまか」と呼ばれていたので法名をそのまま寺号にし、この場所に建立したと伝わります。
本尊は鎌倉時代の作と見られる木造地蔵菩薩半跏像(小野篁作とも)で、脇仏として不動明王座像と愛染明王座像を安置。また、木造十一面観世音立像(平安時代の作で旧法による国の重要美術品)他数体も安置されています。
公園側(南側)から |
本尊は鎌倉時代の作と見られる木造地蔵菩薩半跏像(小野篁作とも)で、脇仏として不動明王座像と愛染明王座像を安置。また、木造十一面観世音立像(平安時代の作で旧法による国の重要美術品)他数体も安置されています。
南向きのお堂 |
明治6年(1873年)には、現在の三日市小学校の前身である第八小学校(後に上田小学校)が当時の増福寺の庫裡を教室に開校し、翌明治7年(1874年)には現河内長野警察署の前身である屯所が境内に設置されました。明治10年(1877年)には古市警察上田分署(後に富田林警察上田分署)と改名され河内長野市全域で初めて「警察」という名が使われ治安維持に当たりました。これらのことから、当地は三日市小学校及び河内長野警察署の発祥地といえます。
現在、公園の北側に建っているお堂は比較的小さなものですが、これは明治27年(1894年)?に近くにあった正法寺(融通念仏宗)の建物を移築したもので、往時の建造物は老朽化のため現存していないそうです。
上田駅高札場跡
江戸時代、この増福寺境内の南に冠木門を設け、西側の築地塀は高野街道三日市宿内の上田駅の往還筋に当たり、人馬取継宿である賃金札およびお定め書を掲示した「御高札場」が設けられていました。また、高野詣の人々のため弘法大師の御加護で道中の安全を祈願する「南無大師遍照金剛」の石塔が建てられていました(現在は庄代池の畔に移設)。
上田駅高札場跡 |
現在、増福寺西側の高野街道に面する形で高札場が再現されています。
再現された高札 |
ここは北の長野村や喜多村方面から高野山に向かう際に通る高野街道の三日市宿の入口で、高野詣の人々の往還筋に当たる他、人馬継立の駅を設けていたので高札場が設けられ、人馬継立の賃金札及び御定書の高札を掲げ、通行人に告知していました。
ここに掲げられていた高札は明治なり撤去され、現在は烏帽子形八幡神社に所蔵されています。
「教育の聖地」雨山の森
上田金刀比羅宮から高野街道を50mほど南東に進むと学校のような建物が見えますが、その前にいくつかの石碑や説明板などがあります。
上田村には「雨山の森」と「金の森」という二つの森があり、こちらは雨山の森の入口に当たるようです。
石碑や案内板 |
まず、最も古そうな石碑の右横の立札には「三日市地区裁縫師匠畠山比左媼(はたけやまひさおうな)の記念碑」とあり、少し離れた左側に「畠山比左媼之碑」、「田中家鋳物工房跡」の看板もあります。
三日市地区裁縫師匠畠山比左媼の記念碑 |
畠山比左は幕末から明治の頃の三日市村上田の里人で、子女を集めて裁縫を教えていました。その性格は温厚で指導は懇切、女性としての教養及び帰徳を養い、遠近から学びに来る者も多かったそうです。
「教育の聖地」の説明板 |
この雨山の森は、奈良時代に行基が日照りに苦しむ村人の為に雨乞いをして救ったとされる地で、感謝した住民はこの森を雨山の森と呼ぶようになったそうです。
鎌倉時代にこの地の一部に真言宗の正法寺という寺院が建立され本尊として観世音菩薩が安置されていました。江戸時代の文化・文政の頃には正法寺で地域初の寺子屋が開塾され読み書き算盤を寺子(生徒)に教えており、幕末には裁縫塾も開かれました。
明治に入り正法寺は廃寺となりますが、近くの増福寺の庫裏を教室に「第八小学校」が開校され、その後「上田小学校」と改称されました。後に上田小学校はこの雨山の森に新築移転し、付属上田裁縫女学校が併設されるなどしました。
このように、雨山の森は江戸時代から続く三日市地区の「教育の聖地」とされています。
もう一つの金の森は上田の東側一帯の川岸で、天平年中にこの地域を開拓している時、土に交じって金が出てきたといわれています。このことから「ここに産土神がおられる」と考えられ「金の森」と呼ばれるようになったと伝えられています。後にこの森に金吹稲荷大明神と福丸稲荷大明神を祀ったそうです。昭和になって現在の稲荷大明神が祀られている場所に二柱が合祀されています。
堂の辻(井之上)地蔵尊
前出の歴史案内には上田村の二つの地蔵尊が紹介されています。
堂の辻(井之上)地蔵尊 |
一つ目は堂の辻地蔵尊で、もともとは増福寺境内の堂の辻(高野街道の往還筋)にありましたが現在は増福寺の100mほど北西にある庄代池の畔に移転され、所在地の小字名から井之上地蔵尊とも呼ばれているそうです。
胸切地蔵尊
胸切地蔵尊(むなぎりじぞうそん)は増福寺から90mほど南西の交差店の角にある地蔵尊です。
胸切地蔵尊 |
胸切地蔵尊は江戸時代初期にこの地で亡くなった堺から紀州橋本に嫁ぐ花嫁を供養するために住民が祀った地蔵尊です。その名から連想されるように、花嫁に起きた悲劇の詳細は前出の歴史案内に記されています。
アクセス
国道371号「上田町北」交差点から西に140mほど進んで左折すると左右に分かれているので右側の道(高野街道の看板あり)に入ります(左は車両進入禁止)。そのまま50mほど進むと左手に高札場跡、増福寺、上田金刀比羅宮があります。
公共交通機関では、南海高野線の「三日市町」駅で下車し、駅の西側を通る高野街道を約650mほど歩くと上田金刀比羅宮、増福寺、上田駅高札場跡周辺に到着します(街道沿いには「高野街道」の案内看板が各所に設置されています)。
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