泥掛け地蔵尊
2021年2月訪問
泥掛け地蔵尊(どろかけじぞうそん)は大阪府南河内郡太子町太子にある地蔵尊です。太子町には、日本に仏教が広まる基礎を築いたとされる聖徳太子の墓所があることで知られる磯長山叡福寺がありますが、泥掛け地蔵尊はそのお膝元にある地蔵尊で、その名の通り泥を掛けて祈願したことで病気が治ったという伝説から地元の人々を中心に信仰されてきました。
泥掛け地蔵尊(南河内郡太子町) |
「泥掛け地蔵」や「泥塗り地蔵」と呼ばれる、石仏に泥をかけて願いを叶えてもらう信仰は当地蔵尊以外にもあるようで、奈良県や岡山県にも残っているそうです。
歴史と概要
泥掛け地蔵尊が建立された正確な時期は不明です。大正時代の「郷土史の研究」には、当時の南河内郡磯長村大字太子西ノ口に「泥掛地蔵堂」があって参詣者が多いこと、また推古天皇の時代に創立されたという伝説があることが記されています。
近鉄長野線の喜志駅から叡福寺に向かう参詣道の途中にある泥掛け地蔵尊ですが、南河内にも多数あるいわゆる「お地蔵さん」よりかなり大きな、一辺5、6m四方の地蔵堂が建てられています。
泥掛け地蔵尊に関して太子町の観光案内等には以下の民話が掲載されています。
むかし、喜志村に幼いこどもと母親が住んでいました。母親は、こどものほほにできた大きな腫物を治してもらおうと、蓮池のお地蔵様に毎日お参りしていました。百日目の満願の日、急に眠気におそわれた母親は、地蔵堂の前で眠りこんでしまいました。その夢の中にお地蔵様が現れ、「こども想いの母親よ、そなたの願いをかなえてやるかわりに、裏の蓮池の泥を私に塗ってくれぬか?」と告げました。眠りから覚めた母親は、お地蔵様に言われた通り、蓮池の泥をお地蔵様に塗り、帰宅しました。するとどうでしょう、こどもの腫物はすっかり治っていたそうです。
地蔵堂北西より |
こちらの泥掛け地蔵尊では、昔から地蔵堂の裏手(南側)にある池の泥を地蔵像に塗り付けて祈願すると願いが叶えられるとされていました。第二次大戦後になって泥を塗らずに祈願するようになりましたが、その御利益には変わりがないといわれているようです。
前述のように、地蔵尊に泥を塗って祈願する方法は各地で見られ、奈良県の天理市や桜井市、岡山県美作市などに「泥掛け地蔵」や「泥塗り地蔵」などと呼ばれる地蔵尊が今も残っています。
現地の様子
叡福寺南大門から門前の道路を西に約900m行くと押ボタン式信号がある交差点がありますが、その南東角に泥掛け地蔵尊のお堂が建っています。
横断歩道の先の地蔵堂 |
地蔵堂は北側の道路に面して建っており、当然地蔵尊も北を向いています。
北西角より |
地蔵堂の東側には建物が建ち、道路に面した北側と西側には玉垣があります。そして、南側には元々こちらの地蔵尊がおられた蓮池があります。敷地内、玉垣の内側北西角(地蔵尊に向かって右手)に建っているのは「大峯山三拾三度」の碑です。
堂内の様子 |
「南無地蔵尊」の額が架かった北側の入口から地蔵堂を見ると、中は四方に壁の無い吹き抜けの外陣となっていて、その奥(南)の方が、正面に窓、左右に格子戸のある内陣となっています。
提灯と祭壇の様子 |
地蔵堂内には賽銭箱、香炉、祭壇などがあります。
内陣内の地蔵尊 |
地蔵堂内陣の左右に回ると、地蔵尊を直に拝むことが出来ます。今では昔のように地蔵尊に泥を塗ることは無いそうですが、こちらから直接触れられるので、自分の体の治したい部分と同じ個所を撫でて祈願する人もいるのかもしれません。石仏としてもかなり古い感じで、かなりすり減っている様にも見えます。
南隣の蓮池 |
西側の道路から南側の蓮池を見ることもできますが、安全のためかフェンスで囲われており、この時は水もほとんど無いようでした。
訪問時には地元の方と思しき方々が線香をあげ、花を供えられていました。また、毎年8月には地蔵盆祭りが行われるそうで、泥掛け地蔵尊は今も地元の人々によって大切に守られていることがわかります。
また、南河内で興味深い由緒のある地蔵尊としては富田林市の花好山地蔵尊などもあります。
アクセス
公共交通機関を利用する場合は、近鉄南大阪線「上ノ太子」駅、または長野線「喜志」駅から金剛バスに乗車し「泥掛け地蔵前」バス停で下車。バス停から東に約50mの信号のある交差点の角に泥掛け地蔵尊があります。
泥掛け地蔵前バス停(右奥に地蔵尊) |
府道27号柏原駒ヶ谷千早赤阪線「太子」交差点からは東に約200m、叡福寺(西方院)前からは西に約900mです。
泥掛け地蔵尊に駐車場はありません。
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