【街歩き】通法寺跡と源氏三代の墓(羽曳野市・南河内郡太子町)

通法寺跡と源氏三代の墓

2018年3月訪問
通法寺跡は大阪府羽曳野市にあった仏教寺院の跡で、通法寺は河内源氏の菩提寺でした。その名は現在も寺の跡地周辺の「羽曳野市通法寺」や「富田林市通法寺町」として地名に残っています。源氏三代の墓とは、通法寺跡から隣の太子町にかけて点在する河内源氏の祖である源頼信から続く、源頼義、源義家の三代の墓所のことです。

通法寺跡と源氏三代の墓(羽曳野市・南河内郡太子町)
通法寺跡に残る山門

この辺りは石川右岸(東)の田畑と古い街並みの残る地域で、直線距離で300m弱の範囲内に全てがありますので一つの歴史スポットとして見学できますし、以前紹介した壺井八幡宮とも500mほどしか離れていないので、一連の河内源氏ゆかりの地として合わせて訪れる方も多いです。



通法寺跡と源氏三代の墓(羽曳野市・南河内郡太子町)
歴史街道「河内源氏のふるさと」の案内板

通法寺の歴史と概要

「通法寺興廃記(つうほうじこうはいき)」によると、長久(ちょうきゅう)4年(1043年)に源頼義が猟の途中に仁海谷で千手観音像を見つけ、これを持ち帰りました。頼義は館の南、山の谷と呼ばれる谷状地の入口に精舎を建立し、その仏像を本尊として安置して通法寺と号したのが始まりと伝えられています。

通法寺跡と源氏三代の墓(羽曳野市・南河内郡太子町)
通法寺山門

その後、頼義は浄土宗に帰依し阿弥陀如来を本尊としたことから河内源氏の菩提寺となり、源氏の隆盛と共に栄えました。

ちなみに、永承6年(1051年)から始まったとされる前九年の役では、頼義が子の八幡太郎義家とともに奥州へ出陣し、その後凱旋して河内国古市郡壺井里(つぼいのさと)の「香呂峰(こうろほう。香呂峯とも)の地」と呼ばれた場所に八幡宮を祀りましたが、これが通法寺の北北西に位置する壺井八幡宮です。



通法寺跡と源氏三代の墓(羽曳野市・南河内郡太子町)
大正八年に建てられた通法寺址の碑

通法寺は南北朝時代に戦火にかかり焼失しますが、江戸時代になって源氏の子孫である多田義直が5代将軍綱吉に願い出て、柳沢吉保らが普請奉行となり元禄13年(1700年)に再興されました。

明治元年(1868年)に廃仏毀釈により廃寺とされ、明治6年(1873年)には一部の建築物を残して取り壊されました。跡地は石丸神社となったものの明治40年(1907年)年に壺井八幡神社に合祀されたようです。昭和32年(1957年)に、河内源氏の形成発展する様相を示すものとして、源氏三代の墓を含め、文化財保護法に基づき「通法寺跡」として史跡と指定されました。

現在、通法寺跡として残っているのは旧通法寺の境内の西半だそうで、南側の住宅地以外は葡萄畑などの農地や山に囲まれています。かつての河内源氏の菩提寺は山門、鐘楼などを残すのみの姿となっています。



通法寺の面影

礎石

山門をくぐり、一段上って左に少し行くと、当寺院を建立した源頼義の墓があります(後述)。右に進むと奥の方に鐘楼が見えますが、その手前には本堂と思われる建物の礎石が残されています。

通法寺跡と源氏三代の墓(羽曳野市・南河内郡太子町)
鐘楼

山門とともにかつての寺院の姿を偲ばせる貴重な建物である鐘楼は柵で囲まれていて、当然鐘もありません。

通法寺跡と源氏三代の墓(羽曳野市・南河内郡太子町)
水盤

鐘楼から少し南に進むとかつての手水舎にあった水盤と思われる石が残されています。

通法寺跡と源氏三代の墓(羽曳野市・南河内郡太子町)
南東方面から見た通法寺跡

現在の通法寺跡は公園のようになっていて、桜も植えられているので春は桜の名所としても知られています。

通法寺跡と源氏三代の墓(羽曳野市・南河内郡太子町)
「源氏館跡」の説明板と石碑

また、山門を入って右(東)側の奥、あるいは山門前の道を東の方に進んだところにある入口から入った通法寺跡の東端には「源氏館跡」の石碑と説明板があります。それによると、源満仲の三男頼信は河内守となって寛仁(かんにん)4年(1020年)、ここから500mほど北北西の現在壺井八幡宮の鎮座する香呂峰の丘に居館をかまえて本拠地としたそうです(別の資料によると頼信の河内守任官は永承2年(1047年)となっています)。

通法寺跡と源氏三代の墓(羽曳野市・南河内郡太子町)
「源氏館跡」についての説明板

明治時代に壺井八幡宮に合祀された石丸神社の鎮座地は南河内郡駒ヶ谷村大字通法寺字延寿谷となっており、この付近であったと思われます。石丸神社の御祭神は天照大神、武甕槌命、経津主命、天児屋根命、比咩大神、誉田別命だったようです。

源氏三代の墓

山門から入って左奥の方にあるのが通法寺を建立した源頼義(永延2年(988年)~承保2年(1075年)?)の墓です。

通法寺跡と源氏三代の墓(羽曳野市・南河内郡太子町)
源頼義の墓

源頼義は、河内源氏初代とされる頼信の長男で河内源氏の2代目棟梁。平忠常の乱で父に従って戦功をあげ、前九年の役では鎮守府将軍として安倍氏を討ち、東国における源氏の勢力を強めました。死後は遺言により通法寺の観音堂の下に葬られたと伝えられています。今は石垣に囲まれた基壇(きだん)が残っていますが、江戸時代に書かれた「河内名所図会(かわちめいしょずえ)」には堂が描かれているので、かつては墓堂が建っていたことがわかっています。

通法寺跡と源氏三代の墓(羽曳野市・南河内郡太子町)
ウォーキングトレイル 水のルートの地図

源氏三代の墓の内、源頼信と源義家の墓所は通法寺跡から少し南東にある御廟谷の丘陵上にあります。

通法寺跡と源氏三代の墓(羽曳野市・南河内郡太子町)
通法寺跡から源頼信・義家の墓へ向かう道

山門から通法寺跡前の道を東に進むと「ウォーキングトレイル」の地図があり、その先の道は少し細くなりますが、そのまま右に民家や小川、左に葡萄畑をみて進みます。

通法寺跡と源氏三代の墓(羽曳野市・南河内郡太子町)
ウォーキングトレイルから頼信・義家の墓への入口(右)

「ウォーキングトレイル」の地図の場所から100m弱で、右手に「源頼信・義家墓」の石碑と説明板があり、その横に竹林を縫って丘に登る道がみえます。ここを上った辺りから厳密には太子町になるようです。

通法寺跡と源氏三代の墓(羽曳野市・南河内郡太子町)
源氏三代の墓の説明板と頼信・義家墓所の碑

50mほど坂道を上ると林の間の開けた場所に出ます。右手にこんもりとした小山があり、左手には平らな土地に一列に並ぶ墓石の様なものが見えます。

通法寺跡と源氏三代の墓(羽曳野市・南河内郡太子町)
義家の墓所の東側に並ぶ墓

近づいて石に彫られた文字を読むと、「通法寺〇〇世」や「当寺〇〇世」の文字や明治までの様々な元号が見えることから、この場所は通法寺の歴代住職の墓地となっているようです。

通法寺跡と源氏三代の墓(羽曳野市・南河内郡太子町)
通法寺歴代住職などの墓石

この広場に上ってきたときに右手に見えていた数mの高さの山の裏(南)側にまわると、ここが源義家(長暦3年(1039年)~嘉承元年(1106年))の墓所であることがわかります。

源義家は頼義の長男で河内源氏の3代目棟梁。7歳の春、石清水八幡宮で元服したことから八幡太郎と称されました。前九年の役で活躍して出羽守となり、ついで陸奥守兼鎮守府将軍となりました。その後、後三年の役を鎮定して東国武士の信望を集め、東国における源氏の勢力の基礎を築きました。後に鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府を開いた足利尊氏などの祖先に当たる人物です。

通法寺跡と源氏三代の墓(羽曳野市・南河内郡太子町)
源義家の墓

義家の墓はほぼ南を向いていて、その先には短い橋(下は道路)が架かっているのでこれを渡ると道はさらに40mほど進んだところで右に折れています。

通法寺跡と源氏三代の墓(羽曳野市・南河内郡太子町)
源頼信の墓へ向かう橋と道

右折して放棄された葡萄畑の横を通り、20mほど進むと正面に源頼信(安和元年(968年~永承3年(1048年))の墓が見えます。

通法寺跡と源氏三代の墓(羽曳野市・南河内郡太子町)
源頼信の墓

源頼信は源満仲の三男で河内源氏の祖。藤原道長の近習で諸国受領や鎮守府将軍を歴任し、平忠常の乱では戦闘を経ずに鎮圧して武名を上げました。この乱の後、坂東の武士は河内源氏と主従関係を結ぶようになり、後の東国支配と「武の家」源氏の主流となる礎を築きました。晩年は河内守となり、河内国古市郡壺井里を本拠地としました。

通法寺跡と源氏三代の墓(羽曳野市・南河内郡太子町)
大僧正隆光の墓

また、頼信の墓に向かって左には「大僧正隆光(だいそうじょうりゅうこう)墓」があります。

隆光(慶安2(1649年)~享保9年(1724年))は大和国超昇寺郷(現在の奈良市二条町)生まれの新義真言宗の僧。江戸幕府5代将軍徳川綱吉の命により将軍家の祈祷寺である筑波山知足院(後に神田橋外に移して護持院と改称)の住職となったのを機に、急速に綱吉の帰依を得るなど綱吉及び綱吉の生母桂昌院の寵を受け、やがて「天下の悪法」と評されたいわゆる「生類憐れみの令」を発令することを勧めたともいわれています。

通法寺跡と源氏三代の墓(羽曳野市・南河内郡太子町)
大僧正隆光墓の説明板

元禄年間、隆光は源氏の子孫である多田義直の上表の際、通法寺再興に柳沢吉保と共に尽力しました。また、桂昌院の援助で永禄10年(1567年)に松永久秀による兵火で焼失して以来142年間雨ざらしだった大仏殿の再建など、大和の社寺修復に尽くすなどしたため、地元の大和や河内での評判は良いとされます。しかし、綱吉の死後はお役御免となり通法寺の住職に左遷されるなどし、晩年は生まれ故郷に帰り享保9年(1724年)に没しました。奈良の超昇寺跡にあるのが本墓で、こちら通法寺跡にあるのは分骨された墓のようです。

アクセス

車で大阪市内などから向かう場合は、国道170号(外環状線)「羽曳野I.C前」交差点、または国道170号(旧道)「新町南」交差点から東(奈良方面)に進み、石川を渡ってすぐの「羽曳野大橋東詰」交差点を右折します。府道27号線に入り約1.8km先の「通法寺」交差点を左折し400mほど進み右に曲がると通法寺跡です。さらに150mほど進んだ左側(源頼信・義家墓の入口前)にも駐車場があります。

壺井八幡宮や通法寺・源氏三代の墓周辺は古い街並みが多く、車も離合困難な箇所が点在しているのでご注意ください。

通法寺跡と源氏三代の墓(羽曳野市・南河内郡太子町)
源頼信・義家墓入口前の駐車場

公共交通機関では、まず壺井八幡宮の記事を参考に近鉄南大阪線「上ノ太子駅」から八幡宮へ向かう方が良いでしょう。参拝後に「壺井水」から南に約400m歩いて左折。途中車の通れない細い道を100mほど東に向かうと通法寺跡の前に出ます。
周辺には「歴史街道」や「ウォーキングトレイル 水のルート」などの標識が各所にあるのでそれらを参考に歩いてください。

Remains of Tsuho-ji Temple/Grabe of three generations of Genji(Habikino City/Taishi Town,Osaka Prefecture)


にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ

コメント