観心寺(河内長野市) ・弘法大師や大楠公ゆかりの古刹

観心寺

2018年11月訪問
観心寺(かんしんじ)は大阪府河内長野市寺元にある高野山真言宗の寺院で山号は檜尾(ひのお)山。寺格は遺跡本山(ゆいせきほんざん)となっています。河内の南、金剛山の麓にあり、山を越えると奈良県(大和)や和歌山県(紀伊)という場所にある当寺は、仏教にとって重要であるだけでなく、多くの歴史上の人物にゆかりのある古刹としても有名です。

観心寺(河内長野市)
観心寺(河内長野市)

また、古くから河南の三大名刹といわれた観心寺・金剛寺・河合寺(すべて河内長野市)のひとつとして知られており、現在でも梅、桜、紅葉の名所でもあることから河内長野市はもとより、南河内でも有数の観光スポットとして多くの参詣者が訪れます。



歴史と概要

寺伝によると、観心寺は大宝元年(701年)に修験道の開祖・役行者(えんのぎょうじゃ=役小角(えんのおづの/おづぬ))によって開創され、当初「雲心寺」と呼ばれていました。

平安時代初期の大同3年(808年)、弘法大師空海がこの地を訪れ境内に北斗七星を勧請しました。弘仁6年(815年)に再度訪れた弘法大師は、衆生の除厄のために本尊である如意輪観音菩薩を刻んで安置し寺号を「観心寺」と改め、後に当寺を真言宗の道場としたとされています。

その後、弘法大師は当寺を甥で十大弟子の一人である道興大師(どうこうだいし)実恵(じちえ)に託し、実恵は淳和天皇から伽藍建立を拝命。その弟子真紹(しんじょう)とともに天長4年(827年)より造営工事に着手したことから、この年が実質的な創建年とされています。

以後、観心寺は国家安泰と厄除の祈願寺として、また都と高野山との中継地として鎌倉時代末期には塔頭50ヶ寺以上を誇る大寺院となるなど発展して行くことになります。



観心寺(河内長野市)
説明板

観心寺は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将、楠木正成(大楠公)で有名な楠木氏の菩提寺であり、南朝ゆかりの寺としても知られています。楠木正成は幼少期にこの観心寺を学問所としており、瀧覚(龍覚)坊を師と仰ぎ学問を修めました。ちなみに河内長野市に隣接する千早赤阪村には楠公誕生地産湯の井戸下赤坂城跡建水分神社など正成ゆかりの地が多数あります。

南朝の建武3年(1336年)、湊川の戦いで正成が自害した後、敵であった足利尊氏は残された家族を気遣い正成の首を故郷である河内に送り返したことから、現在も境内に首塚として祀られています。

また、正平14年(1359年)12月から翌正平15年(1360年)9月まで第97代(南朝の第2代)後村上天皇の行宮(あんぐう=臨時の宮殿)となったことから、境内には後村上天皇の陵墓である桧尾陵が存在します。

観心寺(河内長野市)
金堂前の弘法大師礼拝石

室町時代には管領である畠山氏の庇護を受けたものの、戦国時代に入ると織田信長に寺領を没収されました。しかし、文禄3年(1594年)には豊臣秀吉が25石を寄進し、子の秀頼は金堂や諸堂の修復などを行いました。

江戸時代になると、楠木正成の弟である楠木正季(まさすえ)の子孫で、塔頭槙本院の檀家であった幕府旗本の甲斐庄(かいしょう)氏などの支えにより、伽藍の維持に努めました。
しかし、最盛期には50余坊あった塔頭は、安永年間(1772~1781年)に30余り、慶応年間(1865~1868年)には12坊となり、明治時代の廃仏毀釈が始まるとさらに減少。現在では本坊となった槙本院の他には中院と、僅か2坊を残すのみとなりました。

平成17年(2005年)、高野山真言宗総本山である金剛峯寺より、 京都市右京区の神護寺と同じ遺跡(ゆいせき)本山の寺格が贈与されました。

現在の観心寺は、大阪みどりの百選にも選定されるなど、奥河内の豊かな自然に囲まれた長い歴史と様々な史跡のある寺院として人気があるだけでなく、札所などとして、新西国三十三箇所客番、仏塔古寺十八尊第13番、関西花の寺二十五霊場第25番、河泉二十四地蔵霊場第5番、河内飛鳥古社寺霊場第10番、神仏霊場巡拝の道第56番、役行者霊蹟札所となっていることから多くの参詣者が訪れます。

●観心寺 公式ホームページ →http://www.kanshinji.com/


境内

観心寺は、河内長野市街から国道310号を奈良県五條市に向けて進み、少し山間部に入った辺りにあります。

観心寺(河内長野市)
山門をくぐり金堂方向を望む

国道沿いにはいくつかの駐車場があり、北側に向けて山門への立派な石段も見えます。

観心寺(河内長野市)
納経所(左)と中院(右)

山門をくぐり、受付で入山料を納めて境内に入ると正面に金堂への道、右に後村上天皇御旧跡、左に納経所と中院があります。

観心寺(河内長野市)
「楠公学問所 中院」の碑

中院は大楠公楠木正成が学問所として8~15歳まで仏道修行について学んだところです。

観心寺(河内長野市)
後村上天皇旧跡

濠で囲まれた後村上天皇旧跡は旧惣持院跡とも。

観心寺(河内長野市)
拝殿

正面の金堂に向けて少し上ると右手に拝殿と呼ばれる建物があります。

観心寺(河内長野市)
手水舎

拝殿からさらに少し上にあるのが手洗舎(手水舎)。

観心寺(河内長野市)
水盤

大変立派な水盤の上面には文字が彫られています。

観心寺(河内長野市)
牛滝堂

手水舎から金堂に向かう石段から外れ、左に入って少し歩くと右手に牛滝堂が見えます。

観心寺(河内長野市)
霊宝館

さらに進むと右側に貴重な平安時代の仏像などを展示する霊宝館があります。

観心寺(河内長野市)
恩師講堂

そして突き当りには、大きな恩師講堂があります。この恩師講堂は、昭和3年(1928年)に京都御所で行われた昭和天皇即位の大礼に際して建てられた大饗宴(きょうえん)場の部材や内装が下賜され、昭和5年(1930年)に現在の観心寺境内北西奥に移築されたものです。その歴史的価値、文化財的価値から、平成29年(2017年)に国の重要文化財に指定されました。

観心寺(河内長野市)
金堂への参道

再び中央の参道に戻り、金堂を目指します。途中右手には鎮守堂(訶梨帝母(かりていも)天堂)がありますが、これは訶梨帝母、別名を鬼子母神(きしもじん・きしぼじん)とも呼ばれる仏教を守護するとされる夜叉を祀っています。

観心寺(河内長野市)
石段の下から見上げた金堂

そして、石段を上り詰めると目の前に国宝の金堂が現れます。この金堂は、室町時代初期に建立された大阪府下で本堂として最古の国宝建造物で、その造りは七間四方、単層入母屋造、和様、禅宗様、大仏様の折衷様式となっていて、朱色、白、緑などの色合いが映えます。

観心寺(河内長野市)
国宝 金堂

修理は豊臣秀頼の時代、江戸時代の中期、明治初期、昭和の初めなど、度々行われており、直近では昭和59年(1984年)に昭和大修理の落慶をみました。

観心寺(河内長野市)
金堂の東側

観心寺の本尊である木彫如意輪観音菩薩坐像は七星如意輪観音とも呼ばれ、如意宝珠を持つので如意輪観音と言います。像の高さは109.4cmで、彩色の六臂(手が6本)のこの像は国宝で秘仏となっていますが、毎年4月17日と18日のみ開扉されます。

また、脇侍は不動明王、愛染明王で、内陣に板製の両界曼茶羅があります。

観心寺(河内長野市)
建掛塔

金堂の右手(東側)には建掛塔(たてかけとう)と呼ばれる、厚い茅葺屋根の仏堂のように見える建物があります。伝承によれば、楠木正成は建武の新政の成功を祈願して観心寺境内に三重塔の建立を発願したものの、その造営中に湊川の戦いで還らぬ人となったために建築が中断され、三重塔の一重目だけが建てられた未完成の建物である、とされています。

観心寺(河内長野市)
鐘堂

建掛塔の少し南側には鐘堂があります。

観心寺(河内長野市)
弁天堂

また、建掛塔の北側にあるのは濠で囲まれた弁天堂。

観心寺(河内長野市)
阿弥陀堂

弁天堂の東側の石段の上には阿弥陀堂があります。

観心寺(河内長野市)
御影堂と「四国八十八ヶ所霊場お砂踏み道場」の碑

建掛塔と阿弥陀堂の間を抜けてさらに東に進むと正面に星塚、左に御影堂・納骨堂・行者堂への石段が現れます。

前述のように、弘法大師はこの地に北斗七星を勧請したとされることから、現在も境内には7つの星塚が金堂を囲む形で残っています。なお、日本では北斗七星を祀る寺院は観心寺が唯一といわれ、厄除けや福寿増長のパワースポットとしても注目を集めているそうです。

観心寺(河内長野市)
修行大師像

石段の右手には弘法大師空海の修行時代の像、修行大師像が安置されています。

観心寺(河内長野市)
後村上天皇桧尾陵への参道

さらに東に進むと、後村上天皇桧尾陵への長い参道の入口があります。

観心寺(河内長野市)
開山堂(本願堂)

後村上天皇陵への石段を過ぎると、次は開山堂(本願堂)が建っています。こちらには空海の弟子であり観心寺の実質的な開基と考えられる実恵が祀られています。

観心寺(河内長野市)
道興大師御廟

この開山堂の裏には実恵の墓所である道興大師御廟があります。

観心寺(河内長野市)
楠木正成公 御首塚

そして、開山堂の奥、境内の東の端に楠木正成首塚があります。延元元年(1336年)、九州から大軍を率いて京を目指す足利尊氏を、楠木正成は新田義貞らとともに兵庫の湊川付近で迎え撃ちますが、多勢に無勢。力及ばず討死します。その死後、足利尊氏の命により正成の首級は観心寺に送り届けられ、今も大楠公首塚として祀られています。

観心寺(河内長野市)
忠魂塔

楠木正成首塚の右隣りには石段の上に建てられた忠魂塔があります。

観心寺(河内長野市)
コウボ坂 宮内庁陵墓参考地

忠魂塔のさらに右手には「コウボ坂 宮内庁陵墓参考地」の立て札があります。ここは「新待賢門院(しんたいけんもんいん)」の陵墓と考えられる場所で、新待賢門院とは名を阿野廉子(あのれんし)といい、後醍醐天皇の寵妃にして、後村上天皇(義良親王)の母という人物です。「コウボ坂」とカタカナ名になっていますが漢字では「皇母坂」といわれているそうです。

観心寺(河内長野市)
石畳の坂道

コウボ坂陵墓参考地付近から石畳の坂道を下って元の山門の方へ向かいます。境内の南東部から金堂正面の参道へ向かうこの道は、木々の間を抜けていくのでこの時期は美しい紅葉を楽しめました。

観心寺(河内長野市)
大楠公騎馬像

観心寺ほどの規模になると、見どころは境内だけとは限りません。その内の一つ、山門西側の駐車場には騎乗した楠木正成(大楠公)銅像があります。皇居外苑にあることで有名な大楠公の騎馬像ですが、この観心寺の他にも千早赤阪村や神戸などにもあります。

観心寺(河内長野市)
観心講記念碑など

観心寺の門前

観心寺の門前とその周辺にある何軒かの飲食店の内、西側駐車場の隣には最近テレビなどでも取り上げられている「観心寺 創作精進料理 KU-RI」があります。こちらは江戸時代に建てられた庫裏(台所)を改装した精進料理カフェともいえる店舗で、平成28年(2016年)秋オープン。北欧の作家のガラス作品を並べたモダンな空間と、カジュアルなランチを築400年の建物で楽しめるというコンセプトでなかなか予約をとるのも難しいとか。

こちらの建物は、観心寺の子院(塔頭)である槙本院の台所として建てられたもので、何度かリフォームはしているものの、ほぼ当時の姿を残している全国的にも珍しい庫裏。庫裏と続いている書院は国の重要文化財に指定されています。
さらに、中門と書院奥の持仏堂も約400年前に建てられた府指定の文化財ということです。

●観心寺 創作精進料理 KU-RI →http://www.kanshinji.com/kuri/

また、観心寺から2km圏内には、楠妣庵観音寺をはじめ、河合寺、興禅寺、延命寺西恩寺などの寺院がある他、約1.5km南東には一時観心寺の鎮守となった鳩原神社(現川上神社)もあるので、観心寺と一緒に参拝すると良いかもしれません。


アクセス

公共交通機関では、南海高野線・近鉄長野線「河内長野」駅より南海バス「小吹台」行・「金剛ロープウェイ」行などに乗り「観心寺」バス停で下車。南東(五條市方面)に約250mで山門です。

観心寺(河内長野市)
山門前の西側駐車場
「河内長野」駅北の国道170号線(旧道)「菊水町」交差点から東に向かい国道310号に入り、道なりに約3.4kmです。バス停南(「川上駐在所前」交差点隣)、山門前、山門向かいに駐車場があります。駐車料金は通常無料ですが、大晦日・正月のみ500円です。

なお、入山料は大人300円、小中学生100円で、毎年4月17日、18日の本尊御開帳日は特別拝観料700円となっています。

Kanshinji Temple(Kawachinagano City,Osaka Prefecture)


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