世界遺産 唐招提寺
2016年3月訪問
唐招提寺(とうしょうだいじ)は奈良県奈良市五条町にある寺院で、山号はありません。南都六宗のひとつである律宗(りっしゅう)の総本山です。奈良時代に唐僧鑑真和上(688年~763年)によって創建された当寺の本尊は廬舎那仏で国宝に指定されています。。歴史
唐招提寺の創建は、唐より日本に招請された鑑真和上が東大寺で5年を過ごされた後、天平宝字3年(759年)に新田部(に(い)たべ)親王の旧宅地を下賜されて戒律を学ぶ人々のための道場としたことが始まりとされています。当初は「唐律招提」と名づけられたそうで、この「招提」とは仏教寺院(私寺)の意味だそうです。
南大門前の道。右(南)へ向かうと薬師寺があります。 |
当初は講堂と新田部親王の旧宅を改造した経蔵や宝蔵があるだけでしたが、8世紀後半には鑑真和上の弟子で、ともに唐から渡来した如宝の尽力により金堂が完成したとされています。その後も伽藍の造営は続き朝廷や貴族の協力の下、孫弟子の豊安の代まで引き継がれました。平安時代以降は一時的に衰退しますが、鎌倉時代の僧、覚盛によって復興されました。
鑑真和上
鑑真和上というと、歴史の教科書や井上靖の歴史小説「天平の甍」などで有名ですが、ここで簡単に鑑真和上の生涯を簡単に振り返ります。
和上は西暦688年に唐の揚州江陽県で生まれました。14歳で得度(出家)し洛陽や長安で修行を積んだのち故郷揚州に戻り江南第一の大師と称されました。
その頃の日本では私度僧と呼ばれる自分で出家を宣言した僧侶が多く、聖武天皇は僧侶に位を与える伝戒師にふさわしい僧侶を捜していました。742年、遣唐使船で日本から唐に渡った留学僧の栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)は揚州の大明寺で住職をしていた鑑真和上を訪ねて、渡日して朝廷の伝戒師となるよう招請しました。日本側としては受戒できる僧を10人を招きたかったが、鑑真和上が弟子たちに日本に渡る希望者を募ったところ誰も手を挙げず、ついに和上自ら渡日することを決意したところ弟子も21人随行することとなったそうです。
初回の渡海企図は743年夏のことでしたが、このときは弟子の密告により失敗しました。2回目は嵐で、3回目、4回目はまたもや出国を惜しむ弟子たちの密告などで失敗となり5回目は暴風雨にあい海南島に漂着。その後、栄叡は亡くなり鑑真和上も失明しましたが、753年に大伴古麻呂が帰りの遣唐使船に密かに乗船させて出航、ついに6度目にして渡日に成功しました。
翌年には孝謙天皇の勅令により東大寺に住み大仏殿に戒壇を築き、聖武上皇から尼僧まで400名に菩薩戒を授けました。来日して76歳で亡くなるまで、10年間を東大寺で、残りの5年間を唐招提寺で過ごされました。
和上は西暦688年に唐の揚州江陽県で生まれました。14歳で得度(出家)し洛陽や長安で修行を積んだのち故郷揚州に戻り江南第一の大師と称されました。
その頃の日本では私度僧と呼ばれる自分で出家を宣言した僧侶が多く、聖武天皇は僧侶に位を与える伝戒師にふさわしい僧侶を捜していました。742年、遣唐使船で日本から唐に渡った留学僧の栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)は揚州の大明寺で住職をしていた鑑真和上を訪ねて、渡日して朝廷の伝戒師となるよう招請しました。日本側としては受戒できる僧を10人を招きたかったが、鑑真和上が弟子たちに日本に渡る希望者を募ったところ誰も手を挙げず、ついに和上自ら渡日することを決意したところ弟子も21人随行することとなったそうです。
初回の渡海企図は743年夏のことでしたが、このときは弟子の密告により失敗しました。2回目は嵐で、3回目、4回目はまたもや出国を惜しむ弟子たちの密告などで失敗となり5回目は暴風雨にあい海南島に漂着。その後、栄叡は亡くなり鑑真和上も失明しましたが、753年に大伴古麻呂が帰りの遣唐使船に密かに乗船させて出航、ついに6度目にして渡日に成功しました。
翌年には孝謙天皇の勅令により東大寺に住み大仏殿に戒壇を築き、聖武上皇から尼僧まで400名に菩薩戒を授けました。来日して76歳で亡くなるまで、10年間を東大寺で、残りの5年間を唐招提寺で過ごされました。
伽藍
唐招提寺の寺地は平城京の右京五条二坊にあった新田部親王の邸宅の跡地で、伽藍創建当時の広さは4町(東西255m、南北245m)とされ発掘調査の結果、前身の親王邸と思われる建物跡も出土しているそうです。
南大門から入ります。 |
現在、昭和35年(1960年)に再建された南大門をくぐると、正面に金堂(国宝)、その後ろに講堂(国宝)がありますが、かつては南大門と金堂の間に中門があり、中門の左右から回廊が伸びて金堂の左右につながっていたそうです。金堂と講堂の間の西には鐘楼、東には鼓楼(国宝)が建っています。そのすぐ東の南北に細長い東室の南側は礼堂(重要文化財)と呼ばれており、さらにその東には校倉造の建物が二棟あって北の建物が宝蔵(国宝)、南の建物が経蔵(国宝)です。
その他にも、伽藍西側には戒壇、北側には中興堂、御影堂(重要文化財)、松尾芭蕉句碑、そして北東には鑑真和上の墓所である開山御廟があります。
唐招提寺の案内板 |
金堂 |
金堂 |
金堂に安置されている国宝の木心乾漆千手観音立像は、千手観音像は40手(合掌手を含めて42手)で千手を表すものが多い中、本像は実際に1000本の手を表した珍しい像です(現状は大手42本、小手911本、計953本)。同様に1000本の手を実際に現した千手観音像が大阪府藤井寺市の葛井寺にもあります。
左が講堂、右が金堂、奥に見えるのが鼓楼 |
鎌倉時代に造られた戒壇 |
見所は沢山あります。 |
趣のある開山御廟への道 |
開山御廟の門 |
墓所への道 |
木々の間、地面は苔で覆われています。 |
この先に見えるのが鑑真和上の墓所です |
多くの国宝・文化財
重要文化財は前出の礼堂をはじめ、建物、絵画、書物、工芸品と多数あります。年間数日しか開扉されない国宝の鑑真和上像に代わり、平成25年(2013年)に「御身代わり像」が造られ拝めるようになっています。
また、旧開山堂の手前には元禄元年の松尾芭蕉の句「若葉して御目の雫拭はばや」を彫った石碑もあります。
アクセス
鉄道での最寄り駅は薬師寺と同じく近鉄橿原線の「西ノ京」駅です。東側の出口を出て少し東(線路と逆)に進むと右に薬師寺の門のある交差点にでますので左折してまっすぐ北に向かいます。その道を薬師寺の玄奘三蔵伽藍を右に見ながら500mちょっと歩くと正面に唐招提寺がありますので突き当たりを右折すると南大門(入口)が見えます。
車の場合、大阪市内方面からは阪奈道を奈良公園方面へ向かって近鉄線の線路を跨ぎ、「二条大路南5丁目」、もしくは「三条大路5丁目」交差点を右折、奈良市中心方面からは同交差点を左折して県道9号線を1km弱南下し、「唐招提寺入口」交差点を右折します。その先約200mで左に唐招提寺参拝者専用駐車場(有料)、右手に唐招提寺が見えてきます。
西名阪道郡山インターなど南方面からは国道24号線を北上して「杏町」交差点を左に曲がります。佐保川を渡り次の奈良口交差点を右に折れてしばらく進み、薬師寺の看板を過ぎ、西の京病院の前をそのまま直進し「唐招提寺入口」交差点を左折すると200m程で唐招提寺の駐車場が左手にあります。
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