屯倉神社
2018年2月訪問(2021年3月更新)
屯倉神社(みやけじんじゃ)は大阪府松原市三宅中にある神社です。松原市の北部、大和川から1kmほど南の街中に鎮座する屯倉神社は、菅原道真公(菅公)を祀る天満宮ということで境内には梅が植えられ、毎年3月初め頃には梅まつりが催され多くの人を楽しませています。屯倉神社(松原市) |
また、「開運松原六社参り」といって、お正月の元旦から15日までに松原市内の五社と近隣の一社(阿保神社・阿麻美許曾神社・我堂八幡宮・柴籬神社 ・布忍神社・屯倉神社)を参詣し開運を願う行事で巡る六社の一つに数えられるなど、初詣にも人気の神社のようです。
※トップの写真は令和3年(2021年)2月に撮影したものです。
歴史と概要
屯倉神社の鎮座地である三宅(みやけ)という地名は、現在では阪神高速の出入口やジャンクションがあるので地元以外の人にも知名度は高いと思われますが、その由来は、かつてこの地に大和王権の直轄地を意味する屯倉の一つ「依網屯倉(よさみのみやけ)」が置かれていたことによるものと考えられていて、それがやがて三宅という字を当てるようになりました。ちなみに、屯倉は各地に設置され、もともと今でいう食糧倉庫のようなものを指す言葉でしたが、やがて周辺の土地なども含めた呼称となりました。
屯倉神社の説明板 |
現在の御祭神は菅原道真公、須佐之男命、品陀別命ですが、菅原道真公を祀る以前、この地には古くから土師氏(はじうじ)祖神の天穂日命を祀る穂日の社があったといわれています。土師氏は後に菅原氏(すがわらうじ)に改姓し、その一族から菅原道真が出ます。
昌泰4年(901年)、左大臣藤原時平の讒言により醍醐天皇は右大臣であった菅原道真を大宰権帥(だざいのごんのそち)として(正式には太宰員外帥)九州の大宰府に左遷しました(昌泰の変)。言い伝えによると、九州へ向かう途中の菅原道真公は、叔母の覚寿尼のいる土師氏(菅原氏)の氏寺である道明寺に寄り別れを告げた後、祖先ゆかりの当地を通り、穂日の社に無実を訴えたとされます。
その後、天慶(てんぎょう)5年(942年)8月18日、河内国丹北郡依羅三宅郷に道真公を祀ったことが当社の直接的な創建とされています。長らく依羅三宅天満宮などとも呼ばれており、屯倉神社と称するようになったのは明治時代からのようです。
拝殿前の由緒記(2021年2月) |
鎮座地周辺は明治の初めまで河内国丹北郡三宅村でした。三宅村は明治22年(1889年)の町村制の施行後も単独で自治体を形成しますが、明治29年(1896年)に所属郡が中河内郡に変更。当時の屯倉神社鎮座地は中河内郡三宅村字宮の内となっていました。明治5年(1872年)に旧社格制度で村社に列し、明治40年(1907年)4月8日に三宅村字西の口にあった酒屋神社(後述)を合祀、明治44年(1907年)5月25日に神饌幣帛料供進神社に指定されました。
境内には神宮寺の三宅寺梅松院がありましたが明治時代に廃絶し、本尊である十一面観音像は安養山西方寺に移されたようです。
境内
現在の幹線道路である国道309号線の「三宅新道」交差点から府道187号線を大堀方面(東)に向かうと左手に屯倉神社の看板と白い石造りの鳥居が見えてきます。こちらは神社の南面で、正面のようにも見えます。
こちらは神社の西面で、鳥居をくぐると「みかえり橋」と彫られた短い石橋があり、そこから直進すると社務所、さらに向こうには東側の入口にある鳥居も見えます。
参道は社務所手前で右に折れ、次に注連柱が現れます。ここから先は梅があちこちに植えられています。
注連柱 |
参道は社務所手前で右に折れ、次に注連柱が現れます。ここから先は梅があちこちに植えられています。
南側、西側いずれの鳥居をくぐっても参道は石畳となっていますが、西側にある朱色の鳥居からの参道の方が広く注連柱もあるので、本来こちらが正面かと思われます。
後ほど明治時代の地図を見てみると、当社は三宅村の南東にありました。神社南側には池があり、今の府道187号線にあたる広さの道路はありませんが、神社西側を南北に走る細い道は南へ行くと今の河内松原駅付近で長尾街道に、北へ向かうと大和川に架かる高野大橋を渡り瓜破村、喜連村、平野郷へ続く重要な道、「中高野街道」でした。
前述のように、菅原道真公を祀る天満宮ということで境内には梅の木が多く植えられていて、満開の季節はとても美しいそうです。
拝殿は西向きに建てられていて、その背後の本殿の周りには梅以外の木々もたくさんあります。
百度石のところで参道は少し左に折れ、そのまま拝殿に向かうと左手に手水舎があります。
さらに進むと立派な拝殿前に到着。
今の拝殿や幣殿、本殿をはじめ、末社、手水舎、社務所などは昭和63年(1988年)に全て新しく建て替えられたもので、それ以前の建物は寛政4年(1792年)に建てられたものだったそうです。
手水舎と拝殿の間の道を進むと社務所の正面に着きます。この辺りは神宮寺の梅松院(三宅寺)があったところで、僧侶が神官を兼ねていましたが明治初期に廃寺となりました。
拝殿に向かって右側には、狛犬、燈篭、石碑などと並んで天満宮の神使である牛の像もあります。
拝殿向かって左側には、菅原道真が詠んだと伝わる「梅が香を袖にうつしてとどめては 春は過ぐとも形見とおもハむ」の歌碑があります。
屯倉神社には境内社と多くの末社があり、拝殿の左手(北側)にほぼ横一列に鎮座しています。
特に境内社の酒屋神社(さかやじんじゃ)は津速魂命(つはやむすびのみこと)を祀る「延喜式神名帳」に河内国丹比郡11座の一つとして記載されているいわゆる式内社です。「先代旧事本紀」神代本紀によれば、津速魂命は神皇産霊尊(かみむすびのみこと)の子とされています。その十九世孫に中臣酒屋連(なかとみのさかやむらじ)がおり、屯倉の米と、酒屋井の水で酒を造り朝廷に納めていたようなので、その祖神を祀っていたのではないかと考えられています。
かつて酒屋神社はここから400mほど北西、三宅村の西の端、中河内郡三宅村字西の口(現代の住所では三宅中6丁目2-2)に鎮座していましたが、明治40年、現在地に移されました。
この酒屋神社の旧社地の西側に酒蓋池があり、池の北東に酒屋井という井戸がありました。この井戸から神様が出現されたことから酒屋神社は酒屋権現とも呼ばれました。
参道から見た拝殿 |
拝殿は西向きに建てられていて、その背後の本殿の周りには梅以外の木々もたくさんあります。
手水舎 |
百度石のところで参道は少し左に折れ、そのまま拝殿に向かうと左手に手水舎があります。
拝殿と枝垂れ梅 |
さらに進むと立派な拝殿前に到着。
屯倉神社の拝殿 |
今の拝殿や幣殿、本殿をはじめ、末社、手水舎、社務所などは昭和63年(1988年)に全て新しく建て替えられたもので、それ以前の建物は寛政4年(1792年)に建てられたものだったそうです。
社務所 |
手水舎と拝殿の間の道を進むと社務所の正面に着きます。この辺りは神宮寺の梅松院(三宅寺)があったところで、僧侶が神官を兼ねていましたが明治初期に廃寺となりました。
神使の臥牛像 |
拝殿に向かって右側には、狛犬、燈篭、石碑などと並んで天満宮の神使である牛の像もあります。
遥拝所 |
拝殿の右手(南側)には遙拝所の碑があります。書は官選第27代大阪府知事の半井清(なからいきよし)によるもので、伊勢の神宮の遥拝所だったと思われます。
歌碑 |
拝殿向かって左側には、菅原道真が詠んだと伝わる「梅が香を袖にうつしてとどめては 春は過ぐとも形見とおもハむ」の歌碑があります。
神形石 |
また、歌碑の後ろには昌泰4年(901年)菅原道真が当社を参拝した際に、腰を掛けたと伝わる「神形石」があります。傍らの「神形石」と刻まれた石標は文久2年(1862年)妻屋氏により建てられたものです。
酒屋神社と多数の末社
境内社の酒屋神社 |
屯倉神社には境内社と多くの末社があり、拝殿の左手(北側)にほぼ横一列に鎮座しています。
酒屋神社の鳥居と常夜燈など |
特に境内社の酒屋神社(さかやじんじゃ)は津速魂命(つはやむすびのみこと)を祀る「延喜式神名帳」に河内国丹比郡11座の一つとして記載されているいわゆる式内社です。「先代旧事本紀」神代本紀によれば、津速魂命は神皇産霊尊(かみむすびのみこと)の子とされています。その十九世孫に中臣酒屋連(なかとみのさかやむらじ)がおり、屯倉の米と、酒屋井の水で酒を造り朝廷に納めていたようなので、その祖神を祀っていたのではないかと考えられています。
式内社酒屋神社の由緒略紀 |
かつて酒屋神社はここから400mほど北西、三宅村の西の端、中河内郡三宅村字西の口(現代の住所では三宅中6丁目2-2)に鎮座していましたが、明治40年、現在地に移されました。
酒屋神社跡地の石碑 |
この酒屋神社の旧社地の西側に酒蓋池があり、池の北東に酒屋井という井戸がありました。この井戸から神様が出現されたことから酒屋神社は酒屋権現とも呼ばれました。
また、酒屋神社旧社地は現在児童公園になっていますが、かつては権現山古墳と呼ばれる前方後円墳がありました(現在は消滅)。その名は酒屋神社が酒屋権現といわれていたことによります。
市杵島姫社・酒屋神社・琴平神社 |
酒屋神社には鳥居と参道、百度石、狛犬などがあります。中央に酒屋神社があり、その左に市杵島姫社、右に琴平神社が鎮座しています。鳥居手前左の常夜燈には元禄4年(1691年)の銘があるそうです。
天照大神社・素盞嗚神社・大物主神社・日吉神社・天津神社 |
また、琴平神社の右手には(左から)天照大神社、素盞嗚神社、大物主神社、日吉神社があり、さらにその右少し奥に天津神社があります。
三宅龍王講 |
厳密には屯倉神社の外になるかと思いますが、南側の石造りの鳥居の西側には三宅龍王講の行者堂があります。明治以前からこの地には大峰山を信仰する講があったそうで、昭和22年(1947年)に隣村の住人から数百年前の役行者像の寄贈を受けて、行者堂を建立。現在では、不動明王、弘法大師を併せて祀っているそうです。
日露戦役紀念碑 |
さらに、神社西側の中高野街道沿いには朱色の鳥居の他にもう一つ小さめの石の鳥居があり、こちらには「日露戦役紀念碑」などがあります。
祭礼
毎年3月上旬の土・日曜日には梅まつりが開かれ、7月下旬には夏祭りが催され境内には露店が並ぶそうです。例祭は10月。南側の石の鳥居側にある石碑や案内板 |
アクセス
鉄道での最寄り駅は近鉄南大阪線「河内松原」駅です。徒歩なら下車後、駅西側の道(松原駅前商店街)を北へ道なりに約1.5kmです(「阿保5丁目」交差点通過)。バスでは河内天美駅から近鉄バスで「三宅」バス停下車すぐ...でしたが、平成29年(2017年)4月1日より近鉄バス大堀線は路線廃止になったようなので、松原市営の無料コミュニティバス「ぐるりん号」で「三宅土地改良区前」か「三宅公民館」バス停で下車すると近いです。「ぐるりん号」は松原市役所を中心に様々なコースがあるのでホームページでご確認ください。
●松原市内公共施設循環バスぐるりん号 →http://www.city.matsubara.osaka.jp/index.cfm/6,284,13,167,html
●松原市内公共施設循環バスぐるりん号 →http://www.city.matsubara.osaka.jp/index.cfm/6,284,13,167,html
車で行く場合は国道309号「三宅新道」交差点を、大阪市内、大和川方面(北)からなら左折、富田林や松原方面(南)からだと右折し府道187号大堀堺線に入ります。そのまま東へ400mほどで左に屯倉神社が見え、鳥居前に3台ほど駐車できそうなスペースがありますが、駐車場として使用できない時は、国道309号沿いなどでコインパーキングを探さないといけないようです。
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