大鳥塚古墳(藤井寺市) ・「埴輪」から「戦争遺跡」を経て「世界遺産」となった前方後円墳

大鳥塚古墳

2022年4月訪問
大鳥塚古墳(おおとりづかこふん)は大阪府藤井寺市古室にある古墳です。藤井寺市から羽曳野市にかけて広がる古市古墳群に属する前方後円墳で、古市古墳群最大の古墳であり堺市にある仁徳天皇陵に次いで全国第2位の規模を誇る応神天皇陵(誉田御廟山古墳)の北側に位置しています。国の史跡に指定されているだけではなく、応神陵と共に令和元年(2019年)7月にユネスコの世界文化遺産「百舌鳥・古市古墳群 古代日本の墳墓群」のリストにも登録されています。

大鳥塚古墳(藤井寺市)
大鳥塚古墳(藤井寺市)

大鳥塚古墳は古墳時代中期に築造されたと考えられる大型前方後円墳で、葺石をはじめ、円筒埴輪列や形象埴輪が出土していますが、第二次大戦中のいわゆる戦争遺跡という側面も併せ持つ古墳です。


歴史と概要

現地説明板や藤井寺市ホームページなどによると、大鳥塚古墳の規模は墳丘長約110m、後円部の直径約72.6m、高さ約12.3m、前方部の幅約50m、高さ約6.1mで、前方部をほぼ南に向けた前方後円墳となっています。百舌鳥・古市古墳群では変則的な墳丘で、後円部は3段、前方部は2段に築盛されており、後円部の高さが前方部の倍ほどと著しく高いことが特徴となっています。また、くびれ部の両側に造出しが設けられ、墳丘の周囲には幅の狭い馬蹄型の濠が巡らされていました。

墳丘表面では葺石をはじめ、円筒埴輪列や、家形・蓋形・盾形・靫形・冑形埴輪などの形象埴輪が確認されています。埋葬施設は後円部に粘土槨の存在が報告されており、刀、剣、鉾、鏃など鉄製武器が副葬されていたようです。前方部からは銅鏡1面(宮内庁書陵部に所蔵)と鉄刀が出土しており、埋葬施設の存在が推測されている他、さらに銅鏡1面の出土が伝えられていますがこちらは現在所在不明のようです。

これらのことから、大鳥塚古墳の築造時期は5世紀の古墳時代中期中葉と考えられています。また、すぐ北側には現在西名阪自動車が東西に走っていますが、その高架下には赤面山古墳があり、同時期に造られていることから大鳥塚古墳の陪塚と考えられています。


古市古墳群内での位置を見ると、南にある全国第2位の巨大な応神天皇陵と、北にある古市古墳群内では中規模古墳である古室山古墳の間に位置していますが、厳密には応神天皇陵、誉田丸山古墳、大鳥塚古墳、赤面山古墳(西名阪自動車道の高架下)、古室山古墳、仲姫命陵と南から北東にかけて並ぶ一連の古墳の真ん中ともいえます。

地形的には、大鳥塚古墳東側の住宅地から見るとわかりにくいですが、古墳西側を南から北に流れる大水川の方から見ると少し高い位置、つまり中位段丘(国府台地)の西側縁辺部に築かれていることがわかります。

大鳥塚古墳(藤井寺市)
説明板

大正時代に刊行された大阪府全志には、当時の南河内郡道明寺村大字古室の栗塚(現在の古室山古墳)の南にある大鳥塚古墳について、前方後円の墳丘には松の木が生い茂り、濠の址が歴然としていた、とあります。

第二次大戦末期の昭和20年(1945年)頃には、大鳥塚古墳から3.5kmほど北にあった大正陸軍飛行場(現在の八尾空港)の機能を疎開・補完する形で現在の藤井寺市内にも様々な軍事関連施設が建設されたようで、当古墳には墳丘を利用して掩体壕(ここでは航空機を防護・隠匿するためのもの)が設置されました(後述)。


昭和31年(1956年)9月22日に他の古墳4基と合わせて「古室山古墳群」として国の史跡に指定され、平成13年(2001年)1月29日に古室山古墳群と他の古墳を合わせて、国の史跡の指定名称を「古市古墳群」に変更しています。

昭和56年(1981年)~平成2年(2000年)の間に藤井寺市教育委員会などの発掘調査が数度実施されています。

令和元年(2019年)7月6日に世界文化遺産に登録された古市古墳群の26基の古墳の一つとなっています。


戦争遺跡としての大鳥塚古墳

大鳥塚古墳には前述のように第二次大戦末期に大正飛行場に関連して航空機用の掩体壕が設置されており、現在でもその痕跡を見ることが出来ます。


現在の八尾空港は、昭和8年(1933年)に民間機パイロットの養成訓練を目的とした阪神飛行学校として当時の中河内郡大正村大字南木本・太田に設置されました(設置年は諸説あり)。昭和14年(1939年)に大正飛行場と改称され、昭和15年(1940年)からは帝国陸軍専用の大正陸軍飛行場となりました。

日本本土への空襲の危険度が高まる昭和19年(1944年)7月、陸軍は京阪神防空のため第18飛行団を改変し陸軍第11飛行師団(天鷲1041)を編成。司令部が大正飛行場に置かれました。配備されていた部隊では二式戦闘機「鍾馗」、三式戦闘機「飛燕」、四式戦闘機「疾風」、五式戦闘機などが使用されていたとの情報も。


大正陸軍飛行場には現在と同じく2本の滑走路がありましたが、他にも飛行場の北に1本、南に2本の一般の道路(府道)を利用した予備滑走路が設定されていました。

盡忠報國さんのブログ「大日本者神國也」(関連ページ)によると、昭和12年(1937年)に設定された北の予備滑走路は現在の八尾市内にあり説明板も設置されている一方、南の2本の予備滑走路は昭和20年7月に設定され、いずれも現在の藤井寺市内にあるものの説明板などは無いようです。

この内、大鳥塚古墳の掩体壕に関連するのは南の2本の予備滑走路で、戦後間もなくの航空写真を見ると、当時からある大鳥塚古墳南側(応神天皇陵北側)の道路を西に進むと、ちょうど両予備滑走路の中間に出たようです。この掩体壕と予備滑走路の連絡路は、大鳥塚古墳南側から大水川を渡って真っ直ぐ西に進み、当時は無かった国道170号(外環状線)「西古室」交差点を越えさらに西進、サンド山古墳手前でやや左に折れてさらに270mほど直進して予備滑走路に到達します。この地点を挟んで北と南の直線道路が予備滑走路とされていたようで、現在は府道186号大阪羽曳野線に指定されています。なお、藤井寺の南側予備滑走路のすぐ東にははざみ山古墳や野中宮山古墳がありました。


大鳥塚古墳の掩体壕は後円部の北東、北西、西側の3ヶ所に設けられていましたが、八尾市に残る有名なコンクリート造のものとは違い、屋根の無い簡素な無蓋掩体壕だったようです。また、後円部の墳頂付近には4座の対空機関砲(規模からして機関銃とも)陣地が設置されていたとされますが、これらがどのように実戦に使用されたかは不明です。

ちなみに、現在の藤井寺市内では終戦時、津堂城山古墳近くに陸軍官舎が、仲哀天皇陵南側に疎開して来た整備工場があったそうです。


戦後、大正飛行場は阪神飛行場と改称され、昭和29年(1954年)まで米軍に接収されていましたが、昭和31年(1956年)に正式に八尾飛行場となりました。


古墳の現状

大鳥塚古墳は第15代応神天皇の陵とされる誉田御廟山古墳(厳密には応神天皇陵倍塚とされる誉田丸山古墳)の北側にあるので、初めて訪れる場合は案内の多い応神天皇陵拝所を目指すと良いかもしれません。

大鳥塚古墳(藤井寺市)
右が大鳥塚古墳

東側の道明寺駅や土師ノ里駅方面から、国道170号(旧道)と国道170号(外環状線)を結ぶ大鳥塚古墳南側(応神陵北側)の道路を通って大鳥塚古墳に向かうと、上の写真の風景が現れます。なお、この道路の南が羽曳野市、北が藤井寺市となっています。

大鳥塚古墳(藤井寺市)
古墳南東より

道路から少し北に墳丘(前方部)が見えますが、道路との間にはいわくありげな敷地があります。

大鳥塚古墳(藤井寺市)
「史跡 大鳥塚古墳」の石標

古墳南東に「史跡 大鳥塚古墳」の石標が建てられています。

大鳥塚古墳(藤井寺市)
南西より

南側の道路を西(応神陵拝所方面)に進むと、東側より木々が少ないのか墳丘の様子が良く見えます。

大鳥塚古墳(藤井寺市)
墳丘西側を南から

大鳥塚古墳の墳丘の周囲には作が巡らされており、南と東側は道路、北と西側は(恐らく)私有地になっているようです。

墳丘の周囲には幅の狭い濠が馬蹄形に巡らされていましたが、当初から濠には水を湛えていなかったと推測されており、現在は埋没保存されています。

大鳥塚古墳(藤井寺市)
墳丘東側を南から

墳丘東側に戻って改めて北側に延びる道路を見ると、手前に案内板が設置され、その近くに墳丘の登り口のようになっている部分があります。

ちなみに、この東側の道路は北に進むと細道を通って西名阪自動車の高架下に出るので、赤面山古墳や古室山古墳、仲姫命陵方面と往来する古墳巡りルートにもなっています。

大鳥塚古墳(藤井寺市)
北東側から見た後円部

様々な角度から見ることの出来る前方部の倍ほどの高さがある後円部を確認しやすいのは北東側からのみのようです。

大鳥塚古墳(藤井寺市)
墳丘の様子

墳丘は比較的なだらかで、木々は多いものの葺石などはほとんど確認出来ないようでした。

大鳥塚古墳(藤井寺市)
前方部から見た後円部

今回の撮影時は春先でまだ枯葉に覆われている状態で、見学には適した時期でした。

大鳥塚古墳(藤井寺市)
後円部墳頂より北を望む

粘土槨、あるいは防空用の機関砲(銃)陣地があった後円部から北を見ると、木々の間に高速道路の高架、さらにその向こうに古室山古墳の後円部が見えます。

大鳥塚古墳(藤井寺市)
後円部から見た前方部

一方、後円部から南側を見ると、なだらかな前方部の先に、誉田丸山古墳、さらにその奥に巨大な応神天皇陵があります。

大鳥塚古墳(藤井寺市)
墳丘から見た西側の風景(右に掩体壕跡)

後円部の北東、北西、西側の3ヶ所に設けられていた掩体壕の跡は、墳丘を削ったコの字形の窪みとして確認できます。


アクセス

大鳥塚古墳の最寄駅は近鉄南大阪線「土師ノ里」駅か、「道明寺」駅となります。

「土師ノ里」駅からは、改札を出て目の前の国道170号(旧道)を左(南)に歩き、約650m先の「道明寺5丁目北」交差点を右折。500mほど道なりに進むと右手に大鳥塚古墳があります(説明場や石票、登り口もこの辺りに)。

「道明寺」駅からは、駅前の道明寺天神通り商店会を通って西へ約250m、道明寺天満宮の神門前を左折します。南に150mほど進んで交差点を右折。さらに250mほど進むと国道170号(旧道)の「道明寺5丁目北」交差点に出るので横断して直進。道なりに約500m進むと右手に大鳥塚古墳が見えます。


西側の国道170号(外環状線)から向かう場合、「西古室」交差点を目指し、藤井寺・八尾方面からは左折、富田林・河内長野方面からは右折し250mほど先の橋を渡ると、右に応神天皇陵と誉田丸山古墳、左に大鳥塚古墳があります。大鳥塚古墳の説明版や石標、登り口は応神天皇陵拝所前を通過してさらに50mほど東に進んだ左手(北側)にあります。

応神天皇陵拝所の西側にある「宮内庁書陵部古市陵墓監区事務所」に入ると応神天皇陵参拝者用の駐車場(無料)があります。ここに停められない場合は、古墳東側の茶山テニスコートのコインパーキングなどが比較的近いです。

「古市」駅から参拝する場合は誉田八幡宮の記事を参照してください。


Otorizuka Mounded Tomb(Fujiidera City,Osaka Prefecture)


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