安閑天皇陵
2020年10月訪問
安閑天皇陵(あんかんてんのうりょう)は 大阪府羽曳野市古市にある前方後円墳で、古市高屋丘陵(ふるちのたかやのおかのみささぎ)として、宮内庁により第27代安閑天皇の陵に治定されている他、合葬されているとされる継体天皇皇女で安閑天皇の異母妹にあたる神前皇女(かんさきのひめみこ)の墓に治定されています。また、考古学的な遺跡名としては「高屋築山古墳」と呼ばれています。
安閑天皇陵(羽曳野市) |
現在では、近鉄南大阪線、長野線、国道170号(旧道)、さらにかつての主要道であった東高野街道に囲まれる形となっていますが、戦国時代には城としても使用された歴史があります。
歴史と概要
安閑天皇陵(高屋築山古墳)は国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産に登録された百舌鳥・古市古墳群の内、古市古墳群に属する古墳で、同古墳群のほぼ最南端にあります。古市古墳群のうち26基の古墳は、2019年(令和元年)に国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産に「百舌鳥・古市古墳群 -古代日本の墳墓群-」として登録されましたが、当古墳はそのリストには入っていません。
築造時期は、出土した埴輪や須恵器の特徴、正倉院と同種のペルシャ製ガラス椀の年代観から、古市古墳群で前方後円墳が築造されなくなる直前の6世紀前半頃と考えられています。前方部をほぼ西に向けたこの古墳は、石川から西に約500mの距離にあり、その周辺には日本武尊白鳥陵や清寧天皇陵、北約1.3kmには応神天皇陵があります。また、200mほど南には宮内庁により安閑天皇皇后である春日山田皇女の陵に治定されている古市高屋陵(ふるちのたかやのみささぎ)もあります。こちらは高屋八幡山古墳とも呼ばれています。
安閑天皇陵古市高屋丘陵 |
現地説明板などによると、安閑天皇陵の墳丘長は約122mあり、後円部の直径約78m、高さ約13m、前方部の幅約100m、高さ約12.5mとなっています。周囲を濠で囲まれた前方後円墳で、西側に向けた前方部は開き、東側の後円部の方が僅かに高くなっています。周濠は幅約15mで全周しますが、南西と南東に墳丘と外堤が細い土手(土橋)でつながっている部分があります。
安閑天皇陵の築造された場所は石川左岸にある高屋丘陵とも呼ばれる高台の上で、古墳時代には物部氏の系統である「高屋連(たかやのむらじ)」が本拠地としていたようです。陵墓が造られたのはその丘陵地の北端かつ最高所でした。このように、安閑天皇陵の所在地は要害の地であり、さらに川や街道にも近く交通の要衝を押さえるのにも適切な位置であることから中世には当古墳を本丸とした高屋城が築かれていました(後述)。
安閑天皇陵の説明板 |
安閑天皇
第27代安閑天皇は広国押建金日命(ひろくにおしたけかなひのみこと)とも呼ばれ、諱を勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ)としています。第26代継体天皇の長子で、母は尾張目子媛(おわりのめのこひめ)。都は勾金橋宮(まがりのかなはしのみや)で、これは現在の奈良県橿原市曲川町付近と考えられており、明治時代には同地に金橋村が発足しています。後に金橋村は橿原市に編入され消滅しましたが、今も「JR金橋駅」などに名を残しています。
継体天皇は、継体天皇25年(531年)に皇位を皇子である勾大兄皇子に譲位したとされますが、これは記録上最初の譲位例とされています。安閑天皇は関東から九州にかけて直轄地である屯倉(みやけ)を大量に設置したとされ、日本書紀などには41ヶ所の屯倉の名が列挙されている他、これに伴って犬養部が設置されたことが記されています。なお、安閑天皇は66才で即位しましたが、4年後に崩御されています。
神仏習合の時代には蔵王権現と同一視されていたことから、明治時代の神仏分離以降は従来蔵王権現を祀っていた神社が御祭神を安閑天皇と改めたところも多いようです。南河内では堺市美原区に安閑天皇の名を付けた広国神社(廣國神社)があり、当然主祭神としても祀れている他、900mほど西北西の軽羽迦神社も蔵王権現が御祭神となっています。
古墳の現状
安閑天皇陵の西側には国道170号(旧道)が南北に通っており、その拝所も国道に面した形で設けられています。
拝所入口 |
国道の東側に「安閑天皇古市高屋丘陵」の標石が建てられている場所が拝所の入口です。
管理事務所? |
入口の左手に事務所のような建物がありますが普段は無人のようで、管理は応神天皇陵北側にある宮内庁書陵部古市陵墓監区事務所が行っているようです(御陵印などもそちらに)。
拝所から |
東を向いて参拝すると、鳥居の向こうに木々に覆われた小山のような陵墓を見ることができます。
拝所の南側の濠 |
拝所から右手(南)に向かうと行き止まりとなっていますが、濠の向こうに墳丘と土手がつながっている箇所が見えます。
北西の角 |
拝所を出て周濠沿いに北に進むと、古墳の北西角辺りから柵越しに良く見える場所があります。
北側の“くびれ”付近 |
安閑天皇陵の周囲は現在、東側と南側の大部分が民家などで接近不可能ですが、西側と北側からは間近に濠と墳丘を見ることができます。
北東より南を望む |
北東からは後円部のカーブがよくわかります。
南東より北を望む |
東側の住宅地を迂回して南側の道路(東高野街道)に出ると、古墳南東部付近にも見学できる場所があります。
南東より東を望む |
この古墳南東部の東高野街道沿いに「安閑天皇陵古墳」のカラー案内板が設置されており、案内板周辺から古墳の南側が見えます。この案内板の前に押ボタン式信号機があり、横断歩道で東高野街道を渡った南側に「高屋城の不動坂」の案内板もあります(後述)。
なお、この付近は交通量のわりに歩道が無いところもあるので見学には注意が必要です。
高屋城趾
前述のように、中世(室町時代後半頃)この辺りには管領の畠山氏の居城である高屋城がありました。高屋城は東に石川を見下ろす独立した丘陵上に築かれた城で、丘陵の最も北で最も高い位置にあった安閑天皇陵を本丸として、その南に二の丸(皇后である春日山田皇女の陵があります)、三の丸を配していました。現地の説明板などによると、二の丸は東西約350m、南北約200m、三の丸は東西250m、南北約250mあったとされ、城全体の規模は東西約450m、南北約800mに及び、一つの曲輪の面積では日本最大級ともいわれています。
高屋城址の説明板 |
高屋城の築城時期については諸説あり、応永年間(1394年~1428年)に畠山基国によって築かれたともいわれていますが、当時の文献には古市城や誉田城などと記載されていることもあり、羽曳野市教育委員会では出土遺物の検討から、応仁の乱後の文明11年(1479年)頃に畠山義就が築城したと推定できる、としています。
一時は河内国の守護所ともなった高屋城の城主には河内の守護を兼ねていた人物が多かったものの、その分様々な争いごとに巻き込まれ、100年ほどの間に城主が10名前後、30回以上も入れ替わっており、高屋城が戦場になることも度々ありました。河内国南部を支配するため畠山氏や三好氏が拠点とした高屋城ですが、天正3年(1575年)4月に織田信長の攻撃を受けて敗れ、城主三好康長は降伏。その後、高屋城は廃城となったようです。
高屋城は土塁と堀で仕切られた中世の城でしたが、安閑天皇陵は周濠もあって守りに適していたことから本丸として利用され、元々の形態が大きく改変されています。それでも、かつて城主であった畠山稙長(たねなが)は「本城ニハ恐レ」て居住せず「二ノ丸」に居住していたようで、城として利用しつつも古墳に対しては畏敬の念を抱いていたようです。
「高屋城の不動坂」の説明板 |
古市村から高屋城内へは東高野街道を通って入りますが、高い土塁に挟まれた坂道を上ります。この坂道は近くに不動明王が祀られていたことから「不動坂」と呼ばれていました。
高屋不動明王付近から古市方面を望む |
現在は、近鉄南大阪線の踏切の南、東高野街道の西側の高台の上に「高屋不動明王」が祀られています。また、「城山北」交差点から40mほど東には「城山姥不動明王」も祀られています。両不動尊にはそれぞれ由緒記があり、姥不動明王の側には「高屋城趾」の説明板もあります。
また、安閑天皇陵から50mほど北東に位置するこの付近では、平成20年(2008年)に高屋城の土塁の下から前方後円墳の遺構が発見され、城不動坂古墳と呼ばれています(現在は消滅)。
古市方面から見た不動坂 |
河内国古市郡にある安閑天皇陵を本丸とする高屋城の北には古市村があり、村内を日本最古の官道とされる竹内街道が横断していました。また、京から高野山へと向かう街道の一つ、東高野街道は古市村を縦断した後、高屋城の北東から城内に入り南へと抜けていました。ちなみに、南側の門の少し北の東高野街道沿いには現在、式内社である高屋神社が鎮座しています。また、高屋城や古市村の東を流れる石川を渡ると大和国(現奈良県)への街道がありますが、石川の水運を利用して大坂や堺方面との行き来も出来るなど、古市は今も昔も交通の要衝でした。
なお、現在丘陵の西側を南から北に大乗川(だいじょうがわ)が流れており、安閑天皇陵のすぐ北西で東に流れを変え石川に合流していますが、これは江戸時代に流路を変更したためで、元来は北流していました。
近鉄線の奥の小山が安閑天皇陵(北東より) |
高屋城のあった頃と違い、安閑天皇陵の北側には斜面の下を近鉄線が走り大乗川が流れていますが、少し離れると陵墓が築かれた場所が丘陵地の上であったことが良くわかります。
アクセス
近鉄南大阪線・長野線「古市」駅のすぐ西にある国道170号(旧道)「白鳥」交差点から南に約500m進んだ左手です(近鉄線を越える跨線橋を渡ってすぐ)。同じく国道170号(旧道)の「新町南」交差点(南阪奈道路の高架下)からは約1.4km北となります。
安閑天皇陵には駐車場が無いので古市駅付近でコインパーキングを探し、周辺の古墳や神社などと一緒に巡るのもよいかと思われます。
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