日本武尊白鳥陵古墳(羽曳野市) ・市名の由来となったヤマトタケルの御陵

日本武尊御陵

2017年5月訪問
日本武尊白鳥陵古墳(やまとたけるのみことはくちょうりょうこふん)は近鉄古市駅からほど近い大阪府羽曳野市軽里にある前方後円墳ですが、学術的には「軽里大塚古墳(かるさとおおつかこふん)」と呼ばれ、別名を「前の山古墳(まえのやまこふん)」ともいいます。

日本武尊白鳥陵古墳(羽曳野市)
170号線(旧道)沿いの竹内街道入口(西向き)

「日本武尊白鳥陵」という名称は、実際の被葬者が明らかでないこの古墳を宮内庁が「白鳥陵(しらとりのみささぎ)」としてヤマトタケルの御陵と治定したことから付けられた名称ですが、羽曳野市という市名の由来になったヤマトタケルの伝説とともに広く親しまれています。

世界遺産登録を目指す古市古墳群

平成29年(2017年)現在、大阪府の南東部、羽曳野市や藤井寺市にまたがる古市(ふるいち)古墳群は、堺市の百舌鳥(もず)古墳群とともに世界遺産登録を目指したキャンペーンを行っているのでニュースで話題になることもあり、知名度も上がっているかと思います。

※令和元年(2019年)7月6日午後に、百舌鳥・古市古墳群の世界文化遺産登録が決定し、白鳥陵古墳もそのリストに入っています。




この古墳のすぐ近くに近鉄の古市駅がありますが、古市古墳群にも使われる古市という地名はもともとその近辺の河内国古市郡古市村からきています。古市周辺は竹内街道や東高野街道といった陸路、石川や大和川といった水路が交わる交通の要衝であり、石器時代から戦国・安土桃山時代までの様々な史跡もあります。

日本武尊白鳥陵古墳(羽曳野市)
白鳥陵と2つの天皇陵へ繋がる竹内街道

古市古墳群には前方後円墳、円墳、方墳など合計で123基の古墳があり、一辺10mにも満たない方墳から墳丘長400mを超える応神天皇陵(誉田御廟山古墳)まで様々なタイプの古墳があります。これらの形成時期は4世紀後半から6世紀中葉とされています。

日本武尊白鳥陵古墳(羽曳野市)
後円部の東側

概要

そんな古市古墳群の南部に日本武尊白鳥陵はあります。その全長は約190mあり、後円部の径は約106m、高さは約20m。前方部の幅は約165mで、高さは約23mあって古市古墳群で7番目の大きさとなっています。。墳丘は三段築成で前方部を西、後円部を東に向け、くびれ部の両側には造り出しがあります。古墳の周囲には幅約35mの周濠と上面幅21mの堤がめぐらされ、現在周囲はほぼ住宅地になっていて、濠の北辺に接するように日本最古の官道である竹内街道が東西にのびています。

周辺を見ると、北側に軽里古墳群、青山古墳群の他、石器時代の遺跡とその跡に造られた「翠鳥園遺跡公園 石器人のアトリエ」、竹内街道を西に約200m行くと軽羽迦神社(かるはかじんじゃ)、南西に清寧天皇陵、南東に安閑天皇陵と春日山田皇女陵などがあります。

日本武尊白鳥陵古墳(羽曳野市)
前方部の西側

主体部や副葬品は不明ながら、昭和56年(1981年)に宮内庁が墳丘崩壊箇所の発掘調査を行ったところ、後円部で列状に並んだ円筒埴輪が見つかり、また外堤部分では家形埴輪や盾形埴輪が発見されたそうです。

日本武尊白鳥陵古墳(羽曳野市)
中央の住宅の間に拝所が見えます。

前方部の幅が後円部径の約1.5倍もある特徴や出土した埴輪の形状から5世紀後半の築造とされています。拝所は前方部の西側の対岸にあります。

日本武尊白鳥陵古墳(羽曳野市)
白鳥陵の説明と周辺の史跡の案内が書いてあります。

ヤマトタケルと羽曳野

前述のように、この古墳は宮内庁により日本武尊白鳥陵としてヤマトタケルの陵墓として治定されていますが、その根拠となったのが記紀などに記されるいわゆる「白鳥伝説」です。

日本武尊白鳥陵古墳(羽曳野市)
古墳西側にある住宅に囲まれた拝所への入口

ヤマトタケルは第12代景行天皇の皇子で第14代仲哀天皇の父。古事記では「倭健命」、日本書紀では「日本武尊」と表記され、もとの名は「ヲウス」または「ヤマトヲグナ」と呼ばれていました。九州の熊襲(くまそ)征討や東国の蝦夷(えみし)征討などで数々の伝説を残した日本の古代史上の英雄として有名です。

「白鳥伝説」は古事記と日本書紀で内容の異なる部分もありますが、概要は以下の通りです。
 
ヤマトタケルは東征の帰途、伊吹山(現在の滋賀県と岐阜県の間にある山)の神との戦いに敗れ、大和国に帰還する途中、伊勢国(三重県)の能褒野(のぼの)で力尽き、その地で葬られます。やがてヤマトタケルの魂は白鳥(当時は白い鳥全般を指したとも)に姿を変え、大和国を目指して飛んで行き、最終的には天に昇って生きました。

日本書紀の記述によると、この伝説の中で白鳥に姿を変えたヤマトタケルの飛行ルートが能褒野→大和琴弾原(ことひきのはら)→河内旧市邑(ふるいちのむら)であったことから、この3箇所に陵墓を築いたとされます。
 
日本武尊白鳥陵古墳(羽曳野市)
宮内庁による看板

河内の旧市邑(古市村)から再び白鳥と化したヤマトタケルは埴生(はにゅう)の丘に向かって羽を曳くように飛び去ったと言われることから、南大阪町は昭和34年(1959年)1月15日に市制に移行する際に名称を一旦「南大阪市」にした後、即日「羽曳野市」という歴史ロマンあふれる名としました。

「はびきの」という読みに関しては、明治時代の地図にも「埴生野」と書いて「ハビキノ」という振り仮名が確認されます。この地名が記されていたのは旧河内国丹南郡伊賀村、向野村、埴生野新田、野々上村付近で、これらの村は明治時代に合併して埴生村(はにゅうむら)となりました。この地は現在の「羽曳野市はびきの」とその周辺で、埴生野新田の氏神である「埴生野神社」が鎮座しています。また、羽曳野市南西部には「埴生野」と書いて「はにゅうの」と読む行政地名が残っています。


現在、日本武尊白鳥陵古墳の所在地は羽曳野市軽里(旧河内国古市郡軽墓村)となっていますが、その鎮守である軽羽迦神社の御祭神は日本武尊ではありません。一方、東の近鉄線の踏切を渡ると羽曳野市古市の白鳥神社(しらとりじんじゃ)がありますがありますが、こちらでは日本武尊が祀られています。白鳥神社はかつて古市村に隣接する軽墓村西方の伊岐谷(いきだに。井喜谷)にあった伊岐宮(いきのみや)が本来の宮で、その伊岐宮はもともと白鳥陵古墳の頂にあったとも伝えられています。しかし、白鳥陵古墳にあった伊岐宮は戦乱で焼失し、軽墓村西部の峯ヶ塚古墳に小祠として再建されましたが、文禄5年(1596年)の「慶長の大地震」で倒壊・放置された後に現在の地に遷座したと伝えられています。

また、江戸時代頃には峯ヶ塚古墳が日本武尊の陵墓と考えられていたともいわれています。

日本武尊白鳥陵古墳(羽曳野市)
西の前方部側にある拝所

現在ヤマトタケルの陵墓とされているのは三重県亀山市田村町の能褒野墓(のぼののはか)、奈良県御所市冨田の白鳥陵(しらとりのみささぎ)、そしてこの大阪府羽曳野市軽里の白鳥陵で、現在この陵墓のある3市は姉妹都市となっています。

現在の陵墓名で皇子の墓に「陵」の文字が使われること、一人に3ヶ所の陵墓が治定されるのは極めて異例なので、「ヤマトタケル」という存在の大きさに改めて驚かされます。


アクセス

最寄り駅は近鉄南大阪線・長野線の「古市」駅です。駅を出て階段を下り右に曲がり、ロータリーの前の道を少し進むと国道170号線(旧道)と交わる「白鳥」交差点に出ます。そこを左折し100mほど進むと右に「仁賢天皇 清寧天皇 日本武尊御陵参拝道」の石碑の立った細い道の入口があります。これが竹内街道なので赤く舗装された住宅街の中の道を約200m西に進むと左手に大きな濠と木の生い茂った日本武尊白鳥陵古墳が見えます。なお、その先で左に行けば清寧天皇陵、直進して右に曲がれば仁賢天皇陵を参拝できます。

古墳の北西端には「ウォーキングトレイル」と書かれた付近の地図・案内板があります。
拝所へは案内板からさらに100mほど進み(40mほどで左に入る道が近道ですが細いです)、十字路を左折しさらに100mほど歩くと左に「白鳥陵」の矢印が出ているのでその方向へ住宅の間を進むと行けます。

日本武尊白鳥陵古墳(羽曳野市)
古墳の西側、外環状線との間にある拝所への看板

車では国道170号線(外環状線)の「軽里北」交差点を東(古市駅方面)へ進み、国道170号線(旧道)の「白鳥」交差点周辺にいくつかあるコインパークを探し、前述の竹内街道入口を見つける方が分かりやすいかと思われます。

Yamatotakerunomikoto Hakuchouryou(Karusatoohtsuka) Tumulus(Habikino City,Osaka Prefecture)


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