峯ヶ塚古墳
2021年12月訪問
峯ヶ塚古墳(みねがづかこふん)は大阪府羽曳野市軽里にある古墳です。日本最古の官道とされ今も注目される竹内街道や、現代の南河内の主要道の一つである国道170号(外環状線)の近くに位置し、周囲は峰塚公園として整備されているので見学しやすい古墳といえます。
峯ヶ塚古墳(羽曳野市) |
藤井寺市と羽曳野市にまたがる古市古墳群に属する峯ヶ塚古墳は国の史跡に指定されているだけでなく、古市古墳群を構成する主要な古墳の一つとして令和元年(2019年)7月にユネスコの世界文化遺産のリストにも登録されています。
歴史と概要
峯ヶ塚古墳は、宮内庁が管理する大規模な古墳も多い古市古墳群の中にあって内部施設が発掘調査されている数少ない前方後円墳で、羽曳野市の中央部、古市古墳群南西部の羽曳野丘陵(埴生山)東側に位置しています。
現地説明板などによると、峯ヶ塚古墳は前方部を西(西南西)に向けた前方後円墳で、その規模は墳丘長約96m、前方部の幅約74.4m、高さ約10.5m、後円部の直径約56m、高さ約9mで2段に築かれています。くびれ部分の北側にのみ造り出しが設けられていますが、発掘調査の結果、想定よりも大規模なものであったことがわかっています(後述)。また、外部施設として南を除く三方に二重濠を有し、墓域は東西約168m、南北約148mを測ります。
説明板 |
当古墳では10回以上の発掘調査が行われているようで、平成3年(1991年)の調査では後円部の中央(墳頂)付近で新たに石室が確認されました。石室は天井や側壁の石が抜き取られるなど盗掘を受けていたものの、3500点を越える膨大な数の副葬品が納められていました。
「古市古墳群を歩く」によると、石室は現墳頂より約3m下から築かれ、その大きさは東西約4.3m、南北約2.2mで、未調査部分があるものの現時点では竪穴式石室と考えられているそうです。なお、石室には遠く離れた阿蘇産の溶結凝灰岩製の繰り抜き式の舟形石棺が埋葬されていたと考えられています。
一方、出土した埋葬品は、青銅鏡(小片)、銀や鹿角製(ろっかくせい)などの装飾品を付けた大刀をはじめ、武器や武具、馬具など軍事的な副葬品や、装飾品となる金銅製の冠帽や帯金具、魚佩(ぎょはい)、銀製の垂飾りや花形飾り、ガラス玉や石製玉類(勾玉、臼玉、管玉)などがありました。特に長さ1.2mに達する太刀は実用を離れた儀仗的なもので、被葬者を象徴する副葬品とみられています。
前述のように、墳丘は二段に築かれていますが、葺石は二段目(上段)斜面の裾部分のみに施されているのみで、他の部分の表面に葺石は見られないようです。発掘調査で出土している円筒埴輪は新しい様相を示すものの、一部にやや古い埴輪も見つかっています。また、西側外濠の調査で人物埴輪や盾形埴輪などの形象埴輪が出土していることから、形象埴輪を伴う祭祀が墳丘上ではなく内提部に移行していたものと考えられています。
このように、副葬品や石棺、出土した埴輪の特徴などから総合的に考えて峯ヶ塚古墳の築造時期は5世紀末頃から6世紀初頭と考えられています。
峯ヶ塚古墳の所在地は明治の初めまで河内国古市郡軽墓村の西部にあたり、松や雑木の生い茂る荒陵だったようです。江戸時代には、日本武尊(やまとたけるのみこと)の陵墓である白鳥陵に比定されていましたが、現在は峯ヶ塚古墳から600mほど東にある軽里大塚古墳(前の山古墳)が宮内庁により「日本武尊白鳥陵」と治定されています。
現在、羽曳野市古市にある白鳥神社は、かつて軽墓村西方の伊岐谷(いきだに。井喜谷)にあった伊岐宮(いきのみや)が本来の宮だったようで、その伊岐宮はもともと白鳥陵古墳の頂にあったともいわれます。伊岐宮は南北朝時代や戦国時代の戦火により焼失したとされ、その後は峯ヶ塚古墳に小さな祠として再建されましたが、文禄5年(1596年)の「慶長の大地震」で倒壊し、江戸時代の寛永末期(1640年頃)に現在の地に遷座したと伝えられています。なお、軽墓村の鎮守は天照大神社(現在の軽羽迦神社)です。
また、峯ヶ塚古墳は第19代允恭天皇の第一皇子であった木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)の墓で、木梨軽皇子の墓が軽墓村の語源であるという言い伝えもあります(愛媛県四国中央市にある東宮山古墳が木梨軽皇子の墓といわれ、宮内庁陵墓参考地となっています)。
昭和49年(1974年)4月19日に国の史跡に指定され、令和元年(2019年)7月6日には、峯ヶ塚古墳を含む「百舌鳥・古市古墳群」の世界文化遺産登録が決定しました。
峰塚公園
現在、峯ヶ塚古墳周辺は「峰塚公園」として整備されています。公園南側にある「羽曳野市立峰塚中学校」と共に峯ヶ塚古墳にちなんだ名称のようですが、漢字は「峰塚」で読みは「みねづか」のようです。
峰塚公園は、昭和62年(1987年)に地区公園として都市計画決定がなされて整備された都市公園で、その広さは国の史跡である峯ヶ塚古墳を含む全体面積5.3haとなっています。
峰塚公園案内図 |
公園北側には峰塚公園管理棟(時とみどりの交流館)が建ち、さらにその北側の公園外を東西に走る道路は日本最古の官道である竹内街道となっています。また、園内西寄りには終末期古墳である小口山古墳(「河内軽里の掘抜石棺」として知られています)や小口山東古墳もあるなど、古代悠久の歴史とみどりを感じられる公園として5つのゾーンで構成されています。
なお、小口山古墳や小口山東古墳古墳のさらに西側には、白鳳時代に栄えた善正寺があったとされています。
令和3年度発掘調査成果
令和3年度(2021年度)の峯ヶ塚古墳発掘調査成果が発表され、12月11日(土)に発掘調査見学会が行われました。
羽曳野市教育委員会によると、墳丘北側の前方部と後円部の境にある造り出し部が、長さ20m、幅6m以上もあることが判明し、今回の現地説明会では発掘された造り出しの境界部や各種埴輪などを見ることが出来ました。
実測図 |
発掘現場東側 |
発掘現場西側 |
朝顔形埴輪と円筒埴輪 |
これまでの発掘調査から、峯ヶ塚古墳はその規模などから天皇に次ぐ人物の墓とみられており、被葬者にふさわしい規模の造り出しが設けられたと考えられ、その造り出し部は祭祀の場で埴輪も置かれていたと考えられています。周濠跡からは墳丘から転落したとみられる葺石や朝顔形埴輪、ほぼ全体が残った高さ約90cmの円筒形埴輪も見つかっています。
古墳の現状
国道170号(外環状線)から竹内街道を西に少し進むと、左手に峰塚公園が現れます。
北東から見た後円部(左奥に説明板) |
説明板は公園東端の後円部東端にあるので、洋菓子店の角を南に入るとすぐ右手に後円部の墳丘が見えて来ます。ちなみに、この道をそのまま南に進むと清寧天皇陵があります。
北西から見た後円部 |
峯ヶ塚古墳の墳丘自体には通常登れませんが、低い柵が墳丘ぎりぎりに巡らされているだけなので間近で古墳を見学することが出来ます。
古墳北側の広場 |
峯ヶ塚古墳北側の峰塚公園管理棟(時とみどりの交流館)との間は何もない広場のよう(LICはびきのの臨時駐車場になることも)になっていますがここにはかつて2重の濠があり、管理棟北側を通る竹内街道からは立派な濠を持つ古墳を見ることが出来たと想像される、とのことでした。
なお、当古墳の内濠の幅は約11m、内堤の幅が約18m、外濠の幅が約8mメートルあったとされています。
北西端の堤 |
墳丘北側の造り出し周辺発掘現場のさらに西、つまり前方部に向かうと、周辺の土地が徐々に高くなって行き丘陵地に差し掛かっていることがわかります。
そして、墳丘の西側から南側にかけて堤防が築かれていて、今もしっかりと水を湛えている風景が目に入ります。
峰塚公園整備前の航空写真を見ると、古墳の周囲は墳丘との境目まで田畑が接近しており、永らく内濠の西側から南側に当たる部分が溜池として利用されていたことがわかります。
池の向こうに見える二上山 |
前方部の西側付近は少し高くなっているので、東を見ると二上山から葛城山、金剛山まで見渡すことが出来ます。
西側から見た南側の濠(池) |
古墳の南側には、古墳と真っすぐ延びる堤と公園の美しい芝生の風景が広がっています。
東側の堤 |
古墳南側にある公園出入口(公園駐車場の出入口もあり)から東側の道路に出ると、こちら側はかなり堤の高さがあることから、改めてここが丘陵地であるとに気付かされます。
現在は公園の中に保存される形の峯ヶ塚古墳ですが、古墳が全般的に縮小傾向をみせる古墳時代後期にあって、多数の副葬品や二重濠を持つ古墳を築造出来た大王級の人物が被葬者であったととも推測される貴重な古墳と感じられました。
アクセス
道路を挟んで北側に「羽曳野市立生活文化情報センター LICはびきの」、東側に「パティスリーフラワー(FLOUR) 竹内街道軽里店」がありますので遠方からの場合これらを目標にするとわかりやすいかと思われます。
近鉄南大阪線・長野線「古市」駅からは西に真っ直ぐ約1km。バスでは「古市駅前」、または「藤井寺駅前」から近鉄バスに乗車し「軽里一丁目」バス停で下車するとすぐ南の峰塚公園の中に当古墳があります。
車の場合は国道170号(外環状線)の「軽里北」交差点から西に100mほど進み、パティスリーフラワーの角を左折し南に約150m進むと右手に峰塚公園駐車場(有料)があります。
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