美具久留御魂神社
2018年8月訪問(2021年12月追記)
美具久留御魂神社(みぐくるみたまじんじゃ)は大阪府富田林市宮町にある神社です。富田林市外の人にはあまり聞きなれない社名かも知れませんが、南河内随一の神域の広さを誇る当社は「延喜式神名帳」という平安時代の書物に河内国石川郡9座のうちの一つとして名前のある式内社でもあります。美具久留御魂神社(富田林市) |
鎮座地は富田林市の北部、石川左岸の羽曳野丘陵の東麓であり、少し東には狭山池同様に古くから地域の農業を扶けてきた人口のため池「粟ヶ池(あわがいけ)」があります。この粟ヶ池は紀記に記載がある仁徳期の丸邇(わに)池(古事記)、和珥(わに)池(日本書紀)であるともいわれ、古代からこの周辺が重要な地域であったと考えられています。
歴史と概要
社伝によると、美具久留御魂神社が創建されたのは第10代崇神(すじん)天皇の10年(紀元前88年)だったとされています。当時この地にはしばしば大蛇が出没して民を悩ませたので、崇神天皇自ら視察して「これは大國主命の荒御魂の荒振るなり宜しく祀るべし」として大国主命を祀らせたことに始まるというエピソードもあります(この事跡は神代、あるいは神武天皇8年のこととする説も)。日本書紀には、崇神天皇60年(紀元前38年)に天皇が出雲大神の宮(出雲大社?)の神宝を所望し臣下を派遣したところ、神宝を管理していた出雲臣の遠い祖先である出雲振根(いずものふるね)が筑紫国へ出掛けていて留守だったので、弟の飯入根(いいいりね)が独断で神宝を貢上。筑紫から戻った振根はこのことを聞いて激怒し弟を殺害しましたが、後にこのことは朝廷に聞こえ今度は振根が誅せられた、という話がありますが、この出雲の神宝が美具久留御魂神社に祀られている生大刀と生弓矢との説もあるようです。
その後、崇神天皇62年(紀元前36年)に丹波国氷上郡の氷香戸辺(ひかとべ・女性)の小児が神懸かりして「玉萎鎮石(たまものしずいし) 出雲人祭(いずもひとのまつる) 真種之甘美鏡(またねのうましかがみ) 押羽振甘美御神(おしはふるうましみかみ) 底宝御宝主(そこたからみたからぬし) 山河之水泳御魂(やまかわのみくくるみたま) 静挂甘美御神(しずかかるうましみかみ) 底宝御宝主也(そこたからみたからぬしなり)」という神託がありました。天皇は直ちに皇太子の活目入彦命(いくめいりひこのみこと=後の垂仁天皇)を河内国支子(きし)に遣わして祀り、「美具久留御魂大神」の名を贈り相殿に四神を配祀したと伝えられています。
この神託は「出雲大神は大国主命であり、大国主命は山河を泳ぎ渡ってきた和爾神(龍神)であり、水泳御魂大神である」と美具久留御魂大神の御神体を明らかにしたものです。
美具久留御魂神社の鎮座する丘陵は真名井ヶ原と呼ばれ、当社の社殿の他、摂社末社も多数ありますが(後述)、この丘陵は山そのものが御神体の神体山(神奈備山)となっています。これは奈良県桜井市三輪にある有名な大神神社(おおみわじんじゃ)と三輪山のような関係で、何かと共通点の多い神社といえます。
真名井ヶ原の頂上付近には4基からなる古墳群があって美具久留御魂神社裏山古墳群や宮神社裏山古墳群などと呼ばれています。また、かつて境内南側の住宅地には真名井古墳と呼ばれる前方後円墳が、北側の住宅地にも円墳の鍋塚古墳がありました(現藤井寺市の鍋塚古墳とは別)。
美具久留御魂神社の主祭神は美具久留御魂大神(大国主命)で、左殿に天水分神(あめのみくまりのかみ)、弥都波迺売命(みずはのめのみこと)、右殿に国水分神(くにのみくまりのかみ)、須勢理比売命(すせりひめのみこと)といった出雲や水に関係した神々が配祀されています。
千早赤阪村に鎮座し、同様の神を祀る建水分神社を上水分社と呼ぶのに対し、当社は下水分社(しものすいぶんのやしろ)とも呼ばれました。また、八尾市の恩智神社を下水分とする場合は当社を中水分と呼んだそうです。
美具久留御魂神社略記 |
美具久留御魂神社の主祭神は美具久留御魂大神(大国主命)で、左殿に天水分神(あめのみくまりのかみ)、弥都波迺売命(みずはのめのみこと)、右殿に国水分神(くにのみくまりのかみ)、須勢理比売命(すせりひめのみこと)といった出雲や水に関係した神々が配祀されています。
千早赤阪村に鎮座し、同様の神を祀る建水分神社を上水分社と呼ぶのに対し、当社は下水分社(しものすいぶんのやしろ)とも呼ばれました。また、八尾市の恩智神社を下水分とする場合は当社を中水分と呼んだそうです。
また、江戸時代の「五畿内志」の一つ「河内志」とそれを引いた「河内名所図絵」では「和爾(わに)池」が喜志村にあるとし、美具久留御魂神社について、「喜志村和爾ノ池の西にあり、一名、和爾神社」としています。和爾神社(わにじんじゃ)や和珥池(わにいけ)との関連は不明ですが、第5代孝昭天皇皇子の天足彦国押人命の三世、または四世孫とされる彦国葺命の子孫に和珥臣(和珥氏)がいます。彦国葺命を祭る神社としては、当社から5kmほど北の藤井寺市野中にある野中宮山古墳墳丘上に鎮座する野中神社があります。
このように「美具久留御魂」という名は「水泳御魂(みくくるみたま)」であり、建水分神社同様に水を司り、水を土地に配分する神を祀るということに由来すると考えられています。
当社は歴代天皇からの崇敬が厚く、文徳天皇の嘉祥3年(850年)には神階を従五位上に進められ、光孝天皇は河内大社の勅額を奉納されたそうです。延喜式には官幣社(小社)に列せられ「河内国二の宮」「石川郡総社」とも称せられました。また、平安時代末期(正歴(しょうりゃく)年中(990年~995年)頃?)には神域に根来宗正東山などの神宮寺がありました。
鎌倉時代末期、鎌倉方が赤坂城を攻めた際、喜志にあった西条城と共に当社も焼き払われましたが間もなく再建され、南北朝時代には南朝歴代の信仰も厚く戦乱の間にも朝廷はしばしば参拝されたり、社殿を造営するなどして治世の安泰を祈願しました。また楠木氏は、前述の上水分社(建水分神社)と共に、下水分社である当社を氏神として寄進するなどして篤く信仰しました。
その後、宮寺の支坊は次第に増加し、金蔵院(下之坊)、善福院、西徳院、自幸院、全福院、南島院、加福院、福正院(百萬院)、喜蔵院(正浄華院)、性徳院、福本院の11坊となり紀州根来寺に属し周辺に勢力を拡大したようです。天正の頃には17坊を擁する神仏の霊場となっていたようですが、織田信長の時代に寺領を没収され、天正13年(1585年)、豊臣秀吉の根来寺攻めの兵火により社殿を焼失し、以後神宮寺が再び建つことはありませんでした。しかし、武将からの信仰は厚く、秀吉、秀頼、さらには徳川家光によって修繕が行われ、江戸時代の万治3年(1660年)の拝殿の造営を以って社頭はほぼ元通りの姿を取り戻しました。
美具久留御魂神社説明板 |
当社は歴代天皇からの崇敬が厚く、文徳天皇の嘉祥3年(850年)には神階を従五位上に進められ、光孝天皇は河内大社の勅額を奉納されたそうです。延喜式には官幣社(小社)に列せられ「河内国二の宮」「石川郡総社」とも称せられました。また、平安時代末期(正歴(しょうりゃく)年中(990年~995年)頃?)には神域に根来宗正東山などの神宮寺がありました。
鎌倉時代末期、鎌倉方が赤坂城を攻めた際、喜志にあった西条城と共に当社も焼き払われましたが間もなく再建され、南北朝時代には南朝歴代の信仰も厚く戦乱の間にも朝廷はしばしば参拝されたり、社殿を造営するなどして治世の安泰を祈願しました。また楠木氏は、前述の上水分社(建水分神社)と共に、下水分社である当社を氏神として寄進するなどして篤く信仰しました。
(新)美具久留御魂神社案内図(2019年4月) |
その後、宮寺の支坊は次第に増加し、金蔵院(下之坊)、善福院、西徳院、自幸院、全福院、南島院、加福院、福正院(百萬院)、喜蔵院(正浄華院)、性徳院、福本院の11坊となり紀州根来寺に属し周辺に勢力を拡大したようです。天正の頃には17坊を擁する神仏の霊場となっていたようですが、織田信長の時代に寺領を没収され、天正13年(1585年)、豊臣秀吉の根来寺攻めの兵火により社殿を焼失し、以後神宮寺が再び建つことはありませんでした。しかし、武将からの信仰は厚く、秀吉、秀頼、さらには徳川家光によって修繕が行われ、江戸時代の万治3年(1660年)の拝殿の造営を以って社頭はほぼ元通りの姿を取り戻しました。
明治5年(1872年)に近代社格制度において郷社に列格し、明治40年(1907年)1月に神饌幣帛料供進神社に指定されました。大阪府全史巻之四によると、明治末の合祀についての詳細は以下のようになります。括弧内は御祭神。
明治40年10月7日に当時の西浦村大字東阪田字イの辻(現羽曳野市東阪田)の村社郡天神社(菅原道真・事代主命・大国主命)、12日に同村西浦村大字尺度字尺度(現羽曳野市尺度)の利雁神社(古市郡の式内:保食神・八幡大神・天児屋根命)、19日に大伴村大字山中田字宮山(富田林市山中田町)の大伴神社(大伴黒主。大友黒主神社とも)を合祀しました。
この合祀前の氏子地区は現在の富田林市市内に当たる喜志村、新堂村、富田林町でしたが、合祀後には大伴村大字山中田や現在は羽曳野市となっている西浦村大字東阪田、大字尺度も加わり広大なものになっています。
(旧)美具久留御魂神社案内図 |
平成6年(1994年)、氏神崇敬者の篤志により、本殿・拝殿・社務所等の大改築、摂末社の修繕などがなされ、平成8年(1996年)に完成しました。
今日では病気平癒や縁結びの御神徳、またすべての生業の守護神として(戦前は軍神とも)、多くの人の信仰を集めています。
神宝・文化財等
美具久留御魂神社の神宝は日本神話に登場する須佐之男の秘蔵の神器である生大刀(いくたち・生太刀とも)・生弓矢(いくゆみ)とされます。神話によると、大穴牟遅(おおなむち、後の大国主)は根之堅州国(ねのかたすくに)で須佐之男から須勢理毘売と生太刀、生弓矢、天詔琴(あめののりごと)を奪って葦原中国(あしはらのなかつくに)まで逃げ、そこで反抗する八十神をこれらで倒した後に葦原中国を平定し、大国主と名乗ったとされます。
生太刀はもともとは出雲大社の神剣でしたが、現在は当社で祀られています。
朝鮮通信使の絵馬 |
また、下拝殿右殿には「朝鮮通信使の絵馬」が掲げられています。これは天和2年(1682年)に友好親善使節として李氏朝鮮から日本へ派遣された第7回朝鮮通信使の船旅の様子を描いたもので、元禄8年(1695年)に喜志櫻井村から奉納されたものです。
祭礼
美具久留御魂神社の祭礼で有名なのが10月第3金曜日から日曜日にかけての秋祭りで、南河内屈指の規模を誇る地車(だんじり)祭として知られています。この秋祭りでは子供だんじりも含め計15台ほどのだんじりが近隣集落から集まります。これは千早赤阪村の建水分神社と並ぶ規模。また、神社からは御神輿が出ますが、近年は後述の御旅所まで渡御されていない年もあるようです。●美具久留御魂神社 公式ホームページ →https://www.migukurumitama.com/
参道と境内
美具久留御魂神社の神域は南河内随一の広さですが、一の鳥居は一般的な境内への入口と思われる注連柱からさらに500mほど東にあります。一の鳥居 |
一の鳥居は国道170号(旧道)の「桜井」交差点から外環状線へ向かう道路に入ってすぐにあります。一の鳥居がこの場所にあるのは、この辺りの国道170号(旧道)がかつての幹線道路である東高野街道と重なっており、もともと街道から丘の麓の神社への参道入口がここだったため、と思われます。
御旅所 |
また、一の鳥居のすぐ北側(喜志寄り)には玉垣と木々で囲われた一角がありますが、こちらは美具久留御魂神社の御旅所です。中央に石の舞台の様なものがありますが、これは現在神輿台として使われている石で、秋祭りにはここまで神輿渡御があるようです(近年は渡御されないことも?)。なお、御旅所の玉垣内の北に小祠がありますが、詳細不明です。また、御旅所から100mほど北に弘法大師ゆかりの「櫻井の井戸」があります。
粟ヶ池の北側を通る参道 |
大きな石造りの一の鳥居をくぐると道路はなだらかなS字カーブとなっています。左手には粟ヶ池があり、道路は粟ヶ池北岸の堤の上を通っています。この池の中には富田林市の市民会館(レインボーホール)などがあり、周辺の粟ヶ池共園は春には桜の名所となります。
平成30年(2018年)現在、粟ヶ池の橋が完成していないので旧道と外環状線という2本の国道170号を往来する車で交通量は多いので注意が必要です(粟ヶ池大橋は令和元年(2019年)8月開通)。
龍神社 |
神社への道路を市民会館前の中ほどまで進むと、フェンスと木々の向こうに小さな鳥居と祠が見えます。こちらは龍神社といって、美具久留御魂神社の御祭神である大国主命荒御魂が龍神であるという伝承に基づき昭和63年(1988年)に地元の人々によって祀られたもので、「和爾宮別宮」とも呼ばれています。
なお、龍神社への参拝コースは市民会館側からのみとなっていますが、通常はゲートが閉まっていて入れません。
「宮前」交差点 |
近鉄長野線の踏切を越えしばらくすすむと国道170号(外環状線)の「宮前」交差点に出ますが、ここまで来ると、正面に緑の丘とその麓の美具久留御魂神社が見えます。一の鳥居から社殿までの参道を近鉄線と外環状線が横切っていることになります。
社号標と注連柱 |
通常、外環状線から100mほど西の、社号標と注連柱のあるこちらから参拝される方が多いようです。
美具久留御魂神社大阪府自然環境保全地域の案内板 |
境内から本殿背後の丘陵に広がる樹林(鎮守の杜)は「大阪みどりの百選」に選ばれています。
二の鳥居 |
駐車スペースを抜けると二の鳥居があります。
社務所・下拝殿前 |
二の鳥居をくぐると正面に下拝殿が見えます。
社務所 |
左手には社務所、その奥に鎮魂殿があります。
蔵? |
右手にはお手洗いと神輿蔵などがある他、石垣の上に建てられた立派な石燈籠は左右にあります。
手水舎 |
下拝殿手前右側には大変趣のある手水舎。
盃状穴のある水盆 |
こちらの水盆は元禄6年(1693年)のもので、縁には多くの盃状穴(はいじょうけつ)と呼ばれる人為的に作られた窪みがありますが、これは安産祈願のために開けられたものとも考えられているそうです。
下拝殿 |
手水舎から少し石段を上ると拝殿がありますが、こちらは割拝殿形式の下拝殿で、上拝殿はさらにこの奥の長い石段を上った所にあります。
下拝殿の内部 |
当社の主祭神は大国主命ということで、参拝方法として一般的な二礼二拍手一礼とともに出雲大社と同じ二礼四拍手一礼も書かれています。
鳥居から覗く二上山(2017年元旦) |
下拝殿で参拝し、振り返ると歩いてきた参道や鳥居、そしてその先に二上山が見えます。当社は本殿から拝殿、鳥居と東向きにほぼ一直線に造られていて、その先に二上山があります。さらにその延長線上(約23km東)に鎮座する大神神社は当社と同じく山を御神体とし、祭神も大物主大神(大国主神の和魂(にきみたま)であるとされる)であるなど何かと関連性があるように思われます。
また、この美具久留御魂神社周辺には「旭ヶ丘」という地名が残っている通り、天気の良い日には美具久留御魂神社の鎮座する丘から綺麗に旭が昇る光景を見ることが出来ます。
祖霊社と周辺の石碑 |
下拝殿の右手には祖霊社があります。
獅子頭 |
祖霊社の前には獅子舞で用いられる巨大な獅子頭?が展示されていました。
上拝殿への石段(左)と神奈備山への道(右) |
下拝殿と祖霊社の間を抜けると左に下拝殿から続く上拝殿へのやや急な石段、右に御神体である神奈備山への道である「一ノ宮参拝道」につながる緩やかな石段があります。
一ノ宮奉拝所の一つ |
一ノ宮参拝道は本殿を囲む形で一周しており、御神木に併せて全国の一の宮の奉拝所が五畿七道ごとに設けられています。
上拝殿への石段 |
上拝殿へは長い石段を上りますが、手すりも設けられています。
上拝殿 |
ここまで来ると、周りは鬱蒼とした森と苔むした岩で囲まれており、静かで神聖な空気が感じられました。
神門 |
上拝殿の先には神門があり、さらにその奥の内陣に建つ本殿が見えます。
通常ここからは立ち入り禁止 |
本殿を囲む壁は格子状になっているので、近付けば中の社殿を垣間見ることが出来ます。
熊野貴平神社と南木神社 |
本殿向かって左手には熊野貴平神社(熊野神社(祭神:伊邪那美神、須佐之男神)と貴平神社(祭神:須佐之男命、大国主命、青箭高鈴彦命))と南木神社(祭神:楠木正成)が鎮座しています。
利雁神社・郡天神社・皇大神社 |
また、本殿向かって右手には皇大神社(祭神:天照皇大神、大物主神、事代主神。別名:支子大神宮、河内大神宮)、郡天神社(祭神:菅原道真、事代主命、大国主命)と利雁神社(祭神:保食神、八幡大神、天児屋根命)が鎮座しています。
これらは本殿並みに立派な社殿で、郡天神社は西浦村大字東阪田の郡天神社を、利雁神社は西浦村大字尺度の利雁神社(式内社)を明治時代に合祀したものです。
なお、通常神門から内側には入れませんが正月など限られた日時には解放されているようです(元旦は確認済み)。以下は2020年(令和2年)元旦の本殿周辺の様子です。
本殿(2020年1月) |
利雁神社・郡天神社(2020年1月) |
美具久留御魂神社は氏地が広く、交通の便も比較的良いことなどから正月三が日などは多くの初詣客で賑わいますので、本殿を間近で静かに参拝するなら早朝が良いと思われます。
伺候所 |
本殿参拝後は周辺の境内社などを回ります。まず、上拝殿の左手にあるのは伺候所(しこうじょ。その後取り壊し?)。
嘉喜門院御廟所(右) |
また、下拝殿右手にある祖霊社よりさらに外側(北側)に、嘉喜門院御廟所(かきもんいんごびょうしょ)と地蔵尊があります。嘉喜門院は南朝後村上天皇の女御であった南北朝時代の女院で、歌人として知られています。
支子稲荷神社への石段 |
下拝殿の裏手から右に折れ整備された石段を上ると、その先に赤い鳥居が並んでいるのが見えます。
支子稲荷神社 |
赤い鳥居の先にあるのが支子稲荷神社(きしいなりじんじゃ)で、幣垣稲荷大明神とも呼ばれ、御祭神は宇迦之御魂神となっています。
一ノ宮参拝道へはこの支子稲荷神社付近にある「畿内」から始まるようですが、一本道ではなく枝分かれしているところも多いので注意が必要です。
白雲宮の御祭神は、神武天皇・皇后(媛蹈鞴五十鈴媛)、後醍醐天皇・皇后(藤原禧子)、(珣子内親王)、後村上天皇・皇后(藤原勝子)、長慶天皇・皇后、後亀山天皇・皇后となっています。
白雲宮の辺りから上には数か所の一の宮遥拝所やなみだれの梅、古墳群等がありますが、山道のようになるので歩きやすい靴で参拝しましょう。
神奈備山頂付近には美具久留御魂神社裏山古墳群(宮神社裏山古墳群)があります。この古墳群は4基の古墳からなり、説明板のある1号墳は古墳時代前期に造られた前方後円墳だったようです。
同じ丘陵上の当古墳群のすぐ南には、かつて真名井古墳をはじめとした宮前山古墳群がありました。
本殿を中心に一ノ宮参拝道を反時計回りに回り下山してくると、最後にこちらの英霊社があります。
この駅は、明治44年(1911年)8月1日の河南鉄道による新設から大正9年(1920年)4月1日に休止されるまでは「宮ノ前」停留場という名称でした。
古墳手前の結界 |
白雲宮の辺りから上には数か所の一の宮遥拝所やなみだれの梅、古墳群等がありますが、山道のようになるので歩きやすい靴で参拝しましょう。
美具久留御魂神社裏山古墳群説明板 |
神奈備山頂付近には美具久留御魂神社裏山古墳群(宮神社裏山古墳群)があります。この古墳群は4基の古墳からなり、説明板のある1号墳は古墳時代前期に造られた前方後円墳だったようです。
同じ丘陵上の当古墳群のすぐ南には、かつて真名井古墳をはじめとした宮前山古墳群がありました。
英霊社 |
本殿を中心に一ノ宮参拝道を反時計回りに回り下山してくると、最後にこちらの英霊社があります。
イメージキャラクター
美具久留御魂神社にはイメージキャラクターの「みぐくるん」がいます。このキャラクターは神社の歴史をうまく表していて、二上山の形の頭部に太陽を表す宝鏡、首には五色の大蛇の勾玉、右手に大国主命が潜った山河の流れを象徴する笏?、石川の流れを表した水色の衣に神事の浅沓といういで立ちです。下拝殿周辺で目撃されることが多いようです。みぐくるん |
旭ヶ岡駅跡
一の鳥居がある国道170号(旧道)「桜井」交差点から国道170号(外環状線)「宮前」交差点に向かう間に近鉄長野線の踏切がありますが、この付近にかつて「旭ヶ岡」駅がありました。旭ヶ岡駅跡(2017年10月撮影) |
この駅は、明治44年(1911年)8月1日の河南鉄道による新設から大正9年(1920年)4月1日に休止されるまでは「宮ノ前」停留場という名称でした。
その後、大正12年(1923年)12月28日、100mほど南に移設され「旭ヶ岡」駅として復活。昭和20年(1945年)6月1日休止、そして昭和49年(1974年)7月20日正式に廃止されました。鉄道会社も大阪鉄道、関西急行鉄道、近畿日本鉄道と変わりました。
なお、旭ヶ岡駅跡付近は高架化工事が進められています。
アクセス
公共交通機関では、近鉄長野線「喜志」駅西口から出て200mほど西の国道170号(外環状線)の「旭ヶ丘南」交差点を左折します。500mほど進んだ先の「宮前」交差点を右に曲がると神社が見えます。車では、富田林市北部の国道170号(外環状線)「宮前」交差点を目指し、羽曳野・藤井寺市方面からは右折、富田林・河内長野方面からは左折すると100mほど先に注連柱が見えます。
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