降幡神社跡(南河内郡河南町) ・大伴氏の伝説の地を見守った古社

降幡神社

2020年4月訪問
降幡神社跡(ふるはたじんじゃあと)は大阪府南河内郡河南町大字山城にある神社の跡です。寺内町である大ヶ塚にほど近い高台の上にかつてあった神社の跡地とされますが、今も祠や石碑などがあります。

降幡神社跡(南河内郡河南町)
降幡神社跡(南河内郡河南町)

もともとは周辺の地名にもその名を残す古代豪族が祖神を祀ったとされる神社でしたが、現在は近くの式内社である壹須何神社(一須何神社)に合祀されています。

歴史と概要

降幡神社(降旗神社とも)の正確な創建年は不詳です。平安時代に編纂された歴史書「日本三代実録」の清和天皇貞観十五年十二月條には「授河内国正六位上天押日命神従五位下」とあることから貞観15年(873年)にはすでに存在しており、天押日命(天忍日命・あめのおしひのみこと)を祀っていたと考えられています。

御祭神は天忍日命の他に、日子番能迩迩芸命(瓊瓊杵尊・ににぎのみこと)、日子穂穂手見命(火折尊・ほおりのみこと)、鵜葺不合命(鸕鶿草葺不合尊・うがやふきあえずのみこと)、神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと=神武天皇)とされますが、大正時代に刊行された「大阪府全誌」などでは、天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)、天津彦火瓊々杵尊、彦火々出見尊、彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊、神日本磐余彦尊となっているようです。

これらは表記は違うもののほぼ同じ神々を指していますが、主祭神と思われる神が天忍日命と天忍穂耳命でまるで別の神となっています。天忍日命は天孫降臨の際に瓊瓊杵尊に随伴し先導した神で、古代豪族の大伴氏の祖神とされます。一方の天忍穂耳命は天照大御神(あまてらすおおみかみ)の子で、地神五代の二代目とされる神で瓊瓊杵尊の父に当たります。

郷土史や現地説明板によると、この辺りは古代豪族大伴氏ゆかりの地で、日本書紀には敏達天皇12年(583年)に大伴糠手子(おおとものぬかてこ)らが、百済の王に仕えた日本人官僚である日羅(にちら)が暗殺された後、その妻子を石川百済村に、水手(かこ。船乗り)を石川大伴村に置いたとされる石川大伴村の伝承地とされます。その大伴村で大伴氏の支族がその祖神を祀ったことが降幡神社の始まりと考えられています。

これらのことから、平安時代の記録にあるように本来の御祭神は天忍日命を祀っていたものが、後に名が似ている天忍穂耳命と混同されるようになったとも考えられます。



降幡神社跡がある山城地区は、奈良時代から平安時代頃には「山城郷」または「山代郷」と称されていたようです。この「山代」の名は奈良時代に山代忌寸(いみき)一族などの山代氏がこの地を本拠地としていたことに由来するとされています。忌寸とは「八色の姓」で新たに作られた姓(かばね)です。

江戸時代には河内国石川郡山城村で、降幡神社は山城村の他に、千早川を挟んで西側にある北大伴村、南大伴村の鎮守でもあったようです。明治時代終わりごろの鎮座地の住所は南河内郡大伴村大字南大伴字宮ノ前となっており、現在は山城が河南町、南北両大伴が富田林市となっていまが、当神社の氏子地の地名に大伴氏の名が残っているということになります。

ちなみに、旧大伴村大字山中田(現在の富田林市山中田町)には平安時代の歌人である大伴(大友)黒主夫妻の墓所と伝わる夫婦塚があり、黒主を祀る大伴黒主神社もありますが、こちらの「大伴」氏は本来「大友」氏で、古代豪族とは直接のつながりはないようです。

降幡神社跡(南河内郡河南町)
説明板

明治40年(1907年)に500mほど北の大ヶ塚に鎮座する式内社、壹須賀神社に合祀されました。旧社地に祠などが建てられたのは昭和に入ってからのようで、境内入口の柱には「昭和六拾壱年」?と刻まれています。

なお、降幡神社の社名の由来としては、かつて神様(主祭神)がこの地で休息された時に幡(旗)を下賜され、その幡をお祀りしたという伝説があるそうです。

神社跡の様子

降幡神社跡は大ヶ塚から谷を挟んで南西側の高台の上にあります。大阪府全志によると、かつての降幡神社は境内735坪、あるいは東西31間半(約57m)、南北26間(約47m)の境内に社と拝殿、木の一島居と石のニノ島居があり、さらに幅2間4尺(約4.8m)、長寸32間(約58m)の馬場もあったようです。

また、この高台付近では奈良時代から平安時代の建物や井戸、溝などの遺構を多数く検出しており、これらは当社の西側にあったとされる山城廃寺に関連する建物群のもと想定されています。

降幡神社跡(南河内郡河南町)
祠と楠

降幡神社跡へは、旧山城村の集落の中心であった北側から高台に上るコースがありますが、東側の大ヶ塚方面から向かうと、すぐに地車小屋、老人集会所、そしてその上の大きなクスノキが見えるので、こちら側からの方がわかりやすいかもしれません。なお、周辺に神社跡への案内板などは見当たりませんでした。

高台の上に見える、ひと際大きなクスノキが降幡神社跡の目印です。境内の入口や社号票、本殿などはほぼ西向きとなっています。

降幡神社跡(南河内郡河南町)
社号標

こちらのクスノキはかなり大きな古木で、かつては御神木だったと思われます。降幡神社跡はその枝葉が傘の様に覆っています。さらに合祀後に再建された降幡神社の土台、石垣、石段、玉垣、そしてお社までが成長したクスノキの根に持ち上げられて傾いてしまっているようで、一部は木に飲み込まれそうになっているように見えます。

数メートル四方の境内もかなり足場が悪くなっており、木の根を踏むのも憚られるので少し手前から参拝。

降幡神社跡(南河内郡河南町)
北大伴の方が復興した事を記した碑

石段の手前左手に、北大伴の住人の遺言により降幡神社を復興したことを顕彰する昭和に立てられたと思しき石碑と、河南町教育委員会による説明板があります。

降幡神社跡(南河内郡河南町)
本殿

石段を上ると二上山から葛城山に連なる山々を背景に、降幡神社のお社(本殿)が鎮座しています。本殿は若干左に傾いており、数年前の台風の影響か、かなり破損しておりお社の一部が近くに放置されているようにも見えます。

降幡神社跡(南河内郡河南町)
境内社

本殿に向かって左側には摂社と思われる祠があります。こちらも少し後ろに傾いていて、屋根などが破損しているようです。数々の御祭神の内、どの神様がこちらに祀られているのかは不明です。

降幡神社跡(南河内郡河南町)
南側の斜面から

現在、降幡神社跡の東側の斜面下には山城地区の老人集会所があり、さらに東には山城地区の地車(だんじり)小屋があります。

また、北約400mの同じ山城地区の田んぼの中には「蛙田不動尊(かりたふどうそん)」と呼ばれる不動尊が祀られています。

アクセス

近鉄長野線「富田林」駅から金剛バスに乗り「大ケ塚」バス停下車。バス停から「大ヶ塚」交差点とは逆(西)に20mほど戻ると南の高台に上る舗装された道路があるのでその坂を上り、約200m進んで左折すると約60m先(東)に降幡神社跡があります(北側からのコース)。

降幡神社跡(南河内郡河南町)
中央の大木の下が神社跡(右は地車庫)

また、バス停のすぐ東にある府道27号柏原駒ヶ谷千早赤阪線と府道33号富田林太子線の「大ケ塚」交差点から170mほど南東へ進み、右折すると山城の地車小屋前を通って神社跡へ行けます(東側からのコース)。

なお、降幡神社跡周辺は農地で、付近に駐車場はありません。

Furuhata Shrine Ruins(Kanan Town,Osaka Prefecture)


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