杭瀬熊野神社
2020年1月訪問
杭瀬熊野神社(くいせくまのじんじゃ)は兵庫県尼崎市杭瀬本町にある神社です。大阪府大阪市から福岡県北九州市に至る国道2号線沿いにあり、阪神電鉄杭瀬駅からも近い街中の神社でありながら、境内は静かで落ち着いた空気を感じられます。
杭瀬熊野神社(尼崎市) |
社名から熊野信仰に基づく神様を勧請した神社かと思われますが、城下町として栄えた尼崎の東側に、計画的に建てられた神社という側面もあるようです。
歴史と概要
社伝によると、杭瀬熊野神社の創建は、江戸時代初期の元和年間(1615年~1624年)とされていますが、これは戸田氏鉄(とだうじかね)による尼崎城築城と同時期であることから、城下町尼崎の建設において杭瀬熊野神社が城の東に計画的に配置、造営されたものと考えられています。
御祭神は素盞嗚命、天兒屋根命、応神天皇となっていますが、「熊野神社」という社名からやはり熊野信仰にかかわりの深い素盞嗚命が主祭神でしょうか(熊野三所権現の内、家都御子神(けつみこのかみ)は素盞嗚命と同一視されています)。
この他に、境内社として稲荷神社と息長足姫神(おきながたらしひめのかみ=神功皇后)を御祭神とする「子安の池」、
クスノキの大木をお祀りした楠社の三社を擁しています。
鎮座地周辺はかつての摂津国川辺郡杭瀬村ですが、Web版尼崎地域史事典「apedia」によると、史料上に「杭瀬」という地名が見られるのは承徳3年(1099年)の「治部卿藤原通俊所領処分状案」に「杭瀬島」とあるのが初見で、平安時代末期以降には「杭瀬荘」とも呼ばれていたようです。境内の案内板には、日本の歴史上阪神間では「神崎」の次に登場する古い地名とも記されています。鎌倉時代に入ると入江を隔てて杭瀬と長洲が地続きに。江戸時代の初め、大坂の陣後の元和3年(1617年)に尼崎藩領となり、この頃に当社が創建されました。江戸時代には「熊野新宮権現社」などとも称されていたようです。
説明板 |
杭瀬村には氏神である熊野神社の他に春日大明神社と八幡宮があったようですが、現在の当社の御祭神に天兒屋根命と応神天皇が祀られているのはこれらを合祀したためでしょうか。
氏子地区の案内板 |
杭瀬村は明治22年(1889年)に周辺の長洲村、梶ヶ島村などの村々と合併し小田村になり、昭和11年(1936年)以降は尼崎市の大字となりました。社務所の壁の少し上の方には「杭瀬熊野神社の氏子教区(氏子地域の町会名)」というカラーの案内板が掲げられており、こちらに氏子地区の地図と共に今の町会名、昭和12~16年当時の小字名、町会名の付いた言い伝え・謂れが細かく記されています。
なお、杭瀬の東には梶ケ島、北には常光寺、西には大物、そして尼崎の城下町が広がっていました。
現在の尼崎市域には西難波(にしなにわ)、杭瀬、若王寺(なこうじ)に熊野神社が鎮座していますが、一説には紀伊、大和から摂津尼崎方面への航路が、往時の熊野詣の帰路に用いられ、海路の熊野の一王子としてこれらの熊野神社が勧請されたことが指摘されています。熊野権現については大阪府松原市の十二社権現宮や大阪狭山市の池之原神社の記事でも触れています。
●杭瀬熊野神社 公式ホームページ →http://kuise.com/
●杭瀬熊野神社 公式Instagram →https://www.instagram.com/kumagooro/
祭礼
杭瀬熊野神社の年中行事は、正月の元旦祭から始まり他の神社同様に様々な祭事が執り行われますが、通常2月の初午の日に行われる稲荷祭が、4月の隣接する認定こども園「くいせようちえん」の入園式の日に行われます。
7月の夏越祓(夏祭り)は杭瀬が一番賑わう祭で、拝殿前には夏越の厄払いの「茅の輪」が設置される他、拝殿の中では御神楽(おかぐら)が奉奏されます。また、境内や神社の周り(宮前公園など)にたくさんの夜店が並び、境内ではお祭りファッションコンテストやお楽しみ抽選付きの御神籤が用意されるなどかなり盛り上がります。
10月には2日間でこども神輿などが町中を巡幸します。また、4年に1度、例大祭前日に稚児行列が行われます。
境内
現在、杭瀬熊野神社は国道2号のすぐ南、阪神杭瀬駅からも近いという立地にありますが、前述のように、普段の境内は静かで、木々も多く厳かな雰囲気が漂っています。
境内は南西から北東にかけて細長く、60mほどあります。かつては東側にも境内が広かったのか、関連する幼稚園が境内に建てられたようで、玉垣が「くいせようちえん」の敷地も囲っているように見えます。
南側の鳥居 |
杭瀬駅から北に向かうと、杭瀬熊野神社南側に建つ石造りの鳥居が見えて来ます。境内は玉垣で囲われており、鳥居、参道、社殿と南西を向いていますが、これはかつての杭瀬村の集落が南西にあったためかと思われます。
参道右手の説明板と手水舎 |
鳥居をくぐると、石畳の参道が拝殿に向かって伸び、手前の右側に説明板と手水舎があるのが見えます。
社務所など |
一方、参道の左手には社務所などの建物があります。
手水舎 |
説明板の拝殿寄りにある大きな屋根のある手水舎には神紋(下がり藤紋)のついた幕が張られていました。
拝殿 |
鮮やかな朱色の映える拝殿前には大きな石灯籠と狛犬があります。
拝殿と本殿覆 |
本殿は檜皮葺流造で当社が創建された元和年間に造営されたものです。かつての本殿覆および拝殿は瓦葺流造でしたが、老朽化が進み損傷が激しくなってきたため、平成4年(1992年)に鉄筋コンクリート造りで再建されました。これは当時の天皇陛下(現上皇陛下)が即位の御大典を斎行されたことをお祝いし、平成の大御代を寿ぐ事業として行われ、ほぼ原形のまま造営されたそうです。
ちなみに、鉄筋コンクリート造りとなったのは、杭瀬熊野神社が国道2号沿いのために木造が不許可だったからだそうです。
子安の池への参道 |
参道を少し戻り、手水舎付近から拝殿に向かうと、右側に参道がわかれており、その先に池に囲まれた小さなお社があります。
池には鯉も |
こちらが息長足姫神、つまり神功皇后を御祭神とする「子安の池」で、「この池の水を呑めば子宝に恵まれる」と地元で永く言い伝えられており、尼崎の民話集にも掲載されているそうです。
子安の池の説明板 |
もともとは熊野神社の東にある幼稚園に隣接して鎮座していましたが、老朽化と安全面を考慮して現在の場所に移されました。
稲荷神社 |
拝殿に向かって右側には、稲荷神社があります。
御祭神は宇迦魂神 |
鳥居の額に「宇迦魂神」とあることから御祭神は宇迦之御魂神と思われます。
奉公塔 |
子安の池と稲荷社の間、境内の東の端には「奉公塔」が建っています。下の段に「軍人会」とあり、かつてはこの台座の上に奉納砲弾があったとも。
この「奉公塔」の文字は「陸軍中将本庄繁書」とありますが、この本庄繁という人物は兵庫県出身の軍人で、第10師団長、関東軍司令官、侍従武官長を歴任し、退役後は軍事保護院総裁や枢密顧問官を務めたそうです。最終階級は陸軍大将。正三位勲一等功一級男爵。
楠社 |
稲荷神社の反対側、拝殿に向かって左側には楠社があります。
切り株の上に祀られた祠 |
かつて、杭瀬熊野神社には樹齢千年ともいわれるクスノキの大木があり、境内に鬱蒼と茂っていたそうですが、国道2号線敷設の際にやむなく伐採したそうです。その後、クスノキの切り株の上に祀られたのがこちらの楠社です。
北(国道)側の注連柱 |
楠社と社務所の間を奥に進むと、社殿のそばに「明治百年記念碑」があり、その先に注連柱があって国道2号に面した北側の出入口となっています。
国道側の社号標 |
北側は裏参道となりますが、注連柱の横には自然石を利用した立派な社号標が建っています。
石神守神 |
また、境内の北端、注連柱の少し西側には「石神守神」と刻まれた碑がありました。
杭瀬熊野神社は、杭瀬村の氏神として杭瀬駅、国道2号の南北に広大な氏子地区を持ち、現在も夏祭りなど様々な形で地域の人々と共にある神社と感じられました。
アクセス
阪神電鉄本線「杭瀬」駅から宮前公園の西側を通って北に約70m進むと杭瀬熊野神社南側の鳥居があります。
国道2号「杭瀬」交差点からは東に40mほどの南側に、神社北側の出入口(注連柱)があります。
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