住吉神社
2020年10月訪問
住吉神社(すみよしじんじゃ)は大阪府河内長野市小山田町にある神社です。
滝畑ダムから北東に流れる石川左岸の段丘上にある神社で、その周りは木々に囲まれていますが、南側には広大なグラウンドを持つ
赤峰市民広場や様々な施設が造られています。
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住吉神社(河内長野市)
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境内南側には長い直線の参道がありますが、こちらは神事で馬場として使用されます。河内長野市内の観光名所などの案内では、裸馬の手綱を持って境内の馬場を駈け廻る「馬駈神事」が執り行われる神社として紹介される広い敷地を持った神社です。
歴史と概要
社伝によると、住吉神社の創建は神功皇后(じんぐうこうごう)摂政52年(252年)とされており、御祭神は表筒男命(うわつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、底筒男命(そこつつのおのみこと)のいわゆる住吉三神と、息長足姫命(おきながたらしひめのみこと=神功皇后)、そして武内宿禰(たけうちのすくね)となっています。また、本殿前には天神社(菅原神社)と戎神社(事代神社)が、境内南側には髙天原神社や諏訪社といった境内社がある他、本殿の外周には様々な神様の名を記した石柱などが祀られています。
かつては、由緒記にある住吉大明神をはじめ、五社大明神、豊浦神社、清崎神社などとも呼ばれていたようですが、明治の初めに今の住吉神社に改められました。とはいえ、大正時代に刊行された大阪府全志などでは清崎神社と表記されています。
江戸時代の書物には小山田の氏神である五社大明神の御祭神は薬師・阿弥陀・大日・観音・地蔵といった現在の御祭神とかかわりの深い五仏とされ、神仏習合の時代を良く表しています。境内には神宮寺があったようで、現在も西側鳥居のそばに鐘楼が残されています。
当社本殿から直線距離で300mほど西北西には現在の小山田住吉神社の元となったといわれる「小山田元宮」があり、元宮御祭佛として「地蔵王菩薩 大日如来 阿弥陀如来 薬師如来 無量寿如来 観自在菩薩」が祀られている他、こちらでは奈良時代の押出仏如来三尊像が発見されました。また、元宮の約250m南西には
小山田金刀比羅宮もあります。
境内には新旧の由緒記(説明板)がありますが、古い方の説明板にはここ小山田の住吉神社の始まりに関し要約すると以下のような由緒が記されています。
第14代仲哀天皇の后である神功皇后は、三韓征伐に際して住吉三神に深く祈願され勝利を収められました。凱旋の後に天下を巡行された神功皇后は、当社の3kmほど北西にある和泉国逆瀬川(現堺市南区逆瀬川)の上の「騰跎船」という地に到着し、そこから河内国に向かうにあたり弓を引き、矢の落ちた場所を目的地とされました。国境には名主の與三五郎(?)という者が出迎え、当社南方の髙天原と呼ばれる地に案内しました。
それから50年ほど後の神功皇后摂政52年に、皇后はこの地に斎宮を建立され、自ら神主となって御祭祀を行われました。
当社の鎮座する小山田周辺には神功皇后の三韓征伐やその凱旋時に関連した言い伝えや地名などが多いようです。
神功皇后は神功皇后摂政元年、大和への帰還中に麛坂皇子・忍熊皇子の反乱に遭いました。その際に摂津国で住吉三神を祀りましたが、その地に鎮座するのが現在大阪府大阪市住吉区住吉にある式内社で摂津国一宮である住吉大社とされます(創建は神功皇后摂政11年)。住吉大社は小山田の住吉神社とも深いつながりがあったようで、住吉大社の祭祀には小山田からも人足が出向いていたそうです。
ちなみに、神功皇后が三韓征伐から凱旋された頃に創建されたとする神社は多く、大阪府で有名な神社としては住吉大社や
開口神社、坐摩神社(いかすりじんじゃ)が、兵庫県では廣田神社などが知られています(尼崎市梶ケ島の
梶ケ島住吉神社にも関連する伝説あり)。
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新しい由緒記 |
住吉神社の本殿は、文化10年(1813年)に江戸時代後期の特色をよく伝える流造に建替えられましたが、それまでの本殿は神功皇后により建立されたものだったそうです。
明治5年(1872年)に旧社格で郷社に列し、明治40年(1907年)1月には神饌幣帛料供進指定社となりました。また、大阪府全志によると、同じく明治40年12月26日に旧下里村の
青ヶ原神社(青賀原神社)と旧天野山村の高瀬神社を合祀しました。青ヶ原神社は国津神(久爾津神・九頭神)、高龗神(たかおかみのかみ)、保食神を(現在は丹生大明神、高野大明神、久爾津神、稲荷大明神)、高瀬神社は高龗神を祀っていた神社です。ちなみに、高龗神は水神であり、京都の貴船神社の御祭神として知られている他、南河内では羽曳野市にある式内社、
大祁於賀美神社でも祀られています。なお、現在青ヶ原神社は下里町に復社しているようです。
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古い由緒記
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住吉神社の鎮座地は、かつての河内国錦部郡小山田村で、明治22年(1889年)に下里村、天野山村の区域と合わせて天野村が発足。明治29年(1896年)に所属郡が南河内郡に変更されます。この当時の住所は南河内郡天野村大字小山田字尾上山。天野村は昭和15年(1940年)に長野町、千代田村と合併し、改めて発足した長野町の一部となります。昭和29年(1954年)に長野町が三日市村、高向村、天見村、加賀田村、川上村と合併して現在の河内長野市が発足しました。
現在の氏地は、かつての小山田村(現小山田町、荘園町)、下里村(現下里町、緑ヶ丘)、天野村(天野町)、与通(よつ。現松ヶ丘町、楠町周辺)の区域となっています。ちなみに、与通という地名は弘法大師ゆかりの地名で、「四鉤樟(よつるくすのき)」や「四つ樟」などが変化して「与通」になったようです。古い地図では「四津」、「四通」、「代津」、「與津」、「與通」などの表記も見られます。後に町名変更されましたが、今も盛松寺の通称「與通大師(よつだいし)」などにその名を残しています。
仲哀天皇陵との関係
小山田住吉神社に神功皇后の夫である仲哀天皇は祀られていませんが、「日本書紀」には仲哀天皇が筑紫香椎宮で崩御された後に「斎宮を小山田邑に造らせられた」、「河内国長野陵に葬った」との記事があることから、当社の鎮座する丘陵の南端にあった古墳を仲哀天皇陵とする説もありました。しかし、現在は宮内庁により藤井寺市にある「
岡ミサンザイ古墳」が仲哀天皇陵として治定されています。なお、当社南の古墳があったとされるのは小山田村に隣接する上原村で、そこに鎮座していた西山神社は明治時代に当社から1kmほど東の
西代神社に合祀されました。
祭礼
住吉神社の祭りとしては秋の馬駈神事が有名です。これは、氏子崇敬者約80人が、神社役員、総代の指示にて裸馬の手綱を持って、境内の馬場を駈け廻るという神事で馬には乗らないのが特徴です。裸馬は13頭で、当日は1000人以上もの参拝者が訪れるそうです。神馬を先頭に、氏子がぞれぞれ奉納した馬の手綱をとって約200mの馬場を駆け抜ける勇壮な神事ですが、これは神功皇后摂政52年に神功皇后御征韓祝賀のため裸馬の競走を催したことに始まると伝えられています。
なお、この神事はかつて毎年10月12日に執り行われていましたが、平成5年(1993年)からは体育の日に斎行されています(令和2年(2020年)から令和3年(2021年)にかけてはコロナ禍やオリンピックの関係でこの限りではありません)。。
小山田にも地車(だんじり)があったそうですが明治期に原(現河内長野市原町)へ売却しているようです。また、氏地である松ヶ丘町や楠町(いずれもかつての与通)のだんじりは、現在同市市町にある
千代田神社に宮入しています。
境内
現在、住吉神社への入口として一般的に使用されているのは南側の赤峰市民広場前からの参道です。
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南側の参道入口
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赤峰市民広場の中央入口の向かい付近に住吉神社参道の石標がありますが、最初の80mほどは周辺の福祉施設などへ通じる道路として共用されています。
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左右に分かれる参道
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約80m進むと、参道は広くて長い直線の砂利道となります。参道は左右に分けられていて、左側は車も通れ奥の駐車場に通じています。一方の右側には石造りの鳥居などがあります。
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参道南側から
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右側の参道の左右には玉垣が整然と続き、奥の方に社殿が小さく見えます。馬駈神事はこちらで行われるようです。
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参道右側の境内社への道
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しばらく歩くと右手に延びる細い道があります。
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髙天原神社 |
細道の先には境内社の髙天原神社があります。こちらは前述の由緒記にあった地名と関係しているのでしょうか。
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社殿の手前右側の赤い鳥居
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参道に戻りさらに進むと、右手に小さな池があり、その隣に赤い鳥居が見えて来ます。
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諏訪社
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こちらも境内社の諏訪社となっています。
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参道北側から
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諏訪社の左手には新しい方の由緒記があります。ここで参道入口の方を向くと改めて参道(馬場)の長さを感じられます。
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駐車場
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なお、左側の参道を進むと社殿の手前にある駐車場に至ります。
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絵馬殿と掲示板
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駐車場の奥にある建物は絵馬殿で、その入口は社殿のある東側となっています。
南側の参道を北に進み社殿の前まで来ましたが、ここで拝殿や本殿を見ると西を向いていることがわかります。これは、住吉神社がもともと小山田村の氏神で、その小山田村の集落は神社の北西にあるためと思われます。実際、社殿の向いている西側には立派な鳥居があり、その先には下りの石段が続いています。
そこで、一度石段の下まで降りて改めて正面から参拝しました。
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正面参道の石段 |
石段の下から神社の方を見上げると、広くて立派な石段が50mほど続いていることが改めてわかります。
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社号標
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最初の石段を上ると左側に「郷社 住吉神社」の社号標が建っています。
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西側(正面)の鳥居
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石段を上り切った先には「住吉宮」の額が掲げられた両部鳥居があります。両部とは密教の金胎両部(金剛・胎蔵)のことで、神仏習合を示す名残ともいわれているそうです。
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鳥居付近から見た拝殿
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鳥居をくぐるといくつかの燈篭が並ぶ参道の先に拝殿が見えます。
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土蔵と鐘楼
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参道の左側には神職の方の住居のような建物がありますが、右側には土蔵と仏教寺院の名残ともいえる鐘楼が建っています。
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手水舎
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拝殿前の参道左手に手水舎があります。
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手水鉢
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手水鉢はかなり大きな石を加工したもののようです。この先は拝殿前の広場となっています。
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神馬像
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拝殿前の広場に出ると、右手に古い方の由緒記や神馬像があります。
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拝殿
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拝殿前には石造りの鳥居と3対の石燈籠が並んでいます。多くの人が使用すると思われる南側の長い参道(馬場)や駐車場は拝殿の右手となります。
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社務所
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拝殿に向かって左手には社務所などがあります。絵馬掛けも多数。
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透塀の中の本殿
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本殿の周囲には塀があるので近付くことは出来ませんが、透塀となっているため、拝殿の側面に回るととても立派な本殿が見えます。なお、手前の朱色の透塀には多数のおみくじが結び付けられています。
塀の内側の本殿前、向かって右側には天神社(菅原神社)と戎神社(事代神社)の社があります。
また、本殿を囲う塀の外周には様々な神様の名を記した石柱などが一定間隔で配置されているので、以下拝殿右側から左回り(反時計回り)にご紹介します。
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「多賀大明神」
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「稲荷大明神」
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「粟嶋大明神」
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「春日大明神」
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「天照皇太神宮」
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「四柱大明神」 |
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「八百萬神」
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小祠
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拝殿左側から見た本殿 |
現在、河内長野市北西部に広大な氏子地区を持つ小山田の住吉神社は、神功皇后が創建したと伝わる歴史ある神社で、その神域も最大で東西約130m、南北約250mはありそうです。立派な社殿と美しい境内を持つ、普段は静かで厳かな空気を感じられる住吉神社ですが、祭礼では勇壮な神事も執り行われるなど見どころの多い神社といえます。
アクセス
国道170号(外環状線)「上原町」交差点を西に進み、約550m先の「消防本部前」交差点を右折します。さらに400mほど進むと赤峰市民広場前の「住吉神社」の看板のある所で左に入ると住吉神社南側の参道入口となっています。車の場合は左側の鳥居の無い方を進むと奥に駐車場があります。
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赤峰市民広場前の看板
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公共交通機関の場合は、南海高野線「千代田」駅、あるいは南海高野線・近鉄長野線「河内長野」駅などから南海バスに乗り「福祉センター あかみね」バス停で下車し50mほど東に歩くと上記の「住吉神社」の看板がある南側参道入口となっています。
隣に「神社前」というバス停もありますが、こちらからは神社の裏手にあたる東側の参道の方が近いです。こちらのバス停で下車した場合はすぐ側の信号のある交差点を西に入り約150m進むと左側に「住吉神社参道」と彫られた石柱と階段が見えます。
Sumiyoshi Shrine(Kawachinagano CIty,Osaka Prefecture)
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